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乳白色の薬瓶

 親が家を手放すことになった。

 理由はまあ、シンプルだ。子どもたち全員が巣立ったし、これからはもっと便利な場所に住みたい――とのこと。で、引っ越し先は駅近のマンション。


 そんなわけで、俺たち兄弟は久しぶりに実家に集合して、荷物整理を任されることに。

 しかしまあ、作業がはかどるわけもなく。

「アニキ、見てこれ!なつかしー!」

「うわ、なっつ!変身ベルトとかまだ取ってあったのかよ!」

「この漫画も置きっぱだったわ。これ、持って帰ろっかな〜」


 思い出が詰まった部屋で、テンポのゆるいタイムトリップ。

 ついには、リビングに響く懐かしい雷。


「こら、あんたたち!遊んでないで片付けなさい!」


 はい、久々の母ちゃんボイス。反射的に背筋が伸びるの、我ながら情けない。


 そんなこんなで、俺は自分の使ってた机の奥をあさっていたんだけど――そこで、不思議なモノに出くわした。


「……ん?」


 古びた、けれどどこか品のある金属製の筒。望遠鏡……なのか?昭和レトロというか、下手したらアンティークって呼ばれそうな見た目。


「こんなの、あったっけ?」


 思わずつぶやくと、すぐそばから母ちゃんの声がした。


「ああ、それね。懐かしいねえ。昔、瑞稀くんにもらったやつよ」


 瑞稀くん?


 ……誰だ、それ。


 記憶のアルバムをめくってみるが、その名前にはまるで心当たりがない。

 子どもの頃の友達? 近所の誰か? それとも――


 この望遠鏡のレンズの先に、俺の知らない何かが映っていたりするのかもしれない。


 ――そうして、俺の“記憶にない友達”を巡る不思議な旅が始まった。



 実家のある場所は、街の中心から少し外れた、静かな住宅街だ。

 コンビニに行くのもちょっと歩く。だけどそのぶん、空が広い。


 小さめの望遠鏡をそっと覗き込む。

 ――ああ、見える。小さく、瞬いて、どこか懐かしい光。


 こんなふうに星を見るの、いつ以来だろう。

 胸の奥が、じんわり温かくなっていく。


(そうだ……昔、誰かとこうして、星を見たことがあった)


 砂利の感触。夏の夜の風。蚊取り線香の匂い。

 そして、隣にいた誰かの横顔。


「……瑞稀くん、か」


 母ちゃんの言っていた名前。

 俺はその記憶を、なぜかすっかり忘れていた。

 あんなに大事だったはずなのに。


 けれど今、こうして星を見ていると、少しずつ輪郭が浮かび上がってくる。

「誰かの思い出」と一緒に見る星空は、自分のノスタルジーに触れて最高だ。


 でも――もうすぐこの家はなくなる。

 俺も、ここには多分戻ってこない。


 そんなことを考えながら歩いていると、不意に、妙な建物が目に入った。


(……あれ? こんなとこに、こんな店あったっけ)


 半分ツタに覆われた、窓にシンプルなステンドグラスがハマっている木造建築。

 いかにも“時間が止まったような”空気を纏った、アンティークな家。


 玄関の上には、古びた看板がかかっていた。

 ちょっと変わった文字で、こう書かれている。


「くすり」


(薬屋?……にしては、ちょっとファンタジーすぎない?)


 ガラス越しに中を覗くと、棚にはカラフルな小瓶がずらり。

 青、緑、赤、金色。まるで、絵本に出てくる魔法の薬屋のようだ。


 時計を見れば、もう22時をまわっている。


(こんな時間に開いてる薬屋なんてある?……っていうか、カフェ? いや、バー?)


