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2 父の死

 誠一郎の病床は五畳ほどの小さな客間だ。中央に敷かれた布団に()している。部屋の端には文机(ふづくえ)と卓上箪笥(たんす)があり、隣の部屋とは(ふすま)で仕切られている。


 部屋に入ると腐臭が鼻をついたが、この匂いにももう慣れてしまった。


「お父さん、起きてますか」

「……あぁ……」


 誠一郎は掠れた声を絞り出し、目だけでこちらを見た。


 彼はもう、自力で寝返りも打てない状態だ。体からは腐臭と、独特な酸っぱい匂いがする。死を目前にした人の匂いだと、村医者は言っていた。その宣告を最後に、医者は病床に上がるのを拒むようになった。彼も弥次郎の手中に落ちたのだろう。


「体の痛みはどうですか? 肩を擦りましょうか」

「いや……平気だよ。不思議と、もう、どこも痛くないんだ……」


 どこも痛くないと誠一郎は小さく笑ったが、志乃の目にはそうは見えない。どこをどう見ても痛々しい体をしている。


 彼は左足の太腿から下を切断している。元は(すね)を釘に引っ掛けただけの小さな傷だったのだが、そこから壊死が全身に広がり、坂を転がり落ちるように病が増悪していった。

 元気だった頃は米俵を片手で担ぐほどの力持ちだったが、今では枯れ枝の体になってしまっている。


 薄い肩を擦りながら、志乃は心を決めて話し始めた。


「お父さん、謝らなければいけないことがあります。山畠(やまはた)家の平馬さんとの縁談ですが……白紙になってしまいました」

「そう……か」

「その流れで、新しくトキ子と平馬様の縁組が決まりました……」

「……なるほど」


 誠一郎は目を閉じて、静かに息を吐いた。詳しく説明せずとも、状況が理解できたようだ。

 無理を押して、彼は明るい声を上げた。


「志乃ほどの良い女を振るなんて、平馬とやらは大馬鹿者に違いねぇな」

「良い女、ね……。不器量だから振られてしまったんですよ」

「何言ってんだ……。お前はとんでもない器量良しだよ。こんな荒んだ家の中で、まだこうして二人生きてるってのが、その証だ。お前が頑張って立ち回ってくれていたお陰だよ。本当に、ありがとう……。……ごめんな、志乃」


 しぼり出された言葉を聞いて、志乃の視界が滲んだ。今日の誠一郎はよく喋る。いつもは一言二言喋ったら、もう疲れて眠ってしまうのに。


「……でも、もう頑張らなくていい。弥次郎とはもう、戦わなくていい……。本当に、苦労をかけてすまなかった」

「……え? お父さん?」

「そこの箪笥の……一番下の物を、出して、くれないか」


 いつもとは違う誠一郎の様子に動揺しながら、志乃は文机の上にある小さな箪笥の引き出しを開けた。


 中には巾着袋と封書が二通入っていた。

 そのうちの一通に『遺言書』の字を読み取って、志乃は手を震わせた。


「お父さん……っ、これ……」

「遺言書と、知人への手紙だ。遺言書は、弥次郎に渡してくれ……。もう一通の、手紙は、できれば直接、宛名の家に預けてほしい。それと……家の金を、いくらか分けておいたから、お前に……」


 志乃の目から涙がこぼれ落ちた。


 こんなもの、見たくなかった。手に取りたくなかった。遺言書と遺産を渡すなんて、まるで最後のお別れみたいじゃないか。


 死を目前にした重病人だということは理解していたけれど、いざ突きつけられると心が耐えられそうにない。

 喉が震えて返事もできないでいる志乃に、誠一郎は優しい声音で言葉を続ける。


「金は、弥次郎の奴に取られないよう、厳重に隠しておくように。しばらくは、十分に生活できる、金だから……それを持って、早く、この家からお逃げなさい……。あいつの手がかかる前に……」

