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17 噛み合わない豊原家の縋る先

 弥次郎が倒れてから数ヶ月。

 もしかしたら回復するかも……という期待は既に消え果てて、豊原家に満ちる空気は重くなるばかりであった。


 弥次郎の妻シズは心身の疲労から、徐々に不安定になっていき、女中たちに当たり散らすようになった。女中たちはシズを嫌って出ていき、介護の負担は今、トキ子にのしかかっている。


 トキ子は洗濯物の布類を放り出し、廊下を通りがかった平馬に縋りついた。


「平馬さん! どこへ行っていたのですか……!」

「少し外に用事があって。今戻ったよ。ただいま」

「出掛けるならわたしも連れて行ってくださいませ! こんな家にずっといたらおかしくなってしまうわ……! あぁ、もう耐えられない……毎日、毎日、お父さんの世話ばかり……」


 平馬は胸元で泣くトキ子を抱きしめることしかできない。「用事があった」とは言い訳で、本当は気晴らしに、私娼屋(ししょうや)で女と遊んできたのだ――とは、言えるはずもなかった。


「もう無理、疲れた……毎日苦しいばかりで、何の楽しみもないんだもの……。せめて……せめて延期になっていた祝言を挙げたいわ……ねぇ、平馬さん……お願いよ」


 とびきり綺麗な着物を着て、美味しい物を食べて、たくさんの人にお祝いしてもらって……ひと時だけでも日常の苦労を忘れたい。


 そう伝えると、平馬はすぐに頷いた。


「祝言、か。うん、わかったよ。弥次郎さんももうどうなるかわからないし、生きているうちに執り行うのがいいかもしれないな。早速、実家にも話を通してみるよ」

「……! ありがとう、平馬さん……。わたしもお母さんに話しておくね」


 トキ子は袖で涙を拭い、久しぶりに小さな笑顔を見せた。


 ちょうど廊下の先に母の姿を見つけて、トキ子は弾んだ声で呼び止めた。


「お母さん! 今、平馬さんと祝言の話をしていたの。近々どうかって」

「まぁ、祝言……」

「うん。最近、暗いことが続いてたから、きっと良い気晴らしになるわ。たくさん人を呼んで、賑やかな宴に元気をもらいましょう?」

「そうね……久しぶりに贅沢をしましょうか。それじゃあ、親戚に声をかけておくわね」


 シズも意欲を見せて、数か月ぶりに顔色を明るくした。

 親戚――という言葉を聞いて、トキ子はふと、思いついた。


「あぁ、そうだ。志乃お姉ちゃんも招待してあげようかしら。あの人はきっと、祝言も挙げられていないだろうし。可哀想だから、幸せをお裾分けしてあげましょう」


 考えを口にすると、無意識のうちに口角が上がっていた。


 遺言のせいで悪名高い鬼屋敷に嫁がされた、運のない女。

 祝言を挙げたという噂は聞こえてこないから、恐らく未だに執り行われていないのだろう。竜胆家は資産家だとかいう話もあるが、こうなるとそれも怪しくなってくる。


 良い機会だから、引きずり出して実態を確認してやろうじゃないか――。


 志乃を招待しようという話に、シズも賛同した。


「えぇ、ぜひ招待しましょう。説教もしてやらないといけないしね。騒がしく出て行ったと思ったら、それっきり連絡もなし。あの娘が家に残っていれば、わたしらの介護の負担だって軽く済んだはずなのに……。豊原家の内情をわかってて避けているに違いないわ。薄情者め」


 吐き捨てたシズは生き生きとしていて、最近の元気のなさが嘘みたいだった。


「僕も、蔵の整理について志乃さんに相談したいことがあるから。竜胆家に文を届けておくよ」

「絶対に来るように、って念押しをお願いね」

「あぁ」


 招待状を書く約束をして、平馬は豊原家に設けた自分の書斎へと向かった。

 



 座敷に入って一人になると、ふぅ、とため息が出た。


(……あの二人と話すと疲れる)


 決して口には出せない愚痴をため息に乗せながら、文机の前に座った。


 入り婿の自分がこんなことを思うのは(はばから)れるが……最近、トキ子とシズの機嫌を取るのが面倒でかなわない。

 シズはまだ、使用人相手に腹いせをしているから、自分は面倒を被らなくて済むのだが、トキ子は縋りついてくるから煩わしい。


 あんなに愛らしかった容貌は、すっかりやつれてしまって見る影もないし、毎晩、寝床で「辛い、苦しい、疲れた」と泣きつかれるので、抱く気も萎えて仕方ない。


 豊原家に入ってまだ数ヶ月なのに、もう気が滅入ってきている。この先、本当にこの家でやっていけるのだろうか……。そんな不安が胸を重くする毎日だ。


(……もし志乃さんと結婚していたら、どうなっていただろう)


 トキ子ではなく、志乃の方ならば。今頃どういう状況になっていただろうと、ふと考えてしまった。


 彼女も重病の父親を世話していたが、今思えば、泣き言なんか一度も聞いたことがなかった。こちらに介護の手伝いを求めてくることもなかったし、きっと彼女と結婚していたら、自分の立場は今よりずっと気楽だったに違いない。


 あの日、(やしろ)の裏で突き飛ばされたことは今でも根に持ってはいるが、何も婚約破棄することはなかったのではないか――。

 トキ子を選ぶと決めた日、父と兄たちにも「志乃にしておけ」と反対されたのに、どうして押し切ってしまったのか――。


(僕は間違えたのだろうか)


 考えれば考えるほど、後悔の念に駆られて気持ちが沈んでいく。


 けれど、時すでに遅し。さすがにここまできて縁組を白紙にする度胸はない。名主である実家に愛想を尽かされて縁切りをされたら、近隣の村々からも追い出されかねない……。


「はぁ……どうしたものか」


 一人、虚空に向かって呟く。今から講じることができる最善の策はなんだろう。


 このままでは、豊原家は――自分の未来は――確実に駄目になる。何か、打開のための転機が必要なのは明白だ。


 平馬は文机に向かって、真剣な面持ちで頭をまわした。


「……もう一度、志乃さんと話し合ってみようかな。お互い、今までの事は水に流して」


 一つだけ、糸口があることに気が付いた。

 もう一度、志乃を豊原家に戻せば、上手いこと噛み合うのではないか、と――。


 志乃ならば、この傾き始めている豊原家をどうにかできるのではないか、と、思えた。だって、彼女はそもそも家を継ぐ気でいたのだから、切り盛りしていく気概は十分だろう。

 

 祝言に呼んで、顔を突き合わせたならば、思い切って志乃に「竜胆家と離縁して、豊原家に帰ってこい」と、伝えてみようか。

 彼女は豊原家に大きな未練があったろうし、鬼屋敷なんかに閉じ込められているのは嫌だろうから、きっと話し合いに応じるはず。

 

 当たりの強かった弥次郎も今ではあんな状態だから、志乃が出戻っても、とやかく言われる心配はない。トキ子も介護の担い手が増えることを喜ぶだろうし、シズだって張り合いがあって元気が出るのではないか。


「うん、志乃さんが戻ってくれば丸く収まりそうだ。よし……!」


 あの日の社での志乃の過ちも、この機会に許してやろうじゃないか。すべてを水に流して、もう一度、豊原家を立て直していこう――。


 久方ぶりに、胸に前向きな気持ちが湧いてきた。


 そうと決まれば、早急に祝言の日取りを決めなければ。



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