 ありえないと思いながらも、なぜか引き寄せられるように、ドアノブに手をかけていた。


 カラン……と、ドアベルが鳴る。


 懐かしい星空の下で始まる、不思議な夜の物語。

 それが、この店との出会いだった。



 店の中は、まるで時間がねじれてしまったみたいだった。

 薄明かりに照らされた棚には、色とりどりの薬瓶がずらりと並んでいる。

 青に緑、赤に紫――どれもガラス細工のように繊細で、見ているだけで吸い込まれそうになる。


(昔の薬瓶って、個性的で綺麗だな)


 奥には、小さなカフェのようなスペース。丸いテーブルに椅子が三脚。

 カウンターには、年季の入った白髪のおじいさんと、渋い雰囲気の無愛想なマスター。

 そして――制服姿の、どこかレトロな雰囲気の女子がいた。


 その子は、俺を見てふわりと微笑んだ。


「いらっしゃいませ。ここは薬屋ですよ」


 あまりに自然な笑顔でそう言われて、一瞬、返す言葉に困った。


「えっ……ほんとに薬屋なんだ。あの、すみません。てっきりカフェか何かかと……」


 可愛い子に話しかけられたことに若干照れながら、そそくさと引き返そうとする。けれど、その瞬間。


「お待ちください」


 彼女の声が、やわらかくも、背筋にすっと入ってくるような鋭さを持って俺を止めた。


「ここは、必要としている人の前にだけ現れるんです。だから、お客様も、今初めて見たんでしょう?」


「え……?」


 足が止まる。脳裏に疑問が走る。

 確かに、こんなところに薬屋があるなんて、今の今まで知らなかった。

 昔からこの道はよく通ってたはずなのに。


「ふふ、難しく考えなくて大丈夫。あなたは今、何かを必要としてる。だから、ここに来れたんです」


「……何かって、何を」


 そう言ったとき、自分の中で何かが引っかかった。

 小学生の頃の記憶。思い出せない瑞稀くん。

 望遠鏡。星。忘れていた、はずのもの。


 息を飲む。少しだけ、怖くなった。けれど。


(……気になる)


 それ以上に、好奇心の方が勝っていた。

 あの薬瓶たちの色彩よりも、彼女の言葉よりも、この不思議な空間そのものが、俺を惹きつけて離さなかった。


「さ、ご案内します。薬剤師が、あなたはどんな薬が欲しいか、問診します」


 彼女がふわりとスカートの裾を揺らしながら、奥へと歩き出す。


 案内されたのは、店のさらに奥――不思議と静まり返った、ほんのり甘い香りが漂う空間だった。

 その一角に、壁にぽっかり開いた小窓がある。まるでコーヒースタンドのテイクアウト窓みたいな造り……いや、それよりもずっと小さい。


 彼女が鈴を取り出し、「リン、リン」と鳴らす。

 チリチリとした音が空気に溶けていった次の瞬間、奥から声がした。


「おや、お客様ですね。ようこそいらっしゃい。さて、どんなお薬をご所望で?」


 ……誰だ? 声は聞こえるけど、姿が見えない。


 きょろきょろと辺りを見回していると、その声がクスクスと笑った。


「そっちじゃないですよ。もっと、下。そう、ずっと下をご覧なさい」


 促されるまま視線を下げた俺は――言葉を失った。


「……は?」


 小窓の下、カウンターの奥にいたのは――

 ネズミ、だった。


 いや、ただのネズミじゃない。

 灰色の毛並みに、ちょこんとした耳。

 ベストに蝶ネクタイという、完璧な“薬剤師スタイル”。

 その前脚には、小さなメモとペン。器用に何かを書き込んでいる。


「CGか……?ホログラム?それともロボット……?」


 混乱している俺に、“彼”は、にこやかに言った。


「ご紹介が遅れました。私がこの薬屋の店主にして薬剤師の、サロムーンと申します」


 ネズミが……喋った。


 思考が追いつかない。現実感が揺らいでいく。


(騙されてる?夢?それとも、なんかのドッキリか……?)


