第3章 天使の砂時計に満たされた悪夢
この世に奇跡なんかない。
ここがこの世でなければ、これほど絶望しなくてすむはずなのに。
どんなに思い出を積み重ねても、記憶は粉となって崩れ去る。
手を触れようとすればするほど遠ざかってしまう。
なのに、君と私を引き裂いた悲劇はいつまでも色濃く影を落とす。
降りつもる白い砂に埋もれて。
思い出すことのできない君の笑顔が真っ黒に塗りつぶされる。
私は君に誓う。
だって、君は私の大切な人だから。
私にすべてを捧げてくれたかけがえのない人なんだから。
だから私は。
――今、そちらへ行きます。
思い出すことのできない君のそばへ。
◇
期末試験が終わって結果も帰ってきた。
前回とあまり変わらない平均レベルの成績だったけど、前回よりも科目数が多い中で赤点はなかったので上出来だろう。
上志津さんも同様だったそうだ。
花火大会の時に立て替えておいたお金は、お母さんの手紙と一緒に下駄箱に入っていた。
《晶保をこれからもよろしくおねがいします》
どうやら、お母さんのお眼鏡にはかなったらしい。
こちらこそ、精一杯頑張りますので、よろしくお願いいたします。
夏休みに入っても、僕らは毎日登校していた。
赤点補習はないけど、図書館で自主的に勉強していたのだ。
本来は三年受験生向けだけど、夏休み中も笹倉高校の図書館は全生徒に開放されている。
空調は効いているし、課題は山積みで出されていたから、家でやるくらいなら二人で協力し合った方がはかどるというものだ。
まあ、半分はデート目的だったんだけどね。
ただ気になることがあった。
奇妙な現象がまだ続いていたのだ。
八月初日の今朝も下駄箱を開けて中を見たら手紙が入っていた。
いつもの封筒から見慣れたレター用紙を取り出す。
《今、そちらへ行きます》
――まただ。
なんだよ、これ。
待ち合わせの場所にこれから行くという意味にしては、手紙で先に届くのは時間の前後が矛盾している。
じゃあ、そちらってどこに行くというのか、そもそも僕に宛てた手紙なのかすら怪しい。
《晶保》と署名も入っているし、文字も彼女のもののようだけど、内容のつじつまがまるで合わない。
手の込んだ誰かのイタズラだとしても、いったい何が目的なんだろうか。
「あ、ショウワ君、おはよう」
昇降口に入ってきたのは野村さんだった。
彼女はギリギリ赤点を回避して、無事にバスケ部の練習に参加しているのだった。
僕は下駄箱に手紙を残したまま自分の上履きを取り出した。
「今日も部活?」
「うん、そう」
「補習じゃなくて良かったね」
「あはは、いやもうヤバかったのよ。英語三十一点。首の皮一枚よ」
一時期気まずいこともあった野村さんだけど、試験を無事に通過してからはクラスメイトとして普通に接してくれるし、こちらもあまり気をつかわないで話せる関係にもどっている。
二人で話しているところに、ギターを背負った池田もやってきた。
「よう、今日も暑いな」
「あれ、バンドの練習って学校でやってるの?」
野村さんがたずねると、池田は鼻の頭をかいていた。
「九月の文化祭でライブやるんだ。参加申請したら教室貸してもらえるんだよ」
「へえ、そうなんだ。音聞こえてこないけどね」
「バスケは屋内でボールの音バンバンうるさいじゃん」
「あはは、そっか」
「よう、森崎」と、池田が親指を立てた。「俺たちの文化祭ライブ見に来てくれよ」
「えっ、僕が?」
「無料だし、出入り自由だからよ」
ああ、賑やかし要員ってことかな。
上志津さんはどうだろう、行くかな。
音痴だけど、聞くのは嫌いじゃないらしいからな。
「まあ、行ければ行くよ」
とは答えたものの、池田は最初から僕に期待していたわけではないようで、とっくに野村さんの方を向いていた。
「あ、あのさ……」と、言葉を濁す。「の、野村さんもライブ来ない?」
「あたし?」と、自分を指さす。「べつにいいけど」
そして、チラッと僕に視線を向けてから池田にたずねた。
「あ、もしかして、晶保も誘って行けばいいの?」
「ち、ちげ……っくて。野村さんも来ないかなって聞いてみただけだよ」
「じゃあ、クラスのみんなに言っておけばいいのね」
「あ、ああ……まあ、頼むよ」
池田はこめかみのあたりに垂れてきた汗を指でぬぐうと、「お先に」と、僕の肩を軽く押して去っていった。
そんな背中を見送りながら野村さんが僕にささやく。
「晶保狙いなんだろうけど、脈がないって知ったらガッカリするだろうね」
そうかなあ。
池田のやつ、野村さんを誘いたかったんじゃないのかな。
登山合宿のころは僕も池田が上志津さんを狙っているんだと警戒していたけど、どうも違うらしいのだ。
山で二人に写真を頼んでいたのも、上志津さんを目当てにしていると思わせておいて、実は野村さんを狙っていたんだと、今なら分かる。
だから、違う意味で脈がなくてガッカリしてるんじゃないかな。
野村さんも、男子がみんな上志津さんを狙っているわけじゃないって言ってたくせに、自分に向けられた好意だとまるで鈍感なんだもんな。
あんなに情報分析能力に優れた名探偵なのにね。
