赤橙色の薬瓶
メイとハル。
いつも一緒の、仲良し二人組。
中学では、「本当に双子なんじゃないの?」と、よく言われた。
「顔も、雰囲気も、笑い方までそっくり」
そんなふうに言われるたび、私たちは目を見合わせて笑った。
考えてることも、趣味も、好きな男子のタイプまで似ていた。
「うちら、きっと双子だよ。どっちかの親が産んだとか、もしくは二人ともどっかから拾われてきたとか」
「ありえる! 親は言いづらくて黙ってるだけかもよ?」
そんなふうに冗談を言い合いながら、本気で自分たちは運命で結ばれてるって、信じていた。
でも、別れは突然やってきた。
メイの、引っ越し。
理由は――親の離婚だった。
「私、お父さんについて行くことになっちゃった……」
大粒の涙を流しながらそう言ったメイの顔が、今もはっきりと浮かぶ。
私は叫んだ。
「離れたくない、メイ。一緒に逃げよう、どこかへ」
「……ハル」
私たちは本気で、家出を計画した。
ディズニーに行くために貯めていたお金を全部下ろして、決行日まで指折り数えた。
目的地は、鹿児島にある私のおじいちゃんの家。
今思えば、甘すぎる計画だったと思う。でも、あのときは本気だった。
――そして、当日。
私は約束の場所で待ち続けた。
けれど、メイは来なかった。
きっと、お父さんにバレたんだ。連れ戻されたんだ。
いや、もしかしたら……怖くなって、やっぱりやめたのかもしれない。
その証拠に、その日からメイとは一切連絡が取れなくなった。
SNSも、電話も、全部。
後日、先生に聞いた話では、メイは何事もなかったように神奈川へ引っ越していったらしい。
私は、心の底からガッカリした。
あの日から、人を信用できなくなった。
あの裏切られたような痛みが、今でも心のどこかに残っている。
――あれから十年。
私はまだ、あのときの心を引きずったまま、今は東京で働いている。
「ハル先輩って、人嫌いですか?」
不意に、そんな言葉をかけられた。
ふと顔を上げると、最近やけに懐いてくる後輩の子が、興味ありげにこちらを見つめている。
「どうして?」
少し間を置いて聞き返すと、彼女は肩をすくめながら言った。
「だって、人当たりがちょっと冷たいっていうか。飲み会に誘っても、絶対来ないし」
「忙しいだけ。行きたくないわけじゃないんだよ」
そう答えると、彼女はじっと私の目を見て、にやりと笑った。
「今のも、全然そんなふうに聞こえませんけど。興味なさそうな顔してるし」
からかうような口調なのに、なぜか嬉しそうに笑う彼女。
まったく、変わった子だ。
「クライアントの間では、“氷姫”ってあだ名で呼ばれてるらしいですよ」
それは、私も耳にしたことがある。
陰口、というよりは、半分は評価としての呼び名らしいけど。
でも、きっと当たっている。
私はあの日から、世界が少しだけ色褪せて見えている。
何かをなくしてしまって、それ以降、ずっと温度の低い世界で生きているような気がしていた。
それが、他人にも伝わってしまっているのだろう。
「たまには女子会、やりましょうね」
明るくそう言い残して、後輩は去っていった。
私はひとり、静かな夜道を、いつもと同じ時間に、いつもと同じ足取りで歩いていた。
この灰色の世界に、あの子の声だけが、少しだけ色を落としていった気がした。
それは、本当に突然だった。
いつもと同じ道、同じ時間、変わらない足取りでの帰り道。
けれどその日は、そこに「それ」があった。
──「くすり」──
古びた街灯に照らされて、ひっそりと佇む店。
アンティーク調の外観に、淡く光る看板の文字。
(こんな店、前からあったっけ…?)