 なのに、その瞬間だけは、どういうわけか――

 ふっと、胸の奥が軽くなった気がした。


 サロムーンは、ゆっくりと目を細めて言った。


「ここは薬屋――ですが、少しだけ特別です。

 私たちは、“あなたが本当に必要としている薬”を処方する、魔法の薬屋なんですよ」


 魔法。


 その言葉は、まるで昔の友達の名前みたいに、心の奥で微かに響いた。


 信じられない光景を前にして、たぶん俺は、盛大にポカンと口を開けていた。

 けれどサロムーン――蝶ネクタイを締めた、喋るネズミの薬剤師は、まるでそれすら見慣れているかのように、穏やかな声で続けた。


「では、お話を進めましょう。

 この薬屋では、あなたの“大事なもの”と引き換えに、最適なお薬を調合いたします」


「……大事なもの?」


 思わず聞き返すと、サロムーンはちょいと小さな杖を持ち上げて、くるりと一振り。


 その先端が、俺の手にぶら下がっている望遠鏡を、ピタリと指し示した。


「たとえば、それですね」


「え、これ……?」


 思わず望遠鏡を抱きかかえる。

 古くて、見た目より重くて、レンズにちょっとヒビも入ってる。けど――手放せる気がしない。


「いや、これは……まだちょっと……」

 言葉を探しながら、なんとか口に出した。


「ふむ」


 サロムーンは、つぶらな瞳でじっと俺を見つめ、メモにカリカリと何かを書き込む。


「どうやら……あなたの記憶に、いくつか欠けている部分があるようですね」


「……記憶……」


 瑞稀くん。

 名前だけは出てくるのに、顔が思い出せない。声も、笑い方も。


 俺は、誰と星を見てたんだろう。

 この望遠鏡は――誰と一緒に、覗いたんだっけ?