「じゃ、あたしも練習行くね。晶保にも聞いておいて」
「うん、分かった」
上志津さんとの交際が始まってから、予定や約束がどんどん増えていく。
小さなものから大きなものまで、優先順位や時間軸も様々で、だけどどれも一つ一つ大切な未来のかけらだ。
そんなかけらを組み合わせた僕らのパズルはまだ穴だらけだけど、完成したらどんな風景を見せてくれるんだろう。
期待に満ちた毎日を過ごす幸せをくれた彼女に会いに行く。
飛び飛びで隙間だらけのピースをたどるように、僕は図書館へ続く廊下へと軽やかに足を踏み出していた。
◇
そんな彼女に、僕はプレゼントを買いたいと考えていた。
誕生日は十一月だそうだからまだ先だけど、べつにクリスマスとか特別な時じゃなくたって、感謝の気持ちを伝えたいことはある。
だけど、何にすればいいのか、まるで思いつかない。
そもそも、空気として埋没することばかり考えて人との交わりを持たないようにしてきた僕が人に贈り物をしたいと思うようになったこと自体、天変地異なのだ。
それを形にするとしたら何がいいんだろうか。
笹倉高校周辺は古い城下町で、昭和から続く喫茶店とかはあるのにおしゃれカフェやハンバーガーショップは一軒もなく、観光客向けの土産物店や老舗の和菓子屋さんばかりで、困ったことに高校生向けの寄り道スポットというものがない。
夏休み中に、どこかショッピングモールにでも誘ってみるのもいいかもしれない。
そこで彼女の好みをさりげなく観察しておくという作戦だ。
たしか成山の一つ手前の成山西駅に、駅から直結の大型ショッピングモールがあったっけ。
暑い中歩かなくてすむからちょうどいいんじゃないだろうか。
「ねえ、それなら映画を見に行くってどう?」
本来の目的を隠して上志津さんをショッピングモールに誘うと、ただでさえ大きな目を輝かせながら、両手を重ねるように僕の手をがっちり握られてしまった。
「なんかいかにもデートって感じじゃない?」
ちょ、ええと、喜んでくれるのはうれしいんだけどさ。
ここは図書館なんだけど。
周囲の目に気づいて、顔を真っ赤にしながら亀のように首を縮めた彼女が唇に人差し指を立てる。
今さら遅いけど、僕らは小声で話を続けた。
「私、この前のスウェット着て行っちゃおうかな」
「なんでよ」
「冗談だってば」
実は困っているのは僕の方だ。
また花火大会の時みたいにポロシャツとジーンズでいいんだろうか。
いっそのこと、二人とも制服の方が高校生の放課後デートっぽくていいかもしれない。
◇
人生の答え合わせは突然やってくる。
未来を先に知ることはできないからこそ答えを知りたいと願うものだけど、それが自分に都合の悪い結果なら、知りたくなかったと後悔することになる。
答え合わせというのは、つねに期待外れなものだ。
八月中旬のお盆休み中は高校の図書館が閉まるし、上志津さんも家族で出かける用事があるということだったので、僕らは一週間会わずに過ごすことになった。
思えば、入学以来ゴールデンウィークをのぞいて、平日のほとんどを毎日のように会っていたのが信じられない。
最初の一ヶ月は単なる同級生としての立場だったから、付き合い始めてからとでは全然重みが違うけど、人生なんてきっかけ一つで簡単に変わるんだ。
そのきっかけだって、気がついていないだけで、自分のまわりにいっぱい転がっているものなんだろう。
それに手を伸ばして拾い上げるかどうか。
ほんの少しの勇気があれば変われるんだ。
そんなお盆休み中、僕は久しぶりに地元の街を歩いていた。
城下町の土産物店に観光の若い女性三人組がいてにぎやかだった。
「ねえ、これ良くない?」
「あ、ホントだ。和風でオシャレ」
「センスいいじゃん。意外と安いし」
なんだろうと離れたところから見てみたら、バレッタという髪留めのことだった。
そういえば、上志津さんも食事の時とかに長い髪を留めるのに使ってたな。
ふだんは前に垂らしている髪を後ろでまとめるんだけど、脇を上げて留める瞬間、クラスの男子連中が一斉に息をのむのが分かる。
カレシとしてはすごく複雑な気分だけど、文句を言う資格はない。
僕もつい見てしまうからだ。
中学までは、そういった女子の仕草なんて気にしたことはなかった。
女子の噂で盛り上がる連中に同調することはできなかったし、そもそも何がそんなに興奮するのかも正直なところよく分かっていなかった。
中には女子にちょっかいを出して嫌われているやつもいたけど、どうしてそんなことをするのか不思議でならなかった。
あれは自分でもどうしようもない衝動に駆られていたんだろうな。
好かれたいと思う対象を攻撃してしまうほどの激しさを、今の僕は笑うことができないし、ああいうことをすると嫌われるという反面教師としてありがたく参考にさせてもらうしかない。
頭と体と心の成長は人によってバラバラなんだろう。
僕はあまり男女の違いに関心を持っていなかったわけだけど、高校に入って上志津さんと出会った瞬間、スイッチが切り替わったみたいに何かが変わったんだ。
