1 断たれた希望と内輪揉めの家
――二つ隣の村の外れに、『鬼屋敷の竜胆家』と呼ばれている大屋敷がある。
近隣の村々から亡骸を集め、食い漁っていると噂される悪名高い一族が住む屋敷だ。
そう、話に聞いていたのに……まさか、志乃は自分がこの家を訪ねることになるとは、夢にも思っていなかった。
そこで出会った当主の男が、まるで天人のような美しい人物であることも。
そんな男に愛され、高価なべっ甲のかんざしを賜ることも。
何一つとして、予想だにしていなかったのだ――。
「志乃さん、君との縁組はなかったことにしてもらう」
「どうかお考え直しを……。今回の件は本当に申し訳ございませんでした。いくらでも謝罪いたします。だから、どうか……」
畳に額を擦り付けて謝罪しても、もう婚約者の気持ちを変えることはできないようだった。
今しがた婚約破棄を告げられた豊原志乃は、己の不甲斐なさに歯を食いしばり、ただただ後悔に打ち震えている。
(私がもっと上手く立ち回れていたなら、こうはならなかったのに……)
結った髪がほつれ、着物が乱れるのも構わずに、何度も何度も頭を下げて縋りつく志乃の姿は、傍から見たらさぞ惨めで滑稽なことだろう。
対する婚約者――いや、もう元婚約者と呼ぶべきか――は、質の良いハイカラな柄の着物を正し、帰り支度を始めようとしている。
都で流行っているという洋装のコートと帽子を手に取り、立ち上がりかけた彼に、もう一度縋りついて頼み込む。
「平馬様、わたしにはあなたしかいないのです……。あなたにとっても条件の良い縁談でしょう……? どうかもう一度、お考え直しを……」
「はぁ、もういいだろ。既に仲人とも、君の叔父さんとも話は済んでいるんだ。やれやれ、皆さんからも言ってやってくださいよ」
縁談相手の山畠平馬は首を回して、座敷の端に控えていた仲人の男と、志乃の叔父に声をかけた。
叔父の名は豊原弥次郎という。
弥次郎はドカドカと割って入ってきて、妻のシズと、一人娘のトキ子――志乃にとっては従姉妹にあたる――を隣に招いた。
いかにも偉そうな態度で胡坐をかく弥次郎は、さながら一家の主のようだ。けれど、志乃の家――豊原家の家長は、志乃の父である誠一郎である。
弥次郎は誠一郎の弟で、家をどうこうする権力は持たない、小者めいた男であった。
だというのに、今ではすっかり弥次郎たちに家を牛耳られてしまっている。
「志乃、いい加減にしたらどうだ! いつまでもごねやがって。恥さらしが!」
弥次郎に怒鳴られて、志乃はビクリと体を小さくした。
本来ならば、家長の長子である志乃は豊原家の中心となるはずの身分なのに、今や誰よりも肩身が狭い立場に追いやられてしまっている。
こうなったのは、豊原家の主である、父、誠一郎が重病に倒れたことに端を発する。
■
豊原誠一郎と妻の千代の間に、一人娘として生を受けたのが志乃である。
豊原家は都の郊外の農村に屋敷を構える、上層百姓の家だ。昔は豪農と呼ばれるほどに栄えていたようだが、いつからか子宝に恵まれなくなり、家系は徐々に衰退へと向かっている。
誠一郎と千代にもなかなか子ができず、ようやくできた子は女子であった。その後も次子を授かることなく、千代は山崩れの事故に遭って世を去ってしまった。志乃が五歳頃の出来事だ。
誠一郎は血筋に問題があることを悟り、後妻を迎えることなく、奇跡的に授かった志乃のことを大切に育てた。
志乃は小さい頃から隣村の寺子屋に通わせてもらい、最近できた高等女学校も卒業させてもらった。父に習って家業のことも勉強し、今年、数えで十八歳を迎えた。
豊原家は斜陽の家柄とはいえ、多くの小作人に田畑を貸して、地主として申し分ない暮らしができる程度には、安定した経済状況を保っている。これもひとえに、誠一郎が堅実に家を切り盛りしてきた結果だ。