一日で建てられるような造りではない。
なのに、今まで一度も目にした記憶がない。
夢の中でだけ存在していたような、不思議な既視感が胸をよぎった。
窓辺には、どこか懐かしさを感じる薬瓶が並んでいた。琥珀色の光がガラスの中に揺れている。
(まさか…おしゃれなバー? いや、たまたま見逃していただけかも)
妙に静かで、妙に温かくて。
どこか“呼ばれている”ような気がして、私はその店の扉をそっと押した。
カラン、と小さな鈴の音が鳴った。
それに続いてふわりと漂ってきたのは、アンティークショップのような、どこか懐かしい香りだった。
店内は、色とりどりの薬瓶がずらりと並び、その光景はまるでキャンディショップのようにキラキラしていた。
その奥には、なぜかカフェのようなテーブルと椅子。そしてカウンターには、年季の入った白髪の老人、無愛想そうなマスター、そして――制服を着た、少しレトロな雰囲気の可愛らしい女の子がいた。
「いらっしゃいませ。ここは薬屋ですよ」
店員らしき女の子が、にこりと笑いながらそう言った。
「……薬屋? 本当に薬屋なんですか。すみません、カフェか何かかと……」
「本当に薬屋です。ちょっと変わってるけど」
たしかに“ちょっと”どころじゃない。
こんな不思議な店、これまで見たこともなければ、通り過ぎた記憶もない。
「ここは、必要としている人の前にだけ現れるんです。だから、お客様も、今初めて見たんでしょう?」
「……私に、必要? どういう意味かしら」
「ふふ、難しく考えなくて大丈夫。あなたは今、何かを必要としてる。だから、ここに来れたんです」
不思議だけれど、彼女の言葉には妙な説得力があった。
本当に、こんな場所を見逃すはずがない。
毎日のように通っていた道のはずなのに――まるで、夢の中に迷い込んだような感覚。
薬屋。
そう言われると、今の自分にそれが必要だったような気もする。
「さ、ご案内します。薬剤師が、あなたはどんな薬が欲しいか、問診します」
彼女の柔らかな声に導かれるようにして、私はその不思議な店の奥へと足を踏み入れた。
そこには、小さな小窓があった。
どこか懐かしいそのつくりに、思わず既視感を覚える。
そう――田舎の薬局や、昔の映画館のチケット売り場。そんな場所にあった、古びた対面式の窓口。
制服の女の子が、窓際の小さな鈴をリンリンと鳴らす。すると、奥から声が聞こえてきた。
「おや、お客様ですね。ようこそいらっしゃい。どんなお薬をご所望で?」
その声は、どこか柔らかく、包み込むような響きだった。
お婆さんのようにも、お爺さんのようにも聞こえる。けれど、話し手の姿はどこにも見えない。
私は思わず周囲をきょろきょろと見回してしまう。すると、くすくすと笑うような声がした。
「そっちじゃないですよ。下、もっと下を見てください」
言われるままに視線を窓のさらに下へと落とす。
――そこで、私は目を疑った。
「…………え?」
そこにいたのは、服を着たネズミだった。
灰色のふわりとした毛並み、小さくつぶらな瞳。
そして、きちんとベストに蝶ネクタイまで身に着けていて、器用に小さな羽ペンを使って、さらに小さなメモ帳に何かを書き込んでいる。
私は一歩も動けなかった。言葉すら出てこない。
「何これ……? 本物?」
呟いたその言葉に、ネズミは優雅に顔を上げ、にっこりと微笑むような表情で言った。
「ご紹介が遅れました。私がこの薬屋の店主にして薬剤師の、サロムーンです」
……喋った。
ネズミが、流暢に、当たり前のように。まるでそれが当然であるかのように。
ああ――これはもう、現実じゃない。
私はいま、きっと夢の中にいるんだ。しかも、ちゃんと意識のある、やけにリアルな夢。
奇妙な安心感と、戸惑いとが胸の中で交錯していた。
「ここは薬屋――あなたに今、一番必要なお薬を処方する、魔法の薬屋ですよ」
「……ま、魔法…」