それまで見えていなかったものが見えるようになって、今では気になってしかたがない。
だから、今頃になってようやく自分も思春期真っ盛りの男子だったことを自覚して、むしろ安心というか、これでいいんだと奇妙な自信を持つようになっていた。
遅れてきた中学生男子みたいな自分を笑いつつ、道を踏み外さないように気をつけようと戒めたりもする。
今はまだ手探りだ。
でも、少しずつ前に進んでいることは間違いない。
土産物を物色していた女性グループがいなくなったので、僕はお店の奥に入ってバレッタを見てみた。
素材はプラスチックだけど、鼈甲色や漆風の艶のある黒地に花模様が散らされたり、金銀の粉で模様が描かれていたりと、値段が手頃なわりになかなか手が込んでいる。
紅葉や桔梗など、秋の絵柄でも組み合わせが何種類もあって選ぶのに迷ってしまう。
そんなバレッタに見入っていると、彼女の顔が重なる。
驚いた表情、喜ぶ笑顔、つけたときの後ろ姿、そんな想像をするだけで楽しい。
不意に、花火大会の浴衣で見た上げ髪を思い出して顔が熱くなる。
あの花飾りが僕のプレゼントしたバレッタに置き換わったら……。
迷うのがこんなに楽しいなんて。
よし、これにしよう。
やや濃い色の鼈甲地に紅葉が舞う金の流水文様が施された琴の形だ。
季節感は前倒しだけど、絶対に彼女の髪に似合うと僕は確信していた。
ショッピングモールで探す計画は映画を見に行く約束になったから、その前にサプライズだ。
きっとうまくいく。
僕らはもっと前に進めるはずなんだから。
◇
完璧な計画ほどもろい。
世の中うまくいくことなんてない。
どんなに努力を積み上げてみても、小さな穴から一気に崩れ落ちる。
期待が高まればその分落差も大きい。
予定なんてむしろがっかりするためにあるようなものだ。
つい、この間まで、そんなふうに考えていたくせに、今は未来のことしか考えられない。
お盆休み明け、一週間ぶりに会えると思うと、はやる気持ちを抑えきれなくなって、僕は早めに家を出て駅前広場で上志津さん待つことにした。
ふだんは人目を気にして遠慮していたけど、彼女と一緒にいる時間が当たり前になってみれば、いつまでも不自然な配慮を続けなくてもいいように思えたのだ。
野村さんに言われたように、公表した場合の彼女への風当たりが心配だけど、僕が盾になればいいんだ。
本物のカレシならそれくらいの覚悟ができなくてどうする。
線路に沿って八の字型に分かれた駅南口の階段は東西両側に出入り口があって、駅前のバスターミナルに到着した路線バスから次々に帰省疲れの通勤客が降りてきては吸い込まれていく。
学生はまだ夏休みでも、社会はもう動いている。
僕は駅前広場の正面にあるコンビニ前に立って上志津さんが東側階段を下りてくるのを待った。
朝とはいえ、すでに気温は三十度近く、少しでも日陰に入りたかった。
上り電車が到着し、東側階段から笹倉高校の生徒がちらほらと姿を見せて通学路へと流れていく。
うーん……。
どうも彼女はこの電車じゃなかったらしい。
次は十五分後か。
と、思ったその時だった。
「だあれだ!」と、いきなり後ろから目を塞がれた。
――ちょ、え?
「ど、どうして?」
「残念! 私は『どうして』さんではありません」
「だ、だから……かみし……」
あらためて名前を呼ぶのが恥ずかしい。
「あ、晶保……だろ」
「当たりだよ」と、そっと手が外される。
ふわりとしたいい香りとともに視界に飛び込んできた真夏の駅前広場がまぶしくて思わずまばたきをすると、彼女が僕をのぞき込んでいた。
「えへへ、びっくりしたでしょ」
本当に心臓が止まるかと思ったよ。
君の魔法にはいつも驚かされるよね。
「でも、なんで?」
あらためて振り向き、向かい合うと、鼻先を上げて満足そうに種明かしをしてくれた。
「階段を下りてたら、途中でカズ君がいるのが見えたから、あっち側の階段から下りてぐるっと広場を回ってきたの」
僕が東側階段に注目している間に、そんなことをしていたなんて。
サプライズを仕掛けようとしてたこっちがだまされちゃったよ。
完璧な計画だと思ってたのにな。
まあ、だけど、多少の変更はあってもいいさ。
「あ、あのさ……」
僕は鞄の中へ手を入れて彼女へのプレゼントを取り出そうと探った。
「なあに、カズ君」
首をかしげながら彼女が僕の鞄をのぞき込もうとするので、体をよじって隠そうとした時だった。
目の前に熊のような黒い影が立ちはだかった。
エンジンをうならせながら信じられない速度で迫ってきている。
「危ない!」
僕はとっさに鞄を投げ出し、上志津さんに体をかぶせて彼女の頭を抱きしめた。
コンビニに突っ込んだのは黒いミニバンだった。
僕と上志津さんをガラスドアに押しつけ、そのまま店内へとなだれ込むと、商品棚を二列なぎ倒しながら奥の冷蔵品陳列棚まで一直線に押し込み、そこでようやく動きを止めた。
車と壁の間に血まみれの僕が横たわっている。
それは僕と言うよりは、つなぎ方を間違えた操り人形みたいで、あり得ない方向に手足が折れ曲がっていた。
上志津さんは……?