 サロムーンは、くいとベストを整えると、小さく頷いた。


「記憶が不安定なままでは、正しい薬の処方はできません。もう少し、記憶の整理が必要ですね。

 ――一度、お家に帰ってみてください。

 それでも、薬が必要だと思ったなら……また、ご来店を」


 そう言って、ちょこんとお辞儀をした彼は、ぴょこぴょこと奥のカーテンの向こうへと消えていった。


 そこにはもう、さっきの気配も、鈴の音もなかった。


 ……まるで、最初から何もなかったかのように。


 ウェイトレスさんが、小さく手を振って見送ってくれた。

 カウンターに座っていた年季の入った爺さんは、ニカッと笑いながら、こんなことを言ってきた。


「また会おうな、坊主」


 言葉の意味を咀嚼する暇もなく、扉がゆっくりと閉まった。

 カラン、と鈴の音が鳴って、俺は外に出る。


 その瞬間――


「……え?」


 振り返ると、そこにはただ、普通の民家と民家の隙間しかなかった。

 店のドアも、看板も、あのカラフルな薬瓶も。

 全部、影も形もなくなっていた。


 まるで最初から、そこに“店なんてなかった”みたいに。


 アスファルトの隙間から雑草が生えてる、くすんだコンクリの壁。

 その間に、薬屋がすっぽり収まってたなんて、到底信じられない。


「……え、何これ……」


 俺は思わず、足元を確かめた。

 さっきまで立ってたはずのタイルもない。舗装の古い路地が続いているだけ。


 ――これは、いわゆるアレか。


「……狐に、摘まれた?」


 誰に聞かせるでもなく呟いた言葉が、夜の風に溶けていく。

 寒気が、背中をさっと撫でた。


 その場に立っているのが怖くなって、逃げるようにして走り出した。

 民家の灯り、路地のカーブ、見慣れた町並みが、やけに遠く感じる。

 そうして、ようやく実家の明かりが見えたとき、少しだけ、現実に戻ってきたような気がした。



 翌日。

 まだ昨日の出来事の余韻を引きずったまま、俺は部屋の隅に眠っていた小学校の卒業アルバムを取り出した。


 ふわふわと、現実と夢の境目にいるような感覚。

 それでも、ページをめくる手が止まった。


 ――いた。


「……瑞稀、くん……」


 眼鏡をかけた、少し気弱そうな、けれど優しげな少年。

 写真越しの彼は、やや緊張したような表情でこちらを見ている。


 途端に、記憶の扉が少しずつ開いていく。


 遠足で、同じお弁当を分け合ったこと。

 課外学習で、彼がたくさんのことを教えてくれたこと。

 体力はなかったけれど、博識で、「ハカセ」なんてあだ名がついていたこと。


「……どうして、忘れてたんだろうな」


 ぽつりと独り言がこぼれた。


 けれど――

 中学の卒業アルバムには、彼の姿がなかった。


「引っ越したのか……?」


 気になって、母ちゃんに尋ねてみた。


「なぁ、瑞稀くんのこと、覚えてる?」


 洗濯物を畳んでいた母ちゃんは、手を止めて俺を見た。


「ああ、もちろん覚えてるよ。……あんた、もしかして忘れてたの?」


「いや……なんか、記憶が絡まっててさ。ぼんやりしてたというか」


「そうか……そりゃ、あんたにはショックだったもんね。あの事件は」


 ――事件?


 一気に現実に引き戻されたような気がした。


「……事件って、なに……?」


 母ちゃんは、少し言い淀んでから、ぽつりと告げた。


「……ショックすぎて、記憶から消したのかもしれないね。

 瑞稀くん――あの子、この街で行方不明になったのよ」


 言葉が出なかった。


 耳鳴りがして、視界の隅がにじむ。


「……そ、うだった……そうだった……」


 頭の奥で何かが音を立てて崩れ、封印していた記憶のひと欠けらが、胸の中に戻ってきた気がした。


 俺は、きっと、思い出したくなかったんだ。

 それで、無意識のうちに、全部――忘れていたんだ。



 俺は、強く記憶を取り戻した。


 それは、秋の入り口――

 少し肌寒さが感じられるようになった、あの頃のこと。


 瑞稀くんから、SNSでメッセージが届いていた。


「今夜、オリオン座流星群が見えるんだって。丘の上、覚えてる?一緒に行かない?」


 今なら、胸を張って「行くよ」と言える。


 けど――あのときの俺は、違った。


 中学に上がってクラスも別々になって、なんとなく距離を感じ始めていたし、

 何より俺は、「星かよ、今さら?」なんて、斜に構えていた。


 その夜は、話題の深夜アニメの新シリーズが始まる日だった。

 そっちを見逃したくなくて、ただそれだけで――俺は、断った。


「ごめん、今日はちょっと」


 あっさりと、そう返してしまったんだ。


 その日を境に、瑞稀くんは――いなくなった。


 森に入ったのか、丘に登ったのか。

 いくら大人たちが探しても、何一つ痕跡は見つからなかった。


 小柄だったし、誘拐説も出たけど、結局、真相はわからないままだ。


 わかっているのは、ただひとつ。


 瑞稀くんが、消えてしまったということ。


 そして、俺は――ショックで、高熱を出して寝込んだ。


 気がついたら、何もかもがぼやけていた。


 きっと、無意識のうちに、すべてを閉じ込めてしまったんだ。


 思い出さないように。

 見ないように。

 感じないように。


 だから、望遠鏡のことも、瑞稀くんのことも――まるごと、心の奥底にしまい込んでいた。


 でも今、俺はようやく、思い出した。


 そして、はっきりわかる。


 俺は――あのとき、「行くよ」って言うべきだった。



 その夜。

 俺は、望遠鏡を片手に、静かに玄関を抜け出した。


 胸の奥がざわついていた。

 思い出した記憶は、鈍い痛みのように心をかき乱す。

 それでも、何かを――いや、「誰か」を取り戻せるかもしれない。

 そんな微かな希望にすがって、俺は歩き出した。


 昨日、薬屋があったはずの場所へ向かった。

 でも、そこにはただ、古びた住宅とブロック塀が並んでいるだけだった。


「……ない、か」


 もしかして、あれは夢だったのか?