その言葉は冗談のように聞こえたけれど、目の前で喋っているネズミの存在が、現実の感覚をじわじわと曖昧にしていく。
「あなたの大切なものと引き換えに、最適なお薬を調合いたします」
「……大切なものって言われても、特に思いつかないけど」
「いえいえ、ございますとも。そのバッグの中に」
サロムーンは小さな杖を軽やかに振り上げ、私のバッグをすっと指し示した。
「大切なもの…?」
言われるままに、私はカバンの中を探り始める。
メイクポーチ、会社から支給されたスマホ、いつものドリンクボトル。
見慣れたものばかりだ――と思ったそのとき。
「え……?」
手のひらに触れた、小さな巾着。
巾着から中のものを取り出してみると、それはミンサー柄のシルバーのブレスレットだった。
中学の修学旅行先の沖縄でメイとお揃いで買った、あのときの思い出の品。
オレンジと赤――私たちの好きな色が柄に織り込まれた、ささやかだけど確かに大事だったもの。
(無くしたと思ってた……どうして、こんなところに)
あの日、沖縄の青い空とメイの笑顔が、ふっと胸の奥に蘇る。
思いがけず、目頭が熱くなった。
「我が店では、あなたの思い出を糧に薬を作るのです。さぁ、お気持ちは?」
サロムーンの声はやさしくて、けれどどこかで逃げ道を塞ぐような静かな強さを帯びていた。
私はブレスレットを見つめながら思う。
もしかしたら、これを渡すために、カバンの中に“戻って”きたのかもしれない。
そんな風にすら感じていた。
「……分かりました。じゃあ、これでお願いします」
「ふむふむ……ほう。これはまた、味わい深い記憶の香りがしますねぇ……」
サロムーンは両手で丁寧にブレスレットを受け取ると、まるで花の香りでも嗅ぐように目を細め、小さく鼻を鳴らした。
「それでは、調合に入ります。少々お時間をいただきますので……そこのカウンターでコーヒーでもどうぞ。うちのマスターが淹れる一杯は、けっこう評判ですよ」
そう言い残し、小さな体をちょこちょこと動かして、サロムーンは小窓の奥へと消えていった。
私の思い出を対価にして作られる薬。
現実味なんて、もうとっくに失われていた。
けれどどこかで――心のどこかで、それを望んでいたのかもしれない。
まるで夢の中のような、ふわふわとした感覚のまま。
私はそっとカウンター席に腰を下ろした。
「どうぞ」
ウェイトレスの女の子が、湯気の立つカップをそっと差し出した。
カウンターの奥でコーヒーを淹れていたマスターは、何も言わずに静かにうなずく。無骨な見た目のわりに、動きには驚くほどの繊細さと丁寧さがあった。
ふわりと立ちのぼる、焙煎した豆の深い香り――それだけで、少し心がほどける気がした。
私はブラックコーヒーがあまり得意ではない。けれど、今はなぜか飲める気がして、そっと口をつけてみた。
一口、舌にのせると、濃く豊かな香りが鼻をくすぐる。苦味の向こうに、ほんのりとした甘みすら感じた。
(……こんなコーヒー、初めて)
そのとき、ふと隣の席から声がした。
「お前さん、何か――過去に思い残しがあるんじゃないか?」
声の主は、味わい深い雰囲気の老人だった。
くたびれたジャケットに、立派な口髭。落ち着いた知的な眼差し。どこかで見たような、懐かしい空気をまとっている。
「思い残し……というよりは、過去に私の半身を置いてきたって感じです」
私がそう答えると、老人は小さくうなずいた。
「なるほどな。君がどこか、少し欠けて見えるのはそのせいかもしれんね」
「欠けてる、か……」
その言葉が、胸に静かに染みていく。
あの時――何かが壊れて、欠けて、それっきりになってしまった。
だから、今の私はどこか空っぽで、世界までもが色褪せて見えていたんだ。
そんな思いをかみしめて俯いた私に、老人がそっと、焼き菓子を差し出してきた。
「まぁ、ここに来られたってことは――その欠けた部分を、取り戻すチャンスを神様がくれたってことさ。甘いものでも食べて、少し落ち着くといい」