彼女は散乱した商品に囲まれながら少し離れたところに横たわっていた。
大丈夫?
思わず駆け寄ろうとしたけど、うまく近づくことができない。
ん……?
――あれ?
どうして僕は僕を見ているんだ?
折ってゴミ箱に捨てられた割り箸みたいに原形をとどめていない自分の体を、僕は他人として見下ろしていた。
と、その時だった。
「か、カズ君……」
彼女が床に手をつきながら体を起こして状況を把握しようとあたりを見回していた。
幸い、彼女は打撲と擦り傷程度で済んだようだ。
ゆっくりと自分の体を確かめるように手や腕を動かしながら、運転席まで潰れた巨大な車を呆然と見上げている。
――僕はここだよ。
手を伸ばそうとしたけど、ふわふわとまるで力が入らない。
風が吹いているわけじゃないのに、自分がゆらゆらと流されていくような感覚がした。
僕は空気の中を泳ぐようにもがいてみたけど、もがけばもがくほど離れてしまう。
体はうまく動かないし、息が苦しくなる。
いや、息はしていない。
吸ってもいないし吐いてもいない。
ただ、彼女のそばに寄ろうとすればするほど胸が苦しくなる。
――なんだこれ?
僕は煙のように空中を漂っていた。
ああ、幽体離脱ってやつか。
僕は死んじゃったのか。
不思議と、その状態を違和感なく僕は受け入れていた。
おかしな言い方かもしれないけど、まったく痛くもなく、今みたいに無理に動こうとしない限りは苦しくもない。
空気として漂っていればいいんだ。
他人事のように僕が自分を受け入れた時だった。
浮遊する僕の真下で悲鳴が上がった。
「ああああああああああああカズ君」
彼女が車に押しつぶされた血まみれの僕に気づいたのだ。
「カズ君ああカズ君あうあカズ君」
涙で顔に髪を張りつかせながら彼女が叫んでいた。
自分を抱きしめるように固く腕を組み、顎を震わせている。
――大丈夫。
僕はここだよ。
泣き叫んで錯乱している彼女を安心させようと手を伸ばしても届かない。
見ちゃダメだ。
血まみれの僕を見ちゃいけないよ。
それは僕じゃない。
そっちは違うんだ。
僕はこっちだよ。
僕のことは心配しなくていいんだよ。
君は苦しまなくていいんだ。
だけど、彼女は苦しそうに胸を押さえたまま泣き叫ぶばかりだった。
もう君には僕が見えないんだよね。
ならば、僕は君に魔法をかけるよ。
大切な君が苦しまなくてすむように。
すべて忘れてしまえばいい。
遠くでサイレンの音がする。
次第に近づいてくるその音が僕と彼女の距離を引き裂き、店内を突き抜けてこだまする。
――三、二、一……。
パチンと指を鳴らすと、その音が消える。
「カズ君……」
ようやく救急車が到着した頃、かつて僕だった残骸に向かって手を伸ばそうとしていた彼女は再び床に崩れ落ちていた。
◆
目を開けた時、私は何かに縛りつけられていた。
小さい頃に読んだガリバー旅行記を思い出す。
「起き上がらなくていいですよ。今救急車の中です」
――え?
なんで?
どうして私は……。
何かを考えようとすると頭に衝撃が走る。
目の奥に突き刺した針を無慈悲にかき回すような激痛に耐えかねて私は思考を捨てた。
「心配ないですよ。病院で検査するまでは頭も体も動かさない方がいいですからね」
救急隊の人が話しかけてくれるけど、それが自分に向けられたものだという実感がない。
何が起きたのか、まるで覚えていない。
たしか、学校へ行こうとしていたような……。
何かを思い出そうとしたその瞬間、ハンマーが振り下ろされて記憶が粉々に打ち砕かれた。
「どこか痛みますか?」
問いかけられても声が出ない。
息が苦しい。
大切なことを思い出せない。
それが何なのかも分からない。
息ができない。
混濁していく意識の中で、何かが見えたような気がした。
それは誰かの姿だった。
私の大切な人。
私を大事にしてくれた人。
君は……。
でも、次の瞬間、その姿は嵐に巻き上げられた砂のように、私の前から儚く消え去ってしまった。
……。
それからの記憶は抜け落ちている。
今私は薄暗い廊下の長椅子に腰掛けている。
時計がないから今が何時なのかは分からない。
遠く離れた廊下の端に日が差し込む窓があるから昼なのだろう。
長い廊下の天井に間隔を開けて照明がついているけど、目の前にある消火栓の赤いランプがやたらとまぶしい。
床には色別に矢印が描かれている。
レントゲン、CT、採血採尿、リハビリテーション。
ここは昼でも暗い病院の廊下らしい。
赤がレントゲン、青がCT、黄色が採血採尿、緑がリハビリテーション。
長椅子の背に体を預けながら、文字と矢印を目で追って廊下を何往復しただろう。
誰も来ないし、何の物音もしない。
なんで私はここにいるんだろう。
時が止まったかのように何も起こらない。
まるで深い海の底にいるみたいに静かだ。
長椅子に一人で腰掛けたまま、深海魚になった気分で私は何かを待っていた。
体はどこも痛くないし、気分も悪くない。
どうして私はここにいるんだろう?