「地主のくせに地味な暮らしぶりの家だ」と揶揄されようが、誠一郎は手堅いやり繰りを徹底してきた。そんな男の一人娘である志乃は、鏡写しのように素朴で堅実な女に成長した。
そうして、そろそろ婿を取ろうかという時になって。突然、誠一郎が病に倒れてしまったのだった。
きっかけは小さな足の怪我だったが、そこから全身が悪くなり、数ヶ月でもう寝たきりになってしまった。
刻一刻と病状が悪化していく父のことを思い、志乃は仲人に頼み込んで、見合いを急いだ。
そうやってどうにか取りつけた縁談は、隣村の名主である、山畠家の五男が相手であった。
五男という立場ではあるが、上層百姓の良い家柄だ。平馬自身も、農村部では珍しいくらいのハイカラな洒落者で、印象の良い若者だった。
志乃は平馬を気に入って、結婚を決めた。平馬もまた、豊原家に婿入りして、次期家長となる身分を望んだ。
双方にとって良い結婚となるはずだったのだ。
が……志乃が犯した一つの失敗で、あっけなく白紙にされてしまった。
先日、逢引をして、二人で村はずれの社にお参りに行った時のことだ。
平馬は酒好きで、たまに翌日まで酒の匂いを残していることがあるのだが、この日もそういう日であった。
(男の人は大概、お酒好きだし……少しくらいは目をつむりましょう)
そう思ったのだが、彼の酒癖は思いのほか悪かったようだ。
お参りもそこそこに社の裏に連れ込まれたかと思うと、突然抱きすくめられて、着物の合わせを強引に広げられたのだった。
「っ!? 平馬様……!? おやめください……っ」
「誰もいないし、いいだろ?」
こんなところで体を暴かれて、されることは一つである。
志乃は手籠めにされる恐怖から、反射的に平馬を突き飛ばした。火事場の馬鹿力が発揮されたのか、平馬はひっくり返って尻もちをつき、高価な着物を泥で汚すことになった。
「っ、暴れることないだろう! あぁ、もう、興覚めだ」
「ご、ごめんなさい……でも……」
「こんなに空気の読めない女は初めてだよ。婚約者を突き飛ばすなんて……。僕は無粋な女が何よりも嫌いなんだ。君との縁組はなかったことにしてもらう」
「そんな……っ」
女を自由にできなかった上に、細腕でひっくり返されて土を付けられたということが、彼の自尊心を大きく傷つけたようだ。平馬は顔を真っ赤にして、その場で吐き捨てるように婚約破棄を告げた。
志乃は何度も謝ったのだが……今日、彼は仲人と共に豊原家を訪れ、正式に破談を告げたのだった。
けれど、志乃は諦めきれない。だって、もう余命いくばくかの父に合わせる顔がないではないか。
(それに、このまま弥次郎叔父さんに豊原家を乗っ取られるわけにはいかない……)
豊原家は落ち目の地主家だ。元より親戚も少なく、ほとんどが疎遠になっている。今は生活に支障がないくらいの財力を保ってはいるが、気を抜けばあっという間に没落へと向かいかねない危うさがある。
そんな我が家を、不堅実な叔父一家が切り盛りしていけるはずがない。弥次郎もシズもトキ子も、見栄っ張りで金遣いが荒いのだ。父が倒れてからは、さらに拍車がかかっている。
(お父さんの目が黒い内に、わたしが旦那様と一緒に主導権を取り戻さないといけない、のに……)
焦る心とは裏腹に、状況は悪い方へと流れていく。
トキ子がクスクスと笑いながら、平馬に話しかけた。
「それにしても、志乃お姉ちゃんは本当に頭が固いのねぇ。仮にも婚約相手なんだから、ちょっとくらい体を許してあげてもよかったのに。突っぱねられた平馬さんが可哀想だわ。今時、都では軽やかな男女交際が流行だそうよ。志乃ちゃんは流行遅れね」