そう言って、やわらかく微笑んだ。
その優しい笑顔は、今の私には少しまぶしかった。
けれど、ほんの少し――心の凍っていた場所が、あたたかさに触れたような気がした。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
一杯のコーヒー、古びた壁掛け時計の針の音、レコードから流れる知らないジャズ。
その三つに意識を集中していたせいか、時間の感覚が曖昧になっていた。
一時間にも、ほんの10分にも、あるいは半日くらいここにいたような……そんな、現実とは少しずれた感覚。
そんなときだった。
ふわりと、誰かの足音が近づいてくる。
「お薬の調剤が終わったようです。こちらへどうぞ」
ウェイトレスの彼女がそう告げ、私は再び、あの小窓の前へと導かれていく。
窓の向こうには、オレンジと赤が溶け合うような、どこか懐かしい赤橙色の薬瓶を抱えたサロムーンが立っていた。
それはまるで、アンティークショップのショーケースにひっそり並んでいそうな、上質なガラス工芸品のようだった。
「いいかい、これは眠る前に一錠だけ。用量は、絶対に守るんだよ」
瓶の中では、小さな銀の粒が光を受けてきらめいていた。
母が飲んでいたサプリにどこか似ていたけれど、それ以上に、目に見えない“何か”が詰まっているような気配を感じた。
「眠る前に飲めば、お客さんの“心”に必要な効能が現れるはずさ。何が起きるかは……ふふ、お前さん次第ってとこだね」
「わ、わかりました」
私は財布を取り出そうとした。いくら持っていたか、咄嗟に思い出せなかった。
けれど、サロムーンはふるふると首を横に振って言った。
「いやいや、代金はもう結構。あの柄、ミンサー柄だったか。『いつ(五)の世(四)までも末永く』ってね。なるほど、良い想いだ。お代としては十分すぎる」
そう言って、瓶を小さな両手で差し出してくる。
「……ありがとうございます」
受け取ると、ウェイトレスの彼女がやわらかく笑みを浮かべて言った。
「またのお越しを、お待ちしています。……“また”が、あればいいですけど」
その言葉が、胸の奥にぽたりと落ちる。妙に現実味を持って響いた。
店を出るとき、カランカランとドアベルが静かに鳴った。
ふと、何かに導かれるように振り返る。
……そこにあったはずの店は、跡形もなく消えていた。
まるで最初から何もなかったかのように。
でも――手の中には、確かにあの赤橙色の薬瓶が残っていた。
夢だったのかもしれない。けれど、夢にしてはあまりにもあたたかくて、確かな重みがあった。
私はサロムーンが口にした“ミンサー柄”の意味を胸に反芻しながら、少しふらつく足取りで、ゆっくりと家路をたどった。
その夜、言われた通り、眠る30分前に薬を一粒飲んだ。
小さな銀の粒は、まるで砂糖菓子のように舌の上でふわりと溶けていく。
しばらくすると、じんわりと身体の奥から眠気が広がり、私はベッドの中へと滑り込んだ。
重力に引き込まれるように、静かに、深く、意識が沈んでいく――。
気がつくと、私は見覚えのある部屋の中にいた。
柔らかい光、見慣れた家具、壁の色。けれど、どこか記憶の中の風景のように曖昧で、輪郭がぼやけている。
ベッドに横たわる身体は重く、思うように動かない。
扉の向こうから、男女が言い争う声が聞こえてくる。怒鳴り合いではないが、感情を押し殺したような、張り詰めた声。
なんだろう、この懐かしい感覚。
夢の中だから体がだるいのか、それとも、あの薬のせいか――。
私はふらりと身体を起こし、部屋の隅に立てかけられた鏡をのぞき込んだ。
「……メイ?」
そこに映っていたのは、今の私ではなかった。
私とお揃いのパジャマを着たメイ。小さな顔に、変わらないまっすぐな目。間違いなく、あの頃のメイだった。
私は、メイになってる……?
