深い緑の薬瓶
今日、オレは――リストラされた。
四十五歳。
ずっと言われたことだけを忠実にやってきた。親の死に目にも会えず、サービス残業にも薄給にも耐えて、何も文句言わず働いてきたのに。
結婚なんてもちろんしてないし、友人もいない。
気づけば、オレにはもう誰もいない。何もない。
天涯孤独って、こういうことか。
家に帰る途中、ふと目に入った。
――一軒の不思議な店。
古ぼけた木造の建物。ステンドグラスが淡く光を散らしていて、看板にはたった一文字、ひらがなで「くすり」と書かれていた。
スポットライトでも当てられているように、その店だけが夜の闇の中でぽっかりと浮かんでいる。
「……こんなとこに、こんな建物あったか?」
二十年は通い慣れた道のはずなのに、見覚えがない。
けど、不思議と目が離せなかった。なにかこう、吸い寄せられるような気配があった。
気づけば、オレは扉を押していた。
カラン、という鈴の音と一緒に、古びた空気が鼻をくすぐる。
中はアンティーク雑貨の店みたいだった。色とりどりの薬瓶がずらりと並び、まるでドロップキャンディーの瓶詰めみたいにキラキラしてる。
奥には、なぜかカフェスペースのようなテーブルと椅子があり、カウンターには年季の入ったおじいさんと、無愛想なマスター、そして……制服を着た、ちょっとレトロな雰囲気の可愛い女の子。
「いらっしゃいませ。ここは薬屋ですよ。私はここのウェイトレスをしている、璃子といいます」
女の子がにっこりと微笑んで言った。
「……薬屋? カフェかと思った」
「本当に薬屋です。ちょっと変わってるけど」
変わってる、ってレベルじゃない。
こんな店、今まで見たこともないし、気づいたこともなかった。
「ここは、必要としている人の前にだけ現れるんです。だから、お客様も、今初めて見たんでしょう?」
「……どういう、意味だ?」
「ふふ、難しく考えなくて大丈夫。あなたは今、何かを必要としてる。だから、ここに来れたんです」
そう言われて、オレは少しだけ息を呑んだ。
たしかに、心のどこかで「何かにすがりたい」って気持ちはあったのかもしれない。
「さ、ご案内します。薬師が、あなたはどんな薬が欲しいか、問診します」
彼女に案内されて奥へと進むと、そこには小さな小窓があった。まるで昔の映画館のチケット売り場みたいな窓。
彼女が鈴をリンリンと鳴らすと、奥から声が聞こえてきた。
「おや、お客様ですね。ようこそいらっしゃい。どんなお薬をご所望で?」
……姿が見えない。どこにいるんだ?
キョロキョロと見渡していると、声が笑った。
「そっちじゃないですよ。下、もっと下を見てください」
言われるままに窓の下を見ると――
「…………は?」
そこにいたのは、服を着たネズミだった。
灰色の毛並み、つぶらな瞳。ベストに蝶ネクタイまでしてる。しかも、小瓶を片手に、ペンで何やら書き込んでいる。
「ぬいぐるみ……じゃないよな……?」
「ご紹介が遅れました。私がこの薬屋の店主にして薬師の、サロムーンです」
ネズミが喋った。
ああ……これはもう夢だ。間違いない。もしくは、オレは今、現実逃避中か、死にかけてる。
でも、その瞬間だけは――
なぜか、心がほんの少しだけ、軽くなった気がした。
「ここは薬屋――あなたに今、一番必要なお薬を処方する、魔法の薬屋ですよ」
「……魔法、ねぇ」
冗談みたいな響きだ。でも、目の前で喋ってるのは服を着たネズミ。もう現実味とかどうでもよくなってきていた。
「あなたの大事なものと引き換えに、最適なお薬を調合いたします」
「……大事なものって言われても、オレにはそんなの、特に――」
「いえいえ、ございますとも。その腕時計です」
サロムーンは小さな杖をひょいと振ると、オレの左腕をピタリと指し示した。
「これ? あー……まぁ、たしかに大事っちゃ大事だけど、そんな立派なもんじゃないですよ」