 そう思いながらも、足を止められなかった。


 町を彷徨った。

 細い路地、古びた商店街、夜の風が冷たくて、指先が痺れる。

 だけど、それでも俺は探し続けた。


 そして、気がつけば、あの公園にたどり着いていた。


 瑞稀くんが言っていた丘。

 流星群を一緒に見に行こうって誘われた、あの場所だ。


 草むらに腰を下ろして、望遠鏡を覗いてみる。

 空には星がまたたいていた。

 懐かしくて、痛くて、それでもどこか優しい光。


「……瑞稀くん」


 ぽつりと名前を呼ぶ。


 そのときだった。

 背中に、ふわりと温かな光を感じた。


「……え?」


 振り返ると、そこに――あった。


 昨日と同じ、いや、昨日よりもどこか輝いて見える、不思議な薬屋。

 古びた木造の看板に「くすり」と書かれ、ガラス瓶の光がぼんやりと外に漏れている。


「……あった……!」


 俺は思わず立ち上がって、声を上げた。


 それはまるで、星が導いた奇跡のようで。

 けれど確かに、今この目の前に、あの店は存在していた。



「いらっしゃいませ。いつぶりなんでしょうか。ここでは時間の流れが少し不規則でして……遠い昔だったのか、ついさっきだったのか、私にもわかりません」

 ウェイトレスの彼女が、ふんわりと微笑みながら迎えてくれた。


「ああ、あの時の坊主か」

 カウンターでは、あの爺さんがコーヒーを片手にくつろいでいる。

「なんだい、また心に風邪でもひいたのか?」


「……問診をお願いしたいんです」

 俺がそう言うと、彼女はうなずいて、再び奥の扉へと俺を案内してくれた。


 ギィ――と、静かに開かれた扉の向こう。


 そこには、あの時と変わらず、小さな小窓と、そして――


「やあ、戻ってきましたね。昨日? それとも十年ぶりかな? 私にはどっちでも構わないけれど」


 ちょこんと姿を見せたのは、例のネズミの薬剤師・サロムーンだった。

 ベストに蝶ネクタイ。小さな眼鏡越しに、俺の顔を見上げる。


「俺にとっては……昨日のことです」

 俺はそう答え、ゆっくりと望遠鏡を取り出して見せた。


「きっと、俺は――ここの薬が必要なんです」


「……ふむ」


 サロムーンは望遠鏡を両前足で受け取ると、くんくんと匂いを嗅いだ。


「これはまた……懐かしい星の匂いがしますねえ。記憶と、後悔と、そして、願いの香り……なるほど、悪くありません」


「これで薬が作れるんですか?」


「もちろん。ただし――」

 彼は望遠鏡を胸に抱えながら、真っ直ぐに俺を見た。

「この望遠鏡は、もう戻ってきません。それでも、いいのですね?」


 一瞬だけ、迷いが過った。

 けれど、もう俺は後戻りしないと決めた。


「……はい。お願いします」


 サロムーンは、満足げにニヤリと笑った。


「よろしい。では、調合に入ります。少々お時間をいただきますよ」

 そして、小窓の奥へと、軽やかに跳ねながら姿を消した。


 その背に、俺は小さくつぶやく。


「頼んだよ、サロムーン」


 扉を閉めると、あのウェイトレスさんがすでにカウンターにコーヒーを用意してくれていた。


「どうぞ。マスターの一杯は、ちょっと苦くて、でも……優しい味がします」


 香り高い湯気が、心の奥をゆっくりとほぐしていく。


 隣の爺さんが、カップを置いて俺に話しかけてきた。


「……何か、過去に忘れ物でもしたのかい?」


「いや、忘れ物というか、後悔というか……それすら忘れていた自分に腹が立ってるというか」


 俺の言葉に、爺さんはふっと目を細めた。


「ふむ、なるほど。忘れたくなくても、忘れてしまうのが人間ってもんさ。ワシなんか、昨日の夕飯すら思い出せん。過去ってのはな……泡沫の夢のようなものなのかもな」


 俺が困った顔で首をかしげると、爺さんは笑った。


「でもな。こうして、ここに来られたってことは――その夢を、もう一度見つめ直すチャンスってことだ。元気だせ、坊主。ガハハッ!」