混乱しながらも、外の会話が耳に入ってくる。
「……でも、もう無理よ。あなたもわかってるでしょ」
「……どうしてうちばかり……こんな……病気なんて……」
病気? お父さんが……?
そう思った瞬間、周囲の景色が少しだけ鮮明になった。
この部屋は、メイの部屋だ。あの頃、何度も遊びに来て、夜更かしして、恋バナして……笑い合った部屋。
壁にはあのとき夢中だったアイドルのポスター。机の端には、プリクラでいっぱいのフォトフレーム。
懐かしさに胸を締めつけられながら、私は机の上に置かれた一枚の紙に気づいた。
見慣れない専門的な文字。
“Ewing肉腫”
イーウィング……なに?
言葉の意味を咀嚼する前に、ある予感が胸を貫く。
――病気なのは、お父さんじゃなくて、メイだったんだ。
そう思ったとき、身体の奥から波のような感覚が押し寄せてきた。
沈み込むような感覚。視界が揺れ、足元から世界が崩れていく。
「い、や……もう少し……ここにいたい……」
そう願ったけれど、その想いは届かず、私は再び記憶の深淵へと飲み込まれていった。
朝、目が覚めた瞬間――私は夢だったのか現実だったのか、曖昧な感覚の中にいた。
けれど、ひとつだけはっきりしていたのは、あの言葉が頭から離れないことだった。
“Ewing肉腫”
夢の中で見た紙の文字。メイの机の上に置かれていた、あの見慣れない単語。
忘れてしまう前に、枕元のスマホを手に取り、震える指で検索をかける。
《ユーイング肉腫とは――》
検索結果のトップに出てきた説明をタップし、画面に現れた文字を読み進めるにつれて、胸が苦しくなっていく。
“骨や軟部組織にできる悪性腫瘍。10代に多く、進行が早く、再発や転移のリスクも高い……”
「……うそ」
思わず小さく呟く。
こんなにも深刻な病気だったなんて。あの夢で感じた、メイのだるさ、重さ、言葉にできない沈黙。
それが、すべて現実だったのかもしれない。
私は……私は、何も知らなかった。
メイがそんな身体で、ずっと一人で、耐えていたのに。私は、彼女の気持ちを一度でも想像しようとしただろうか。
「……バカ……私、何してたの……」
あの頃の自分を思い出す。
どこかメイに苛立って、勝手に距離を置いて、優しさの裏を疑って……。
何もできなかったくせに、わかったふりして、勝手に怒って、勝手に傷ついて。
全部、メイのせいだと決めつけて――本当は、私が逃げていただけなのに。
「ごめんね、メイ……っ」
ぽたぽたと、スマホの画面に涙が落ちる。
悔しさと、情けなさと、後悔が一気に胸の奥から溢れ出してきた。
もし、あの薬がくれた夢が、本当にメイの心に触れた一夜だったとしたら。
あの時の沈黙も、あの笑顔も、そしてだるそうだった身体も――全部、現実だったんだ。
「……なんで、気づいてあげられなかったんだろう……」
声にならない嗚咽が、部屋の静けさの中に広がる。
私はただ、泣くことしかできなかった。
メイの気持ちを、やっと知った今になって。
その日、私は「体調不良」で会社を休んだ。
スマホで上司に簡単なメッセージを送り、部屋のカーテンを閉めたまま、ずっと布団の中で泣いていた。
泣いて、泣いて、泣いた。
涙が枯れるなんて嘘だと思っていたけど、あれは本当にあるかもしれないと、ぼんやり思えるくらいに。
体の奥から、ぐちゃぐちゃな感情があふれて止まらなかった。
後悔、悔しさ、無力感、そして――取り返しのつかない時間に対する怒り。
あのとき、私はメイに何もしてあげられなかった。
気づきもしなかったし、聞こうともしなかった。
ただ、傷つけて、離れて、勝手に傷ついていたのは、私の方だったのに。
でも――