何も思い出せないし、何を思い出したいのかも、いったい何が起きたのかも、なぜ自分がここにいるのかも分からない。
「晶保!」
声が聞こえるまで、足音が近づいてきていたことにも気づかなかった。
誰かを呼んでいるらしく、廊下の角から女の人が駆け寄ってきた。
「晶保、大丈夫なの? なんともないの?」
――え、私?
私は……晶保……なのか、そうか。
私の体に触ろうとするのを、別の女性が引き留めた。
「まだ安静が必要ですから、揺さぶったりしないようにしてくださいね」
「あ、ああ……はい」
「あと、本人は記憶が混乱しているので、事故のことはあまり質問しないであげてください」
「そ、そうですか」
「いま、担当医師を呼んできますので、ここでお待ちください」
困惑顔の女の人は伸ばしかけた手を引っ込めつつ、私の顔をじっと見つめている。
「晶保?」
この人は誰なんだろう。
「お父さんも今こっちに向かってるからね」
お父さん……。
ということは、この人はお母さん?
ああ、そういえば、なんとなく思い出した。
私、学校に行こうとしていたんだっけ。
今になって気がつくと、自分は高校の制服を着ていた。
少し破けたりしているけど、体は痛くない。
「鞄は?」
何気なくつぶやいた言葉に『お母さん』が過剰な反応を見せる。
「鞄、鞄ね、そう言えば、どこにあるのかしらね。救急車で一緒に運んでくれなかったのかしら」
「宿題やらなくちゃ」
「今はそんな心配しなくていいのよ」
と、そこへ白衣を着た女性がやって来た。
「上志津晶保さんのお母さんですね。救急担当医の佐久間と申します」
「はい、晶保の母です。娘はどうなんですか?」
お医者さんと母が私のことを話していた。
私は事故に遭ったらしい。
検査の結果、打撲や擦り傷程度で大きな異常はないそうだ。
お医者さんが母に淡々と話しかける。
「ちょっと言い方はあれなんですけども、不幸中の幸いというか、脳や体に損傷はなかったので、その点では良かったのではないかと言えると思います」
「じゃあ、後遺症とかは」
「今のところは心配ないと思います。本当に、エアバッグか何かに包まれていたかのように無傷でしたからね。顔に少し擦り傷がありますけども、数日で消えますから、心配ありません。もちろん痕も残りませんよ」
「良かったね」と、母が涙でくしゃくしゃな顔を私に向けた。「なんともないって」
それらはすべて私とは無縁の話のように聞こえていた。
まるでテレビの中で演じられる再現ドラマみたいだった。
ただ一つ、記憶が混乱していて、その回復にはどの程度かかるかは予想がつかないとのことだった。
「でも、いちおう、そういった精神的動揺が収まるまで数日程度入院していってください。脳出血なども少し時間がたってから来ることもあるので、安全確認のための経過観察が必要ですので」
「記憶の混乱というのは」と、母が先生に詰め寄る。「どれくらいで治るのでしょうか」
「それはなんとも言えません。事故の精神的ショックが大きすぎて、一時的に記憶を強制的に遮断されたんだと思いますが、それ自体は自分自身を守るための防衛機制というもので、こうした事故の場合にはありがちなことです。一日二日で思い出すこともあれば、数ヶ月とか。まあ、一概には言えませんね」
「でも、時間がたてば戻るんですね」
「脳に損傷はないので、おそらくは」と、先生は言葉を切った。
「そうですか。どうもありがとうございました」
「まあ、体はほとんど無傷ですからね。その点は本当に良かったですよ」
先生が去っていって、お母さんが私と並んで長椅子に腰掛けた。
「良かったね。ちょっと鼻と頬に擦り傷があるけど、ちゃんと治るって」
――記憶の遮断?
自分を守るために……。
私はいったい何を忘れたんだろう。
穴の開いたパズルにはまるピースの形はくっきりとしているのに、そこに描かれた模様が何だったのか、まるで思い出せない。
と、その時だった。
視界の隅に、誰かいるような気がして顔を向けると、ぼんやりとした姿が見えたような気がした。
目がかすれているのかと、こすってみたけど、母の顔ははっきり見えるのに、その人の姿はやっぱりぼんやりしている。
大丈夫。
え?
大丈夫、僕はここにいるよ。
誰……なの?