トキ子は結った髪を編んで、リボンなる装飾品をつけている。彼女曰く、これが最新のお洒落なのだそう。近頃は農村部にも都からの品々が出回るようになってきた。トキ子は婦人雑誌を買い漁り、村の最先端を走っている。
確かに、彼女と比べたら、志乃はいかにも田舎臭くて野暮ったいかもしれない。
華やかなトキ子が喋り出すと、つられたように、平馬がパッと顔を明るくした。
「ははっ、やっぱりトキ子ちゃんは話がわかるな。できることなら、僕は志乃さんより、トキ子ちゃんみたいな今時の考え方をする子と一緒になりたいよ」
「まぁ! それって告白? やだもう~、お父さんお母さんがいる前で、恥ずかしいわ」
彼女はまんざらでもない面持ちで、チラチラと両親の顔色をうかがう。弥次郎は頬を緩めて話し始めた。
「実はさっき、仲人の義三さんとも話したんだが、平馬くんはトキ子と縁組をし直すのはどうだろう?」
「えっ、トキ子ちゃんと?」
「うちの兄貴はもう長くないし、志乃はこの通り器量が悪い。将来的に俺が家督を継ぐことになるから、トキ子に婿入りした方が君のためになるだろう。どうだい?」
弥次郎は、「もう家督は自分のものだ」と言わんばかりに、好き勝手話を進めていく。
平馬はすっかり顔を赤くして、トキ子を熱っぽい目で見つめていた。トキ子もまた、うっとりした色っぽい顔をしている。
二人の間に流れる雰囲気は、もうずいぶんと距離が近い者同士のそれだった。
(この二人……もしかして、そういうこと? ……わたしだけが一人で空回りしていたのね……)
志乃が知らずにいただけで、もしかしたらこの二人は、以前から気があるもの同士だったのかもしれない。ハイカラな平馬とトキ子は、都の流行に乗って、軽やかな男女交流を楽しんでいたのかも……。艶めかしい親密な空気感を目の当たりにして、そう理解せざるを得なかった。
二人の様子を見て、仲人がパンと手を叩いた。
「ようし! 豊原さんも山畠さんも、都合が良いときた! こりゃあ大方決まりということでよろしいかい?」
仲人は、先ほどまで志乃に見せていた面倒臭そうな面持ちを一変させて、話を進め始めた。
彼の着物の帯に刺してある扇子は、異様に煌びやかで、さぞや高価な品と察せられる。きっと弥次郎が贈ったものだろう。
父が弱ってからというもの、弥次郎は近隣の有力者たちに金品をばら撒いている。村人たちに取り入って、「豊原家の新しい主」という自分の地位を確かなものにしよう、という魂胆だ。そんな浅はかな企みのために、家の金庫を自由にしている。
それを見咎めて詰め寄ったこともあったが、逆に頬を打たれて、己の無力さを思い知らされただけだった。弱り切った父にさらなる心労をかけるのは憚られて、このことは何も言えずにいる。
けれど、父はきっと気付いているに違いない。友人知人の見舞い客が来なくなってしまったことから、状況を察していると思う。口には出さないが、どこか諦めた顔をしていたから……。
言葉を失くしている志乃を尻目に、座敷はもうお祝いの様相を呈している。平馬は満足そうな面持ちで話を締めた。
「それじゃあ、今日はそろそろお暇します。一応、僕の家族にも話を通しておかないといけないので、また後日改めてお伺いしますね」
「村の外までお見送りします。平馬さん、行きましょう」
平馬が立ち上がると、すぐにトキ子が腕に擦り寄り、二人は連れ立って座敷を出て行った。
トキ子がニヤリと口角を上げて、志乃のことを見下していたが、志乃はそちらを見ることはしなかった。
座敷に残った弥次郎に厳しい目を向けて、震える喉を叱咤して抗議する。
「……トキ子と平馬様の結婚には反対しません。ですが、豊原家の家督を継ぐのは長子であるわたしです。父もそう望んでいます」