「このままじゃ、意味がないよね……」
目元をぐしぐしと拭きながら、私は布団から身体を起こした。
泣いても、過去は変わらない。けど、これからをどうするかは、私の手の中にある。
心が強いなんて、自分では思ったことなかった。
けれど、あの夢が見せてくれたのは「何かを知る覚悟」と「やり直すチャンス」だったのかもしれない。
なら、私にはその機会をちゃんと掴み直す責任がある。
深呼吸を一つして、スマホを手に取る。
再び「ユーイング肉腫」と検索し、今度は病気そのものだけでなく、闘病記録や克服した人のブログも調べてみる。
「……え、寛解してる人もいるんだ……再発しても、治療を続けて、今は元気に仕事してるって……」
目の前が、少しだけ明るくなった気がした。
それからは、調べる手が止まらなかった。
治療法、闘病中の生活、患者支援団体、SNSでの発信、同じ病気を経験した人たちの声――
あらゆるページをめくっては、スクロールして、読み込んだ。
「もしかしたら……メイも、まだ生きてるかもしれない」
夢で感じたあのだるさは、病気のせいだったのかもしれない。
でも、私の知らないところで、ずっと闘って、今もどこかで笑ってくれているかもしれない。
そう思うと、いてもたってもいられなかった。
中学校の卒業アルバムを引っ張り出し、メイのフルネームを改めて確認する。
SNSで名前を検索してみたり、旧友の名前を手がかりに、つながりをたどってみたり。
もしかしたら見つからないかもしれない。
でも、それでも――
「探さなきゃ、始まらない」
あの薬瓶がくれた時間は、きっとただの夢じゃない。
私が本当に向き合うべき記憶に、もう一度光を当てるための、大切な一歩だった。
ハルは、再びメイに会うために、そして自分を取り戻すために――動き始めた。
ネットで得られる情報には、やっぱり限界があった。
あちこちのサイトやSNSを巡っても、直接的な手がかりは見つからない。
しかも、今はもう深夜――誰かに連絡をとるには遅すぎる時間。
「今日はもう、これ以上できることはないな……」
私はスマホをそっと置き、目を閉じた。
明日になったら、患者支援団体に連絡してみよう。
何か新しい糸口が、そこにあるかもしれない。
そう思いながら、再びあの薬瓶を手に取る。
サロムーンからもらった、赤橙色のガラス瓶。
中の銀色の小粒が、ほんの少しだけ心を落ち着かせてくれる気がした。
カチ、と一粒。
水と一緒に飲み込むと、30分後、まぶたが重くなり、身体がふわりと沈んでいくような感覚に包まれた。
深く、深く――
夢の底へと、静かに沈んでいく。
気がつくと、私はどこか見知らぬ部屋にいた。
あたたかくも冷たくもない、無機質な空間。
ベンチに仰向けになっていて、全身がひどくだるく、腕や足にまったく力が入らなかった。
「……ここは?」
ゆっくりと目を動かすと、腕に見覚えのあるものが巻かれている。
あのお揃いのブレスレット――それに、病院用の識別バンドだった。
それに気づいた瞬間、私は息を呑む。
部屋の中には、いくつものリハビリ機器が並んでいた。
手すりのついた歩行訓練用の器具、トレッドミル、筋力トレーニングのための補助具。
そして正面の壁にかかるテレビモニターには、ニュース番組とともに「20XX年○月△日」の文字が表示されていた。
「……5年前」
私は目を見開いた。
この世界が夢だとしても、そこに映った数字だけは、確かな現実のように思えた。
つまり、メイは少なくとも5年前には、まだ生きていた――
力が入らない身体で、ぎりぎりの意識の中、私は小さくつぶやいた。
「メイ……生きててくれたんだ……」
その事実だけが、今の私にとって、救いだった。