鉄棒の赤錆みたいな匂いが頭の中に広がり、目の奥に剣山を押しつけて踏まれたような激痛が走る。
その瞬間、脳裏にはっきりと君の姿がよみがえってきた。
私の大切な人。
私を守ってくれた人。
私を力強く抱きしめてくれた人。
頭を抱えながら、私はその名前をつぶやいた。
――カズ君……。
「晶保、どうしたの、何か思い出したの?」
だけど、大切な人の名前を口にした次の瞬間、砂漠の底がごっそり抜けたように巨大な穴が口を開け、すり鉢状の斜面を一気に砂が滑り始める。
あっという間に膝から下が動かなくなったかと思うと、私の体は一瞬で砂に埋もれ、口もふさがれ息ができない。
手で砂をかいても手応えなくただサラサラと指の間をすり抜けるだけだ。
助……けて。
その人の名を呼ぼうと、もがけばもがくほど蟻地獄のように穴へと引きずり込まれていく。
苦……しい。
――晶保!
誰かが私の名前を呼んでくれたのに、砂時計のせまい穴に足が体が腕が、そして最後の指先が吸い込まれて沈んでいく。
時は戻らない。
ただ無情に流れるだけ。
「晶保、どうしたの、しっかりして」
――晶保……。
母の声の向こうでもう一人、血まみれの誰かが私を呼んでいる。
その声がかすれるにつれて、私の意識も遠のいていく。
君はいったい……。
誰……なの?
私に手を差し伸べる大切な人の名前を私はもう思い出すことができなかった。
◆◆
目が覚めると白い世界に私はいた。
白い天井と白いカーテンに囲まれた狭い空間。
ええと……。
赤い線、青い線、黄色い線、緑の線はリハビリテーション。
私は病院にいたんだっけ?
何かを思い出そうとしかけたら、カーテンの向こうから声をかけられた。
「検温と血圧測定です。開けますよ」
ゆっくりとカーテンが開き、女の人が顔をのぞかせた。
服装から看護師さんだということは分かる。
「お名前、言えますか?」
手首に巻かれたテープに名前が書いてある。
「上志津晶保……ですか?」
「まだ無理に思い出そうとしなくていいですからね」
苦笑しながら看護師さんが私に体温計を差し出した。
反射的に腕を上げてそれを受け取り、病院着のボタンを外して脇にはさむ。
記憶にはないけど、何度か繰り返していたかのようで、その動作はどこにも違和感がなかった。
「どこか痛いところはありませんか?」と、点滴の速度を確認しながら看護師さんがたずねた。
「いえ、特に」
「検査では骨とかには異常がなかったんですが、後から打撲の痛みがでるかもしれませんのでね、その時は遠慮なく言ってください。先生から痛み止めや湿布が出されてますから」
「ありがとうございます」
「体の状態だけだと、すぐにでも退院できるかもっていう話だったんですけど、学校も夏休みだからもう少し様子を見ることになりましたからね」
「そうなんですか」
病棟は感染対策で家族も入れないそうで、面会室で許可されたときだけだそうだ。
「ご家族に連絡したいことはありますか。何かほしいものとか、あればお伝えしますよ」
「今は特に……」
本当に何も思いつかない。
頭の中は真っ白だった。
消したばかりのホワイトボードみたいに、ところどころに記憶のかけらが残っているけど、何と書いてあるのかは読み取れない。
書き留めるほど大切な思い出だったのか、ただの落書きだったのかも区別がつかない。
ただ、何かを思い起こそうとしても頭は痛くならなかった。
目の奥に針を刺されるような痛みが来ないかとおそるおそる記憶をたどってみたけど、何も思い浮かばないし、苦しくもない。
ただ、真っ白なだけだ。
私は思ったことをそのまま口に出した。
「何もありません、今は」
「そうですよね」と、看護師さんがおだやかな笑みを浮かべる。「何か思いついたらいつでも言ってくださいね」
「はい、分かりました」
その後、食事が出された。
夕食と言われたので、今は夕方なのだろう。
カーテンを隔てた窓からはまだ日が差し込んでいる。
そういえば、今は夏だっけ?