そう言い終える前に、弥次郎が座卓を力任せに叩いた。茶器が跳ねてガシャンと大きな音が鳴り響く。志乃は反射的に体をすくめてしまった。
「誰に向かって口を利いている! 小娘なんぞが、家督だ何だと首を突っ込むな!」
志乃を黙らせると、弥次郎は仲人へと向き直った。
「義三さん、改めて志乃にも相手を見繕ってやってくれ。早く嫁に出さないと、豊原家に居座られたらうるさくてかなわん」
「任せておくれよ。適当な家でよければ」
「うちに口出しできないような、家格の低い家で頼む。日雇いの貧乏百姓でもいいし、なんなら女衒を紹介してくれたっていいぞ」
男たちは、がははっと下品に笑い、シズも心底愉快そうな面持ちで薄っすらと笑みを浮かべている。
女衒とは人買いのことだ。買われた女は地方の女郎屋へと売り飛ばされる。
(仲人を通しての結婚も、もう期待はできない。このままでは人買いに攫われるか、もしくは……)
最悪、殺されてしまうのではないか……。
そんな考えすら頭をよぎってしまった。それくらい、今の志乃の立場は危ういものだった。
あまりの居心地の悪さに胸が苦しくなってきた。苦痛に耐え兼ねて、志乃は逃げるように部屋を出た。
(お父さんに謝らないと……)
床に臥す父の元へと向かいながら、破談のことをどう話そうかと思案する。それに加えて、トキ子が婿を取ることになった件も伝えないといけない。それはつまり、豊原家が弥次郎一家の天下になるのと同義である。
弥次郎の下品な笑い声が、廊下にまで響いてきて気分が悪い。振り切るために歩を早めて、志乃は屋敷の離れへと急いだ。
父、誠一郎と弥次郎は子供の頃から折り合いが悪かったそうだ。
けれど、誠一郎は長男という絶対的な地位があったため、弥次郎は彼に従わざるを得なかった。弥次郎にとって、次男という立場の屈辱感は根深いものだったらしい。
それがここにきて、立場逆転の機会が訪れてしまった。弥次郎はこの機会を逃すまいと、鬼気迫る様相で豊原家の主導権を握ったのだった。
彼は誠一郎派の使用人や小作人たちと縁を切ったり、金をちらつかせて買収したりして、もうすっかり周囲を味方で固めている。
あとは誠一郎が死んで、弥次郎が家督を継げば、晴れて悲願達成となる。
彼のことだから、もはや誠一郎と志乃を手にかけてしまっても問題ないとさえ、考えているかもしれない。
身の危険を感じて、志乃は誠一郎の病床を屋敷の離れへと移した。今はほとんど二人暮らしのような形で生活している。
使用人たちが用意する食事は徐々に粗末になっていき、ついには出されなくなった。それからは、志乃が二人分の食事を用意している。炊事だけでなく、寝たきりになった誠一郎の世話の一切を、志乃一人でどうにかこなしてきた。
介護の窮状と弥次郎の横暴を皆に訴えようとも、もう村人たちは弥次郎の手中にある。
「あまり人を悪く言うものじゃないよ。今は誠一郎さんも志乃さんも、弥次郎さんの世話になっているのだろう?」と、逆にこちらが白い目で見られてしまうだけ。
もし今、志乃と誠一郎が殺されたとしても、きっと内々で処理されて終わるだろう。そんな恐ろしさに神経をすり減らしながら、二人で必死に生き長らえている。
そういう状況ゆえに、隣村の有力家の人間――平馬との結婚は、唯一の希望の光であった。婿として取り入れ、豊原家の主人の座に据えることで弥次郎を抑えられたらと、そう思っていたのに……。
(あの時……大人しく手籠めにされていればよかった)
社の裏で、平馬に好きなようにさせていれば、こうはならなかったのだろうか。
今更悔やんだところで、どうすることもできない。
離れに上がり、父が臥す部屋の襖を開けた。
社での平馬とのいざこざの件は、優しい父には秘密にしておくつもりだ。