たとえそれが過去でも、夢の中の出来事でも、ちゃんと生きていたという証拠が、たしかにそこにあった。
私は、ゆっくりと瞼を閉じた。
次に目を開けるとき、もう一歩だけ、彼女に近づけている気がした。
記憶が再び沈んでいく直前、どうしても、この体に、そしてこの瞬間に伝えたい言葉があった。
喉の奥から、気力のすべてを込めて、声を振り絞る。
「……絶対、会いにいくからね」
そのひと言は、自分自身への誓いでもあった。
そうして私は、意識の深淵から、現実の世界へと戻っていった。
目が覚めると、脳裏にははっきりと、あのリストバンドに刻まれていた病院名が残っていた。
神奈川旭がんセンター。
これまでの人生でその名前を聞いたことはなかった。
なのに、夢の中に出てきたその固有名詞が、妙に現実味を帯びて胸をざわつかせる。
私はすぐさまスマートフォンを手に取り、公式サイトを確認し、代表番号へ電話をかけた。
「申し訳ありませんが、患者さまに関する情報は、守秘義務により……」
当然の返答だった。
どれだけ懇願しても、個人情報を開示することはない。わかっていた。
それでも、少しでも何か……と願ってしまった自分が、切なかった。
しかし、立ち止まっているわけにはいかない。
私はすぐに次の手段に切り替えた。
希少がんや小児がんの支援団体――患者・家族・遺族のネットワークに通じている可能性が高い。
Webサイトを経由して、数件の団体に連絡を送った。
だが、今日は土曜日。
事務局の対応は週明け以降になる。
それが現実の時間の壁だった。
「……待つしかないか」
待つのは性に合わない。受け身でいることに、私は慣れていない。
それでも、焦ってもどうにもならないと分かっている。
だから私は、次にできることを考えた。
とりあえず本屋に向かおう。
医学書や闘病記――Ewing肉腫に関する情報は、ネットでは断片的だ。
もっと体系的で具体的な知識が必要だ。
メイがどんな病気と闘っていたのか、どれほど過酷だったのか、そして今も生きている可能性があるのなら、その可能性を追うために、私は知るべきなのだ。
自分の無力さを悔やんで泣いていた数時間前とは、もう違う。
後悔の重さは、私の中で行動へと変わっていた。
もしかしたら――
神奈川の支援団体から、奇跡のように今日中に連絡があるかもしれない。
そんな一縷の望みに背中を押されるようにして、私は少し遠出をすることにした。
向かった先は、みなとみらい。
海の気配が混じる、風通しのいい街。
少し離れてはいるけれど、大型の書店がある。きっと、医学書も闘病記も、たくさん揃っているはず。
それに――メイに近づけるような、そんな気がしたのだ。
慣れない道に少し迷いながらも、どうにか目的の書店にたどり着く。
エスカレーターを上がり、フロアマップを確認する。まずは医学書コーナーへ――そう思っていたのに、なぜか足が止まったのは、文学のコーナーだった。
ずらりと並ぶ色とりどりの物語たち。目が回るほど多くの背表紙。
その中で、一冊だけ不思議と視線を引く本があった。
『廻薬 (まわりぐすり)』
著者は藤崎 散人。
聞き覚えのある名前だった。たしか、文学賞か何かを受賞していた人。
けれど、作品名にはまったく見覚えがない。なんとなく気になって手に取ってみると――
内容は、主人公が不思議な薬を飲んで、過去や未来、色々な人の人生を体験するストーリーだった。
そして、表紙の裏に、見覚えのある顔があった。
「あの……おじいさん……?」
コーヒーと焼き菓子を出してくれた、あの喫茶薬局の老人。
無骨で穏やかな、味わい深い人。まさか、彼が小説家だったなんて。