さっき看護師さんが『夏休みだから』って言ってたよね。
友達に貸したままの小説が一冊抜けた本棚みたいに、目が覚めたときまでの記憶はない。
お昼ご飯は食べたんだろうか。
思い出そうとする前におなかが鳴った。
今が空腹で間違いないのなら、食べたかどうかはもうどうでも良かった。
食欲はまったく普通にあったので、私は体を起こしてトレーの上に並んだ食事を眺めた。
ご飯にジャガイモひとかけらの味噌汁、ぶりの照り焼きに白菜の漬け物、それとリンゴのゼリーだ。
病院の食事は塩気がないとか、あまりおいしくないというイメージがあったけど、体に問題がないせいか、味付けもしっかりしていて小学校の給食よりおいしかった。
私が通っていた小学校の給食は学校の敷地内にある給食センターで作られていたのだけれど、なぜか変わった風味がして私はあまり食べられなかった。
それは私だけの感想ではなく、保護者の試食会でも指摘されて市の調査がおこなわれ、設備の老朽化でカビや汚れがひどかったらしい。
まわりのみんなは文句を言わずに食べていたから、私だけ味覚がおかしいのかと悩んだ時期もあった。
たとえ一人でも、まわりのみんなにそんなことはないと言われても、自分が正しいと感じたことを主張するのは大事なんだ。
小学生でその教訓を学んだことは、今の自分に役立っているんだろうか。
なぜか、そんなどうでもいいことばかりが思い浮かぶ。
大切なことは何一つ思い出せないのに。
気がつくと、いつの間にか完食していた。
空腹という条件があったとしても、どれもおいしかった。
ベッドから脚を下ろして立ってみる。
どこも痛くないし、足も上がる。
私は点滴スタンドを転がしながら、トレーを廊下に出しに行った。
「あら、大丈夫?」と、通りかかった看護師さんが受け取ってくれた。
「はい、普通に歩けます」
「まだ、少し様子を見た方がいいから、なるべく安静にしていた方がいいですよ。おトイレとかは行っても大丈夫ですけどね」
「そうですか。分かりました」
「今日はまだシャワーはダメだけど、後で体を拭きに行きますね」
「ありがとうございます」
私はベッドに戻って横になった。
白い天井、白いカーテン、白い布団。
じっとただそれを眺めているだけで、他に何もすることがない。
――どこも悪くないのに。
白い空間を眺めていたら、白い砂に埋もれていくような感覚がして意識が薄れていった。
……。
目が覚めた。
目が覚めたということは、今まで私は眠っていたんだと気づく。
だけど、どれくらい眠っていたのかは分からない。
今が何時なのかも分からない。
いつ眠ってしまったんだろうと考えているうちに、また眠ってしまう。
次に目を覚ましたときは暗くなっていた。
廊下の明かりがぼんやりと差し込んでくる。
その明かりに切り取られたサンドイッチのパックみたいな三角の空間をじっと見つめる。
何の意味もない時間がただ過ぎていく。
だけど、こんな時間がこれから一生続くような気がした。
――そこに君がいないから。
誰……なの?
大切な君がいないから。
君は……。
頭の奥から少しずつ静かに痛みがわいてくる。
誰かのイメージが鮮明になるにつれて痛みも鋭く深くなっていく。
バケツで水をかぶったようなひどい汗をかきながら私は頭をかきむしる。
いるんでしょ。
そこにいるんでしょ。
だけど、どうしても会わせてくれないのね。
あざ笑うように頭痛が私を苦しめ、記憶を押しつぶす。
浮かびかけた顔が砂のように崩れ去る。
嗚咽が止まらない。
枕に顔を押しつけて止めようとしても涙も鳴き声も止められない。
その人が消え去ると頭痛も引いていく。
会いたいよ。
いつもそばにいてくれた私の大切な人。
私を守ってくれた人。
もう一度会いたいよ。
思い出せない私の一番好きな人。
誰なの……君はいったい……誰なの?
◆◆◆
浅い眠りだった。
目覚めると私は全身汗まみれだった。
寝具もぐっしょり濡れて、寝起きなのにまるで溺れていたみたいに息も荒れていた。
何か夢を見ていたような気もするし、記憶がよみがえってきたようにも思えるけど、目が覚めてみると何も思い出せない。
この現実の方が幻だったら良かったのに。
だるくて体を起こそうとすると頭がふらつく。
何時なのかは分からないけど、カーテン越しに白い光が差し込んでいるから、たぶん朝なんだろう。
検温に来た看護師さんが新しいタオルで顔を拭いてくれた。
「すごい汗ね。拭くよりもシャワーを浴びちゃった方がいいかも。先生から許可は出てるから行ってみようか」
「今すぐ入れるんですか?」
「今の時間は空いてるから大丈夫よ」
自分の足で立って廊下を歩き、シャワー室へ入る。
「着替え持ってくるから、先に入っててね。タオルは脱衣所の棚にある新しいのを使って、シャンプーとかはシャワーブースに備えつけのがあるから」
水分を吸って重い病院着と下着を脱いで籠に置き、ブースに入ってシャワーを出す。
温かいお湯が気持ちいい。
体はどこも痛くないし、何か悪い夢を見ていたような気がするけど、今はもう気分もすっきりしている。
シャンプーやボディソープの香りも控えめで落ち着く。
ペタペタと固まっていた髪も毛先までなめらかになった。
シャワーだけなのに、顎までお湯につかったみたいにリラックスできた。
このまま学校に行けそうかも。
ああ、まだ夏休みなんだっけ。
「着替え置いておきますね」と、磨りガラス越しに声をかけられた。
「はあい、ありがとうございます」
シャワーを終えてバスタオルで体を拭き、備えつけのドライヤーで髪を乾かしながら自分の姿を鏡で観察してみる。