 その声に、肩をポンと軽く叩かれる。なぜだか少し、気持ちが軽くなった。


 やがて、コーヒーの最後の一口を飲み終えた頃、ウェイトレスさんが静かに俺の隣に立った。


「お薬の調合が終わったようです。こちらへどうぞ」


 奥の小部屋に入ると、そこには――乳白色の薬瓶を両手に抱えたサロムーンがいた。

 瓶は、古い図鑑で見たアンティークガラスのようで、内側からかすかに光っている。瓶の中には、宝石のような小さな粒がいくつも浮かび、まるでミニチュアの天の川だった。


「お待たせしました。こちらが、あなたの記憶と後悔、そして願いから調合された“薬”です」


 サロムーンは瓶をそっと差し出した。


「これはね、眠る前に一錠だけ。絶対に、それ以上飲んではいけません。いいですか?」


「……はい」


 俺は薬瓶を受け取り、その重みを感じた。

 小さくて、キラキラしていて――それでも、きっとこれは、俺の心のどこかに届く薬なんだ。


 サロムーンがにこりと笑った。


「効き目には個人差がありますが……願いを信じる気持ちがあれば、きっと効きますよ」


「……わかりました」


 俺は静かに頷き、無意識に財布へ手を伸ばそうとした。


 だが、それを見たサロムーンが、ひょいと手を振った。


「いやいや、代金はもう頂いたじゃないか。望遠鏡――あれは、実にいい“想い出”だったよ。お代としては、十分すぎるほどだ」


 そう言って、サロムーンは両手で小さな瓶を大切そうに持ち上げ、俺に手渡してくれた。


「……ありがとうございました」


 俺が礼を言うと、横からウェイトレスさんがそっと微笑んだ。


「またのお越しを、お待ちしています。……“また”が、あればですけどね」


 その言葉が、なぜだか妙に胸に引っかかった。

 でも俺は、瓶をしっかりと握りしめ、静かに頭を下げて店をあとにした。


 そして、ふと――振り返る。


 ……そこにあったはずの店は、もうどこにもなかった。

 ただ、家と家の隙間に冷たい夜風が吹き抜けているだけだった。


 一瞬、都合のいい夢を見ていただけなのか、とさえ思った。


 けれど、俺の手の中には――

 確かに、あの乳白色の薬瓶が、今もぬくもりを持って存在していた。



 その夜――

 俺は、不思議な夢を見た。

 夢、というより……過去の記憶だった。


 懐かしいスマホを手に取る。待ち受けも、間違いなく“あの日”のままだ。


「……これは、一体……?」


 カレンダーの日付も、メッセージの履歴も、すべてが当時のままだ。

 もしかしたら、夢の中だけでも、やり直せるのかもしれない。


 俺は机の引き出しを開けて、あの望遠鏡を探した――が、そこにはない。

「……ああ、そうか。サロムーンに渡したんだった」


 でも、そんなことはどうでもよかった。

 大事なのは、“今”この夢の中で、あの丘に行くことだ。


「ちょっと、こんな時間にどこ行くの!」

「おい、どうした、こんな夜中に!」


 階下から、今より少し若い両親の声が飛んでくる。

 だけど俺はもう止まれなかった。


 部屋着のジャージのまま、スマホだけ握りしめて、夜の街に飛び出す。

 わけもなく涙が出そうだった。


 今なら、まだ間に合う気がする。

 公園の丘。あの場所に――

 瑞稀くんが、いるかもしれない。


 夢でもいい。会って、謝りたい。

 それだけを願って、俺は夜の道を全速力で駆け抜けた。



 天気は晴れ。

 星空が、信じられないほどくっきりと見える。


 そして――

 彼は、いた。


 暗がりに立つその姿は、はっきりとは見えなかったけれど、間違いない。

 瑞稀くんだ。


「はぁ、はぁ……ご、ごめん、瑞……」


 全速力で駆けてきたから、言葉がうまく出てこない。

 息を切らす俺を見て、彼は少し驚いたようだった。でも、どこか嬉しそうに笑って、


「どうしたの? 来ないと思ってたのに」


 そう言って、水筒を差し出してくれた。

 温かいお茶が喉を通って、少しだけ落ち着く。