運命なんて、信じていなかった。
けれど、こんな風に“巡ってくる”瞬間があるのなら、ちょっとくらい信じてみてもいいかもしれない。
そんな風に、胸があたたかくなったその時だった。
「……ハル」
背後から、優しく掠れた声が響いた。
心臓が跳ねる。
この声。
遠くに置いてきたはずの、けれど一瞬で蘇る声。
少し掠れていて、大人びていて、でも――
私はゆっくりと振り返った。
「……メイ?」
目の前に立っていたのは、たしかに、メイだった。
時が流れたぶんだけ変わっていたけれど、その瞳も、佇まいも、あの頃のままだった。
信じられない。けれど、たしかにここにいる。
夢ではなく、現実の中で。
私の胸が、じんわりと熱くなった。
もしこれがドラマやアニメだったなら、私はきっと勢いよく飛びついて、泣きながら抱きしめていただろう。
でも現実は違った。
私はその場から一歩も動けなかった。
まるで、10年分の想いが足元にまとわりついて、しがみついて、離してくれなかった。
目の前にいるメイは、少し痩せていて、ニット帽をかぶっていた。
けれど、間違いなかった。たしかに、そこに“彼女”がいた。
「……どうして、ここに?」
やっとの思いで、震える声を絞り出すと、メイは少し照れたように微笑みながら、小さな瓶をバッグから取り出した。
「……実はね、これ」
見覚えのある薬瓶。
赤橙色のガラスに、光がキラリと反射していた。
「……この薬……」
「うん、あの薬局に、私も行ったの。そこで、このお薬をもらってね。飲んでみたら――ハルの“昔”が見えたの。
ハルの部屋でブレスレットを見つけて、カバンに入れたのも、私」
「そして、今日の朝飲んだらね……この書店で、“その本”を手に取るハルが見えたの」
私の手元を見る。そこには、たしかに同じ薬瓶があった。
メイも、あの不思議な薬局に辿り着いていたのだ。
それだけで、何もかもが溢れてきた。
私は、声にならない嗚咽をあげて、その場に崩れ落ちた。
言葉にならない感情が、涙と震えになってあふれ出す。
周りの人が振り返り、心配そうにこちらを見ていた。けれど、そんなことはもうどうでもよかった。
そこにメイがいる。
それだけで、世界がやさしく色づいた気がした。
松葉杖をついたメイは、まだ少し足取りは不安定だけれど、それでもたしかに、自分の足で立っていた。
再発を乗り越えて、こうしてまた歩けるようになったのだという。
「……ごめんね、何も言わずにいなくなって」
ベンチに腰掛けたメイが、ぽつりとそう言った。
顔は笑っていたけど、その声は震えていた。
「許せないよ」
私はそう言った。
「でも……許して。私も、寄り添ってあげられなかった。怒って、勝手に距離を置いて、なにも気づけなかった。気づこうともしなかった……」
涙が止まらなかった。
過去の自分が悔しくて、情けなくて、それでもようやく今、向き合えた気がした。
二人は――偶然か必然か、あの不思議な薬屋にたどり着いていた。
ブレスレットを依代に、それぞれの“心”に必要な薬が調合されたのだった。
そしてその薬が、記憶の深層で二人を再び巡り合わせた。
「これからは……ずっと一緒にいるから」
私はそう言って、メイの手をぎゅっと握った。
「私の友情、なめないでよね」
メイが笑った。泣きながら、笑ってくれた。
過去の痛みも、言えなかった言葉も、すれ違いも、全部ひっくるめて、
ようやく“ここ”に帰ってきた気がした。
そうして二人の逃避行は、ようやく“今”という現実に落ち着いた。
もう迷わない。これからは、どんな時も隣にいる。
それは、きっと、魔法なんかじゃない。
けれど――それでも、確かな奇跡だった。