銀色のベルトはくすみ、小傷だらけ。けれど、それはオレが就職したとき、もう今は亡き両親が、無理して買ってくれたものだった。
そんな高級でもなんでもない、ただのクオーツ式。だけど、何があっても手放さずにいた。
「我が店では、あなたの思い出を糧に薬を作るのです。さぁ、お気持ちは?」
サロムーンは優しく、しかし逃げ道を与えないような口調で問いかけてくる。
オレは、しばらく黙って時計を見つめた。
たしかに、惜しい。けど――
「……分かりました。じゃあ、これでお願いします」
腕時計を外し、そっと差し出す。
「ふむふむ……ほう。これはまた、良い記憶の香りがしますねぇ……」
サロムーンは受け取った時計を両手で掲げ、目を細めてニヤリと笑った。
「それでは、調合に入ります。少々お時間をいただきますので……そこのカウンターでコーヒーでもどうぞ。うちのマスターが淹れる一杯は、けっこう評判なんですよ」
そう言い残すと、サロムーンはちょこちょこと小窓の奥へと姿を消していった。
魔法。喋るネズミ。思い出と引き換えの対価。
……まるでファンタジー小説の世界だ。
けど今のオレには、それが嘘でも幻でも――救いのように思えた。
薬ができあがるまで、オレは店内のカウンターで待つことになった。
「どうぞ」
無言でマスターが出したコーヒーを璃子さんが運んできた。マスターの無骨な見た目に似合わず、丁寧な所作。カップからは、ほわりと優しい香りが立ち上った。
コーヒーって、こんなに…いい香りだったっけ?
残業に追われてインスタントばかり飲んでいた頃は、味も匂いも、ただの苦い液体でしかなかった。
思い出す余裕すらなかった“香り”が、今になって心に染み込んでくる。
「お前さん、ついてるねぇ。この店は、誰でも来られる場所じゃないんだよ」
ふと、隣に座っていた味わい深い老人が話しかけてきた。着古したジャケットに、知的な目元。どこかの文豪のような雰囲気がある。
「……いつも通ってる道なんですけどね。初めて見たんですよ、この店。いや、もしかしたら夢かもしれないですけど」
「夢、か。まあ、そんなもんかもしれんねぇ。長く生きてるとさ、現実の方が夢だったんじゃないかって思えることもあるのさ」
「はあ……」
曖昧に相槌を打つと、老人はにやりと笑った。
「まあ、ネズミの薬師が本当にいる時点で、現実とは言いがたいわな! ガハハッ!」
そう言って、オレの肩をバンッと叩いてきた。思ったより重たい一撃だったけど、不思議と嫌な感じはしなかった。
コーヒーを堪能しながら、ただぼんやりと時間が過ぎていくのを感じていた。
どれくらい経ったのだろう。
スマホもテレビも見ず、ただ一杯のコーヒーに意識を傾けていた。
――こんなふうに「何もしないでいる時間」って、あっただろうか。
空っぽなのに、満たされているような不思議な感覚。
すると、ふわりと足音が近づいてくる。
「お薬の調剤が終わったようです。こちらへどうぞ」
声の主はウェイトレスの女の子、璃子さんだった。
彼女に案内され、再び奥の小窓へと向かう。
そこには、緑色のアンティークな薬瓶を手にしたサロムーンが立っていた。
まるで古い映画に出てくる薬屋のような、クラシックで美しい瓶。
「いいかい、これは眠る前に一錠だけ。用量は、絶対に守るんだよ」
瓶の中には、小さな銀の粒。仁丹にも似ているけど、それよりずっと透明感があって…どこか神秘的だ。
「眠る前に飲めば、お客さんの“心”に必要な効能が現れるはずさ。何が起きるかは……ふふ、お前さん次第ってとこだね」
「わかりました」
オレは素直に頷き、財布に手を伸ばそうとする。
「いやいや、代金はもう頂いたじゃないか。腕時計、だったね。あれはいい“想い出”だったよ。お代としては十分すぎる」
そう言って、サロムーンは小さな瓶を差し出してきた。
