18 豊原家からの手紙と歩み出し
結婚式や紫紺の仕事など、都での用事が一段落ついた頃、二人は村へと帰ってきた。
志乃の指には結婚指輪なる装飾品が輝いている。この夫婦揃いの指輪を見ていると、改めて、気持ちが奮い立つ感じがした。
「自分は竜胆家当主の妻になったのだ。これから先、頑張っていかねば」と。
まず一番になさねばならない事は、跡継ぎをもうけること。……今、志乃の頭を最も悩ませている事柄だ。
それというのも、紫紺と寝室を共にしているというのに、今の今まで何もない、という状況なのである。
最初のうちは、気を遣われているのだろう、と思っていたのだが、紫紺の生い立ちを知るうちに、そうではないのだと気が付いた。恐らく、人間とはほど遠い木神に育てられたことで、そういう事柄に淡泊になってしまったのだろうと思う。
(……と、いうことは。わたしの方から行動しないと、床入りもままならないってことでは?)
志乃は庭の掃除をしながら、一筋の冷や汗を流した。
客取りの遊女ではないのだから、さすがに直接的な誘いは憚られる。しなだれかかるとか、色っぽい身のこなしでその気にさせるとか……そもそも、そういう技術は持ち合わせていない。
落ち葉を掃きながら、どうしたものかと考えているところに、ちょうど紫紺が通りがかった。
(……紫紺様、この辺りの床入り問答はご存じかしら)
床入り問答とは、夫婦が円滑に初夜を迎えられるように用意されている、形式的な会話文である。
大雑把に言うと、夫が「木の実をもぎ取ってもよいか」と問いかけ、妻が「どうぞ」と答える――という会話を合図にして、夫婦は営みへと移るのだが……紫紺は知っているだろうか。
この辺りの農村では梅の木が多く植わっていることから、「梅の実をもいでもいいか」という定型文が使われている。
志乃は意を決して、遠回しに探りを入れてみることにした。
「あの~紫紺様、お庭に立派な梅の木がありますよね」
「はい、ありますね」
「実の収穫のご予定は」
「もう秋も深まっていますから、実はすべて落ちているのでは? 来年の夏には、また実るでしょうけれど。梅の実をお食べになりたいのですか? 梅干しなら土間の壺に――」
「いえ、ええと、そういう意味で伺ったのではなく……」
「では、どういう意味でしょう?」
墓穴を掘ってしまったかもしれない……。志乃は口ごもって頭を抱えた。
ひとまず誤魔化して掃除に戻ろう、と箒を握り直したのだが、距離を詰めてきた紫紺に前を塞がれてしまった。
じっと見据えられた志乃は根負けして、意図を白状してしまった。
「すみません……。紫紺様が『梅の実問答』をご存じか確かめたくてお聞きしたのです」
「何でしょう、それは」
「……この辺りの村々の床入り作法です……『実をもいでもいいか?』と問いかけて合図するという……」
「あぁ、それなら知っています。以前、狐葉が話していました。私は『柿の実』と教わりましたが」
「ここらでは梅なんです…………」
志乃は真っ赤な顔を両手で隠しながら、どうにか返事をひねり出した。恥をほじくられている気分だ……。
けれど、これでよくわかった。紫紺は都の暮らしには通じているようだが、逆に、ここらの村の風習には明るくないみたいだ。竜胆家は近隣の村々から孤立していて、今まで交流もなかったからだろう。
(跡継ぎのことも大事だけど、孤立問題もどうにかしていった方がいいかも……)
竜胆家はこれから先も村と都の二拠点を往復し、屋敷を運用していくそう。それならば、村の風習を知っておいても損はない。村人との不要な紛争を避けられるし、災害時など、助け合いが必要な場面でも利点がある。
農村生まれ、農村育ち、生粋の地元民である志乃ならば、狐葉が見逃していた小さな物事でも教えられそうだ。
「梅の実……の、他にも色々と習わしがありますから、少しずつお教えしますね」
未だに顔を赤くしている志乃のことを、紫紺はじっと見つめていた。
居たたまれなくて顔を背けた時、ちょうど視線の先に式神の女中が立っていた。彼女は封書を手渡してきた。
「さっき平馬と名乗る男が訪ねてきまして、志乃様に文を届けてほしいと」
「平馬様が?」
手紙を受け取ろうとしたが、紫紺の手に奪われる方が早かった。
「誰ですか、その男は」
紫紺は切れ長の目を鋭く細めて、封書に書かれた送り主の名を見ていた。
「平馬様は豊原家の入り婿です。わたしの従姉妹、トキ子の婚約者で……」
元々は自分の縁談相手だった人です、という紹介は呑み込んだ。紫紺の面持ちが冷たく見えて、少し怖かったので、余計なことは言わずにおいた。
「覚えていませんか? 豊原家を出る時に玄関先にいた、ハイカラなコートを着た方です」
「あぁ、あの時の」
「手紙を読んでもいいですか? きっと豊原家の用事だと思うのですが」
「……」
紫紺は封書を手渡してきたが、視線を動かそうとしない。内容を気にかけているみたいなので、志乃はその場で読むことにした。
手紙は季節の挨拶から始まり、豊原家の近況が簡潔に綴られていた。