 俺は、言わなきゃいけないと思った。


「ごめん……瑞稀くん。

 なんか、距離を感じてたっていうか……

 ちょっと斜に構えてたんだ、俺。

 でも、君のことが嫌いだったわけじゃないんだ。ほんとに……」


 まだ暗くて、表情はよく見えなかったけれど、

 彼はきっと、あの頃と同じ優しい顔をしてたんだと思う。


「なんだよ、それ。変なこと言うなぁ」


 少し照れたように笑って、そして、こう続けた。


「でも、全速力で来たってことは……やっぱり、星が見たかったんだね?」


「いや……そうじゃない。いや、そうかもしれない」

「俺は――瑞稀くんと、星が見たかったんだ」


「……そっか」

「天体スペクタクルショーは、まだ始まったばかりだよ。一緒に見よう」


 彼はそう言って、俺を望遠鏡の前に導いた。

 それは、あの古びた望遠鏡じゃない。

 新しくて、どこか未来を思わせるような、立派なやつだった。


 目が暗闇に慣れてきて、ようやく彼の顔が見える。


 ――そうだ、瑞稀くん。

 こんな顔、してたよな。


 夜空には、宝石をまき散らしたような天体ショー。

 キラキラと瞬く星々が、まるで今日の再会を祝っているようだった。


「ねぇ、オリオン座の話、知ってる?」

 ふいに、瑞稀くんが問いかけてきた。


「オリオン座の話? ……うーん、方角の目印になるってことくらいしか」


「ふふ、そっか。じゃあ教えてあげる」


 瑞稀くんは、空を見上げながら静かに話し始めた。


「オリオンってね、死んじゃったんだよ。

 でも恋人のアルテミスが神様にお願いしたの。

 “オリオンを空に上げてください”って。

 そうすれば、空を駆けていくオリオンを、いつでも見上げられるからって――」


「……死んだ人に会える、か」

 俺はぽつりとつぶやいた。

「うん、そうか。夜空を見上げたら、いつでも会えるんだな」


「ん? どうしたの?」

 瑞稀くんが、不思議そうに首をかしげる。


 その表情が、あまりにも懐かしくて、愛おしくて――

 俺はただ、少しだけ笑った。


 それから、俺たちは夢みたいな時間を過ごした。

 ……いや、実際に夢なんだけどさ。




 朝、目を覚ました瞬間、何かが“いつもと違う”ことに気がついた。

 あの重苦しい胸の支えが、ふっと消えている。

 瑞稀くんのことでずっと感じていた、言いようのない罪悪感――それが、不思議なほど軽くなっていた。


 いや、それだけじゃない。

 俺の中の記憶自体が、少し変わっている気がする。

 “瑞稀くんが行方不明になった”という出来事が、どこにも見当たらないのだ。


 母ちゃんに聞いても、「あんた何言ってんの?」と鼻で笑われた。

 もしかして、あの夜の出来事は夢じゃなかったのかもしれない……?


 そう思い出すたびに、俺が夢の中で口走った数々のセリフも蘇ってきて、布団の中で思わず赤面した。

 ……ああ、黒歴史だ。でも、

 瑞稀くんがいなくなってるよりは、何百倍もいい。


 昼すぎ、引っ越しの準備でバタバタしていると、弟が一枚の封書を持ってきた。

「これ、2年くらい前に来てた手紙。にいちゃんいなかったときに届いて、そのままだった」


「……おいおい、マジかよ」


 受け取ってみると、それは瑞稀くんからのエアメールだった。

 封筒の中には、海外の星空を写した写真が数枚と、彼らしいちょっと理屈っぽいけど優しい文体の手紙。


 そこには、彼が今海外にいて、今年には帰国する予定だと書かれていた。

「そっか、今年……また、会えるかもな」


 ふと、彼にあの夢の話をしてみたくなった。

 不思議な体験をした話を。

 いや、いっそ――あの薬を、今度は二人で飲んでみるのも悪くない。


 そうしたらきっと、

 また二人で、あの夜空を見上げられる気がする。

 オリオン座の下で、同じ時間を、もう一度。

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