「ありがとうございました」
礼を言うと、璃子さんが柔らかく微笑んだ。
「またのお越しを、お待ちしています。……“また”が、あればいいですけどね」
その一言が、妙に胸に残る。
オレは薬瓶を手に、店をあとにした。
そして、ふと振り返る。
……そこにあったはずの店は、影も形もなくなっていた。
まるで最初から何もなかったかのように。
けれど、オレの腕に腕時計はなく、手には深い緑の薬瓶が残っていた。
それだけが、この不思議な出来事が――確かに“あった”ことを物語っていた。
その夜――
オレは、不思議な夢を見た。
夢、というよりは……過去の思い出。
胸の奥にしまいこんでいた、大切な記憶のひとコマだった。
あれは、オレが家を出て就職すると決まった、あの日のこと。
父さんが腕時計を差し出してきた日のことだ。
「ほら、就職祝いだよ。これをつけて、頑張るんだぞ」
無骨な手。照れくさそうな顔。
オレは何も言えず、それを無言で受け取った。
……それだけのやりとりだった。
でも今は、言える。
「ありがとう、父さん」
言った瞬間、父さんは少し驚いた顔をして、それから照れくさそうに笑った。
まるで、その一言をずっと待っていたみたいに。
オレは、ろくに実家にも帰れなかった。
親孝行なんて何一つできなかった。
だけど――
夢の中くらい、してもいいだろう。せめてものお礼を。
「父さん、お酒、飲む? 今日はオレが注ぐよ」
「そうだ、父さんの時代って、就職どうだったの? オレなんて100社近く受けて、ほとんどダメだったよ」
「若い頃の父さんって、何が趣味だったの?」
本当はずっと聞きたかった、けど聞けなかったこと。
今さらだけど、夢の中だからこそ素直に聞けた。
父さんは嬉しそうに、少しずつ、でもたくさん話してくれた。
母さんもいた。
やっぱり夢の中でも、オレが遠くに行くのを寂しがっていた。
それでも、笑っていた。元気そうで……それだけで、泣きそうだった。
仕送りも、食べ物も、山ほど送ってもらったのに、オレは何も返せなかった。
でも、今だけは。
夢の中だけでも、ちゃんと感謝を伝えたい。
ほんの少しでも、親孝行がしたい。
そんな想いのまま、静かに時間は過ぎていった。
気づけば、夢の一日は終わりを迎えていた。
朝、目を覚ました瞬間、何かが“いつもと違う”ことに気がついた。
まず――天井が、違う。壁紙の模様も違う。窓の位置も、カーテンの色も。
それなのに、不思議と落ち着いていた。
なぜだろう? ここは……知らない部屋のはずなのに、どこか懐かしい気がする。
オレはゆっくりと体を起こし、辺りを見回した。
安アパート特有のカビ臭さはない。陽の光はよく入るし、家具も少し上等だ。
少なくとも、昨夜まで寝ていた部屋じゃない。
「……他人の家、じゃないよな?」
そう思って確認するようにタンスを開けてみた。
中には、見慣れた服が並んでいた。間違いない、これはオレの部屋だ。
でも、おかしい。こんな部屋に引っ越した覚えはない。
だが――次の瞬間、スッと記憶が流れ込んできた。
ここに引っ越してきた日のこと。
初めてこの部屋でコーヒーを飲んだこと。
近所の店主と笑い合ったこと。
「……え?」
まるで、思い出が上書きされていくように、昨日までの暮らしがぼやけていく。
古いアパートの記憶が、霧のように遠のいていく。
「これって……オレの人生が少しだけ、変わった……?」
そう呟いた時、スマホに通知が入った。
開いてみると、職場からの最終通達。そこには“会社都合による閉業”の文字があった。
「リストラじゃない……?」
状況がうまく飲み込めないまま、オレは昨夜の出来事を思い出す。
薬屋、ネズミの薬師、そして――腕時計と引き換えに受け取った、あの薬。
「まさか……あれの、効果……?」
突飛な話だ。でも、今目の前にあるこの“変わった現実”が、その証拠なのかもしれない。