その内容に、志乃は驚きを隠せなかった。
(弥次郎叔父さんが倒れた……!? なんとまぁ……あんなに傍若無人で元気な人が)
近況の出だしから衝撃的なことが書かれていたが、具体的な病状については「直接会って話したい」と、伏せられている。
そういう不幸があったので、せめて明るい祝い事で家に活気付けをしたいとのことで、近々祝言を挙げる予定だとか。この手紙は招待状だそう。
さらには、「家の蔵を整理したいので、その相談にも乗ってほしい」と書き添えてあった。
婿入りして最初にすることが蔵の整理とは。もしかして、金目の物を売り飛ばそうとしているのだろうか。悪いことは考えたくないが、豊原家の財政事情を想像してしまう。
手紙の最後は、「トキ子も僕も、志乃さんに会いたいと思っている。必ず列席してほしい」と締めくくられていた。
手紙を読み終えて、志乃は頭を悩ませた。
「蔵には両親の形見が残っているかも……。でも、豊原家に上がるのは……」
今回の祝言は、トキ子が婿を迎え入れるということで、豊原家で執り行われる家婚式になる。あの家にもう一度上がるのか、と考えると気が重い。豊原家とはもう、身も心も決別したので、深く関わりたくないのが本音である。
けれど、蔵の事は気になる。家を出る時、蔵の奥までは荷分けをしなかったので、探せば父母の形見が残されている可能性が高い。
考え込んでいると、紫紺が声をかけてきた。
「少しの時間だけ参列するというのはいかがです。私の父がそうしたように」
「そう、ですね。それがいいかもしれません。二日目の宴席にだけ顔を出してみようかしら……」
この辺りの村々では、祝言は二日間に渡って執り行われる。初日は親族や村のお偉方のみで儀式を行い、そのまま夜通しで宴席が開かれる。翌日は近隣の人々も広く迎え入れる祝宴が催されるので、二日目に少し顔を出すという程度なら、深入りを避けられて良いかもしれない。
近しい親族としてではなく、あくまで距離のある間柄として振舞おう――。そう決めると、少し気持ちが軽くなった。
勢いづいた志乃はふと思い付き、紫紺に笑いかけた。
「もしよければ、夫婦で顔を出してみませんか」
「……私が、宴席に?」
「はい。この機会に、近隣の皆さんとのわだかまりをなくすのも良いかなと。結婚したことも広くお知らせできますし。新しい竜胆家の第一歩として、どうでしょう」
紫紺は無表情ながらも迷っているみたいだった。
しばらく口を閉ざしていたが、やがてぽつりぽつりと、気持ちを言葉にし始めた。
「私は人の輪に入ることが得意ではないし、竜胆家に悪評が立っていることも知っている。嫌われ者が参列すれば、祝いの場を壊すことになるだろう、から……何と言いますか……不安です」
不安だ、と彼は感情を口にした。
表情と声音は伴っていないが、こうも明確に気持ちを伝えてきたのは初めてだ。
そのことが志乃にはとても喜ばしく感じられて、つい大きな声で返事をしてしまった。
「大丈夫です、わたしが何とかします! 皆さんとの交流はわたしが上手くやりますから、紫紺様は隣で微笑んでいてくださいませ」
「しかし……」
「竜胆家の噂についても、お茶を濁す良い案を考えておきますので。狐葉様にも知恵をお借りして」
「任せてもよいのか?」
「はい! 紫紺様は笑顔の練習だけ、お願いいたしますね」
明快に言い切ると、紫紺は「ふっ」と小さく息を漏らして微笑んだ。
「頼もしいな」
(笑った……!)
志乃は驚きのあまり目を見開いた。思わず紫紺の胸元を支えにして、つま先立ちで顔を覗き込んだ。
「紫紺様、今のお顔……! 今のお顔をしていれば、きっと皆の心を掴めるはずです!」
「今の顔? 私は今どんな顔をしていましたか?」
今の微笑みは無意識だったらしく、彼は不思議そうに自分の頬に触れている。
「とても柔らかく笑っておられましたよ」
「そうすれば人の心が掴めると?」
「はい、間違いなく。笑顔は皆に好かれるための第一歩です」
美麗な天人の微笑みを見て、魅了されない人はいないだろう。そう思って力強く頷くと、紫紺は何を思ったのか、志乃の頬を両手で包み込んで、真正面から顔を近づけてきた。
そうして彼はもう一度、優しく微笑んで見せたのだった。
「志乃様は?」
「へ……?」
「志乃様はこの顔の私を好いてくださいますか?」
微笑を浮かべて小首をかしげる紫紺はあまりに魅惑的で、目の毒に思えた。さながら、見てはいけない神のようだ。
声を詰まらせながら、どうにか返事をした。
「……いえ、わたしは……別に、笑顔に限らずとも、無表情の紫紺様でも…………お慕いしております」
言葉尻が小さくなってしまったが、彼の耳には届いたようだ。
「そうですか」と、一言返ってきただけで会話は終わってしまったが、紫紺はまだ志乃を見つめて微笑んでいた。
この笑顔を狐葉にも見せてやらねば、と思っていたのだけれど。「頬が疲れた」と言って、すぐに真顔に戻ってしまったのが悔やまれる。
祝宴までにしっかりと練習を重ねる必要がありそうだ。