「そんな……!」


 横たわる誠一郎に縋りついて、志乃は声を荒げた。


「嫌です……! お父さんを一人にするなんて……! どうにかして弥次郎叔父さんから実権を取り戻しますから、お父さんと一緒に、できるだけ長くこの家で……っ」

「志乃!!」


 震えた泣き声は、誠一郎の声に阻まれた。病前を思い出させる凛とした声音で、彼は命じた。


「豊原家、家長としての最後の願いだ。お前はこの家を出て、幸せになりなさい」


 一家の大黒柱と呼ぶにふさわしい、威厳がありながらも優しい声。尊敬する、大好きな父の言葉。 

『家長として』なんて改まって前置きまでされたら、もう従う他ないではないか……。


 誠一郎はもう、すべてを見通したのだろう。

 弥次郎が暴君に成り果てること。それによって志乃が窮地に立たされること。その先にあるのが、豊原家の没落の未来であること――。


 それらを見通し、家を守ることを諦める選択をした。代々受け継いできたこの土地を、財産を、家名を見限り、すべてを捨てて、我が子一人を逃がす道を選んだのだ。

 家長として、どれほど悔しい選択だろう……。


 あふれ出てくる涙も、嗚咽も、もう堪えようがない。悲しさと悔しさに、幼子のように泣きじゃくりながら、頷くしかなかった。


「お父さん……わたしも、最後に一つだけお願いをしていい?」

「あぁ、なんだい……?」


 誠一郎は壮健だった頃を彷彿とさせる、純朴な微笑みを浮かべている。彼の笑顔に応えるべく、志乃も袖で涙を拭いて、笑ってみせた。


「実はお父さんに贈り物を用意しててね……完成したら、受け取ってくださいな。お母さんの古着を解いて、梅の造花を作っているの」

「……へぇ、それは、楽しみだな……」


 寝た切りで外にも出られない日々を過ごす誠一郎のために、志乃はいつも花瓶に花を活けて飾っていた。けれどいつからか、彼は枯れる花を自分に重ねるようになってしまった。


 そんな父のために、枯れない花を作ろうと思ったのだ。巾着袋いっぱいに作って贈ったら、きっと喜ぶだろうと思って、夜な夜な縫い進めてきた。


「もう四つ五つ作れば巾着袋がいっぱいになるから、作り終えるまでは側にいさせて」

「……うん。ありがとうな……志乃」


 誠一郎は疲れのせいか、ただでさえ細い息をフゥフゥと切らし、返事をくれた。


 早く家を出ろ、と命じられたけれど、できるだけ長く側にいたいから……ずるいお願いをしてしまった。ゆっくり、ゆっくりと縫えば、あと数日くらいは一緒にいられる猶予となる。


(駄々をこねてしまってごめんなさい、お父さん……)


 心の中で謝って、志乃は隣室に繋がる襖を開けた。


「お裁縫箱を取ってきますね」


 隣の部屋――志乃が使っている部屋には、来客用の布団やらが無造作に積み重ねられている。他にも座布団やら、束ねられた書物やらがある。本来この離れの部屋は物置として使われていたのだ。


 埃っぽい部屋の中に置かれた裁縫箱と、作りかけの造花が入った巾着袋を手にして隣の部屋へ戻った。


 襖を閉めてから、ふと誠一郎に目をやると、彼はまだ微笑みをたたえていた。


 そうして、柔らかな顔をしたまま――……息を、引き取っていた。


「え……嘘……お父さん……?」


 志乃は目を見開き、膝をついて誠一郎の顔に触れた。


 まだ温もりを感じるのに、今にも目を開けて返事をしてくれそうなのに……どれだけ待っても、そうはならなかった。


「……わたし……贈り物を……」


 取り落とした巾着袋からこぼれた造花が、父の上に散らばった。

 快癒を願って縫った花細工だったが、何の役目も果たせずに行き先を失ってしまった。


「……お父さん…………お父、さん…………」


 父の亡骸に縋りつき、母の形見で作った花細工に囲まれて。

 志乃は翌日の朝まで、一晩中、泣き通した。




 涙も声も、心までも枯れ果てた時、山間から朝日が登ってくるのが見えた。


 父のいない、誰一人として味方のいない、ひとりぼっちの一日が始まってしまった。



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