あの夢のような一夜は、現実だったのかもしれない――そう思わずにはいられなかった。
ハローワークの窓口で手続きをしながら、オレはぼんやりと思い返していた。
両親が亡くなったという事実は変わっていない。
だけど――死に目にはちゃんと会えた。
それに、前の職場も、いつの間にか途中で転職して別の職場になっていた。
過労やパワハラで潰れかけていたあの会社じゃない。
「……不思議なもんだな」
つい昨日まで、すべて終わったと思っていた。
リストラされた自分なんて、誰にも必要とされないって。
けれど今は、履歴書に手を添えながら、前向きに次の職場を探している。
ほんの少し。
だけど確かに、人生が“軌道修正”された気がした。
あの薬――きっと、あれが効いているんだろう。
想いと引き換えに、心に効く薬。まさか、こんなふうに現実が変わるなんて思わなかったけど。
その夜も、指示通り眠る前に薬を一粒。
仁丹のような小さな粒を口に含み、オレは静かに目を閉じた。
気づけば、意識は夢の奥へと沈んでいた。
――巻き戻されるように、腕時計の時間が逆再生していく映像とともに。
見た夢は、高校の同窓会だった。
就職してから初めて参加した、そして――最初で最後の、同窓会。
「あれ……なんで最後だったんだっけ……?」
懐かしい顔が並んでいる。
藤沢、高橋、田中。みんな、あの頃のままだ。若くて、ちょっとバカで、でも生き生きしていた。
「お前、今なにやってるの?」
「車屋!」
「イタリアンの店でバイト!」
「オレはフリーター……まぁ、なんとかやってる」
田中――そうだ。
彼はこの同窓会のあと、ひと月も経たずに自ら命を絶ったんだ。
あのとき、誰も気づけなかった。
でも今なら……夢の中でも、声をかけられる。
「田中、今のバイト、やめたほうがいいかもな」
「は?やっと見つけたんだぜ?」
「うん。でも、お前には合わないと思う。もっと接客系の方が向いてるって。カラオケ屋とかさ」
「……お前にそんなこと言われるとはなぁ」
オレは、今でも続いているカラオケ店の話をした。
あそこなら潰れないし、何より田中はカラオケが大好きだった。
「そっか……ちょっと探してみるわ」
なんてことない会話だ。
でも、少しでも何かが変わるかもしれない――
夢の中くらい、あの頃の友だちを救ってやりたいと思った。
そうして、静かに夢は終わっていった。
懐かしくて、少しだけ切ない、優しい夜だった。
朝、目を覚ますと、また世界が少し違っていた。
今度は、閉業して解雇処分になった会社が――オレの前の職場になっていた。
どうやら、閉業するもっと前に別の会社に転職していたようだ。自然な流れで、履歴書にもそう書かれている。
「……なんだこれ。まるで、人生をやり直してるみたいじゃないか」
そんな言葉が、思わず口をついて出た。
考えてみれば、薬を飲むたびに夢の中で過去と向き合い、それを“修正”するような体験をしている。
その結果、現実の記憶や環境が、少しずつ変わっている。
そうだ――田中。
あいつはもう死んでいなかった。
いや、それどころか、ちゃんと生きていて、地元のカラオケ店で店長をしている。
しかも、結婚して子供までいたはずだ。
夢の中でオレがかけた、たった一言が、現実を変えたのかもしれない。
「……すごい、けど……少し、怖いな」
田中が救えたのは良かった。
でも、それで代わりに何かが失われていないだろうか?
あのとき田中が就いたはずのバイト先は?
オレが最初に入った会社や、その同僚たちは?
人生がひとつ変われば、その分どこかに波紋が広がっているはずだ。
ほんの少しの行動が、別の誰かの未来を変えている。
それが良い方向とは限らない。
そう思うと、背筋に冷たいものが走った。
この薬――本当に、ただ“オレだけに効く”ものなのか?
それでも、あの魔法の薬はオレの部屋には残っている。
飲むべきか、飲まないべきか。
オレはしばらく、薬瓶を見つめたまま動けなかった。
なんと、オレには彼女がいるらしい。
付き合い始めて半年くらい。相手は高校の同級生で、昔こっそり想いを寄せていた人だ。驚いたのは、彼女がバツイチで、今のオレと穏やかに付き合っているということ。
全部、あの“変化”がきっかけだった。同窓会が復活して、そこで再会してから始まったのだ。
記憶が、少しずつ書き換えられていく。まるで、自分の過去と今が新しく塗り直されていくように。オレは今、有給休暇を使って転職活動をしているらしい。あのときの焦燥感も、絶望も、なぜか遠い記憶の霞の中にある。
気持ちも、ずいぶんと変わった。
もう、この薬を飲むことはないかもしれない。現実は、最初の人生と比べて驚くほど明るくなっているし、何より「変化」というものが少し怖くなった。
けれど――
この薬だけは、ポケットの中にそっと忍ばせている。
たとえ飲まなくても、持っているだけで、どこか安心できるから。
これは、“お守り”としてずっと持ち歩いている。
再就職して、もうだいぶ経つ。
暮らしも落ち着いて、今は静かな街のマンションに住んでいる。2LDKの部屋。特別な物件ってわけじゃないけれど、初めて見たときから広さや環境にどこか惹かれるものがあって、迷わず決めた。
そろそろ、彼女にプロポーズするつもりだから。
少し遅くなってしまったけど、せめてフォトウェディングくらいはしてあげたいと思ってる。
だって、彼女はずっと憧れの人だったから。
仕事も順調で、同僚たちにも、地元の同級生たちにも祝福されて、最近のオレはすっかり“幸せな人”の顔をしている。
そんなある日、久しぶりに集まった地元の飲み会。
酒が進んで、ずいぶんと酔っていたらしい。
気が緩んだのか、つい口が滑って、あの“薬”の話をしてしまった。
「オレさ、前は本当にダメダメな人生だったんだよ。でも、この薬を飲んだら……なんか、いろいろうまくいき始めてさ。結婚だってできそうでさ。信じられるか?」
記憶はあいまいだ。だけど、そんな感じのことを、確か高橋に語っていた。
田中や藤沢も笑ってたっけ。
「なんだそれ、夢見すぎだろ〜」
「相変わらず変な妄想してるなぁ、お前」
笑い声の中で、その話は冗談として流されていった。
気づけば、マンションの自分の部屋にいた。
泥酔していたわりには、意外とちゃんと帰ってきていたらしい。
(……まさか、酔った勢いで薬を飲んじゃったか?)
そう思って、すぐにスマホを確認した。でも、特に異変はない。
記憶も現実も、何も変わっていない。ホッと胸を撫で下ろした。
だが――
あの薬の小瓶が、どこにも見当たらない。
ジャケットのポケット、カバンの中、棚や引き出し、ありそうな場所はすべて探した。
でも、どこにもない。
(まさか、落とした……?)
冷や汗が背中をつたう。
ほんの少し前まで、お守りのように思っていた薬。
それが、今は手の届かないものになっていた。
それでも、日々が順調に進んでいたせいか――
あれほど手放せなかった薬の存在は、いつの間にか頭の片隅に追いやられていった。
あれは確かに、お守りのようなものだったはずなのに。
不思議なことに、依存していたという感覚すら、今ではもう遠い記憶だ。
ある日のことだった。
彼女とふたり、週末の午後にのんびりと話していたとき。
「せめて、結婚パーティーで同級生くらい呼ぼうよ」
「え〜、恥ずかしいなあ……」
ちょっと照れくさそうに笑う彼女。その笑顔を見ていると、本当に幸せだと思う。
「じゃあ、仲の良かった数人だけってことで」
「うん、それならいいかも」
微笑みながら、ふとオレは言った。
「じゃあ、藤沢に、田中に……高橋も呼ぼうかな」
「……高橋くん? 誰それ?」
「え?」
今のが、聞き間違いだったのかと思った。でも、彼女の顔には、明らかに困惑の色が浮かんでいる。
「高橋だよ。ほら、ファミレスの店長やってる……高校のとき、オレたちのグループにいたじゃん」
「うーん……全然思い出せない。そんな人いた?」
心臓が、どくんと脈打つ。
何かが引っかかる。いや、違う。
何かが、確実に「抜け落ちて」いる。
慌ててスマホを取り出し、同級生たちとのSNSのグループを開いてみる。
だが――そこに高橋の名前も、アイコンも、会話の履歴すら残っていなかった。
昔の写真フォルダを漁っても、どこにも彼の姿が写っていない。
電話帳にも、SNSにも、何ひとつ。
高橋の痕跡は、完璧に消えていた。
(……どういうことだ?)
背筋に、ひやりとした感触が走る。
世界が少しずつ、見慣れたはずの現実からずれていくような、奇妙な違和感。
あの薬が関係している――そんな予感だけが、確かなものとして胸に残った。
どれだけ人に尋ねても、高橋の記憶を持つ者はいなかった。
(オレの記憶だけが狂ってるのか…?)
そんな疑念を抱いたある日の帰り道、不意に目に飛び込んできた――あの、妙なフォントの看板。
“くすり”
間違いない。あの店だ。
胸騒ぎのまま、オレは扉を開けていた。
店内には、見覚えのある三人がいた。
どこか懐かしい空気と、時が止まったような空間。まるで夢の続きに迷い込んだようだった。
「いらっしゃいませ。いつぶりなんでしょうか。ここでは時間の流れが少し不規則でして……遠い昔だったのか、ついさっきだったのか、私にもわかりません」
ウェイトレスの璃子さんが柔らかく微笑む。
「ほう、随分見違えたな。すっかり男前になりやがって」
あの爺さんが、煙草のように声をくゆらせて言った。
すると奥から声がした。
「店主がお呼びのようです。こちらへどうぞ」
璃子さんがカウンター奥の扉を開けると、そこには――あのネズミの薬師、サロムーンがいた。
「やあ、お客さん。お久しぶり……なのかな? それとも、ついさっき来たばかりか」
「お久しぶりです、サロムーンさん。実は……あの小瓶を、なくしてしまって」
オレがそう言うと、サロムーンは深いため息をついた。
「……ああ、知ってるよ。あの薬、もう残ってない。全部、あいつが飲んじまった」
「……あいつ?」
胸の奥が冷たくなる。
「そう、君の親友だった――高橋ってやつさ」
オレは息を呑んだ。
「信じられないかもしれないけどね、魔法薬ってのは、個人専用に調合されてるんだ。別の人間が勝手に使えば、効果どころか、存在そのものが不安定になる。
高橋はその薬をすべて飲み干した。過去をやり直すどころか……この世界に、最初から存在しなかったことになっちまった」
「……そんな……」
オレの手が震える。記憶に残る高橋の笑顔が、遠ざかっていく。
「思い詰めるなよ。あいつが悪い。嫉妬したのさ――幸せそうなお前を見て、つい出来心ってやつさ。誰にでもあるだろ、人生をやり直したい瞬間なんてのは」
オレは頭を抱えた。
「……オレは、罪人ですか?」
その問いに答えたのは、奥から現れた爺さんとマスターだった。
「違うさ。人生ってのは、誰かの選択で成り立ってる。時に、その選択が誰かを犠牲にすることもある」
「奴の欲が身を滅ぼしたんだ。だがな、奴はお前の記憶にだけでも残った。それだけでも、幸運かもしれねぇ」
璃子さんが、コーヒーをそっと差し出す。
懐かしい、あの香り。最初に救ってくれた香り。
「多分、あなたがこの店に来るのはこれが最後でしょう。でも……生まれ変わる前の気持ちを、大切に生きてください」
オレは目を閉じて、湯気の立ち上るコーヒーに口をつけた。
「この人生を高橋の分も、大切に、生きていきます」
その一杯を飲み干した時、少しだけ心が軽くなった気がした。
そして、扉の向こうには、今の人生が――確かに、そこに続いていた。
彼が扉を開けて去ったあと、静かに扉が閉まる音が店内に響いた。
しばらくの沈黙。
「……良い顔してたな、あの坊主」
爺さんが椅子に深く腰を下ろし、静かに呟いた。
マスターが無表情でカップを拭きながら言う。
「幸せってのは、誰かに渡してもらうもんじゃない。自分で選びとるものだ。
あいつは、それができたんだよ」
璃子が静かにコーヒーを片付けながら頷く。
「全部使わずにいたなんて……きっと、本当に強くなったんですね」
そして、棚に登っていたサロムーンが、くるりと体を回転させて一言つぶやく。
「魔法ってのは、薬の中にあるんじゃない。
選びなおしたいと願った、その一歩目にこそ宿るもんさ。
――さて、次のお客さんは、どんな想い出を連れてくるのかね」
彼の声に、店の時計が一つ、静かに時を打った。