どこにも痣はなく、転んだ子供みたいに鼻と右頬に擦り傷があるけど、触っても痛くないし、心配しなくていいと言われていたとおり、もう消えかけているみたいだった。
看護師さんが用意してくれた服に着替えて、汚れ物を袋に入れてシャワー室を出る。
廊下を歩いていると、なんだか旅館のお風呂から出てきた人みたいな気分だった。
病室で寝具の交換をしてくれていた看護師さんがそんな私の表情を見て朗らかに迎えてくれた。
「あら、さっぱりしていいわね」
「気持ちよかったです。ありがとうございました」
「洗濯物はご家族に渡しておくから、今ここで預かりますよ」
「はい、じゃあ、お願いします」と、私は袋を差し出した。
ベッドに上がって横になると、看護師さんが新しい布団をかけてくれた。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
「うん、なあに?」
「事故の時に、私の他に誰かいたと思うんですけど、その人もこの病院に入院してるんですか?」
看護師さんは少しの間言葉に詰まって困っているようだった。
「何か思い出したの?」と、探るように私の目を見つめる。
「いえ、思い出せないので、教えてほしいんです」
「うーん、そうね……」と、看護師さんは困惑していた。「ごめんなさいね。私からは何も言えないの。担当の先生に伝えておくから、後でお話ししてもらいましょうね」
昼食の後、私は車椅子で診察室へ連れていかれた。
自分で歩けたけど、距離があるからと看護師さんが押してくださった。
診察室にいたのは最初に処置を担当したお医者さんだった。
「上志津晶保さん、調子はどうですか」
「はい、体はどこも痛くありません」
「食欲もあるみたいですし、順調ですね」と、いったん言葉を切って先生はモニター画面にCT画像を表示した。「今日は聞きたいことがあるそうですね」
「はい。事故のことです」
「何か思い出しましたか?」
「私の他にもう一人誰かいたと思うんですけど、その人がどうなったのか、教えてもらえませんか」
「自分では何かを思い出したというわけではない?」
「はい。思い出そうとすると、消えてしまうというか、ぼんやりしてしまうんです」
「なるほど、そうですか」と、先生は入力する手を止めて、しばらく黙っていた。
親指と人差し指で眉毛をもんでから先生が私に顔を向けた。
「結論から申し上げると、他には誰もいませんでしたよ」
――え?
そんな……。
そんなはずはないでしょ。
思い出せないけど、たしかに誰かいたはずだ。
私を守ってくれた人。
私を大切にしてくれた人。
私のために頑張ってくれた人。
「私と一緒に事故に巻き込まれてひどい怪我をした人がいたはずなんですけど」
「それは確かな記憶なんですね」
「はい。はっきりと見ました」
「そのショックで記憶を一時的に遮断したかもしれない、と」
「それは……分かりません」
「ですが、被害者はあなた一人で、運転者はお店に突入する前にすでに亡くなっていて車が暴走してしまったことがドライブレコーダーの映像から確認されたそうですよ。店内にいた店員さんや他のお客さんは無事と聞いてます」
そんな……。
嘘でしょ。
そんなはずないでしょ。
いないはずないじゃない。
――どうして?
なんでみんな私をだまそうとしているの?
何を隠しているの?
どうして本当のことを言ってくれないの?
「教えてください。私は、どんな事実でも受け入れる準備ができています」
「ですが」と、お医者さんは深くうなずいていったんモニター画面に視線を移した。「事故の衝撃から自分を守るために記憶を遮断したことで、別の記憶に塗り替えられてしまうことがあります」
「そうなんですか」
「その思い浮かぶイメージは夢とか、事故の衝撃で影響を受けたものである可能性はありませんか?」
そんな……。
「違います。だってその人は……」
思い出そうとした瞬間、目の裏側に釘を打ち込まれたような激痛が走る。
どうして……。
どうして忘れさせようとするの?
苦しいよ。
つらいよ。
さびしいよ。
助けて……。
「大丈夫ですか」と、お医者さんが私の肩を撫でてくれる。「落ち着いて息をしてください。ちゃんと吸えてますよ。無理に吸わなくていいですよ。ゆっくりでいいんです。大丈夫ですよ」
――大丈夫。
え?
――僕はここにいるから。
声が聞こえる。
私はその声を知っている。
どこなの?
いるんでしょ。
いないふりなんかしないでよ。
私、あきらめないからね。
絶対に忘れたりしないから。
だって、君は私の大切な人なんだから。
私を大事にしてくれた、かけがえのない人なんだから。
必ず君を取り戻してみせる。
そう誓ったとたん、霧がたちこめたように私の周囲が白くぼやけていった。
◆◆◆◆
大切な君へ。
思い出せない君へ。
君がいなくなってしまってから、私はずっと抜け殻のように生きてきました。
夕暮れ時の窓から見えた飛行機雲がかすれていくのをじっと見つめると、君の笑顔が消えてしまうような寂しさを感じます。
私は君のそばにいるときの自分が一番好きでした。
君に出会ったその瞬間、私には分かりました。
この人をずっと待っていたんだって。
私は君に出会うために生まれてきたんだ。
運命なんだって、そう感じたんです。
理由なんて分かりません。
だけど、この気持ちはどうしたって消すことはできません。
君に会えたとき、私は救われたような気がしました。
君は私の毎日に思い出を刻みつける彫刻家だった。
なのに……。
どうして思い出せないの?
君がはっきりと刻んだ私たちの思い出はいったいどこへ消えてしまったの?
君への想いだけはこうしてはっきりと私の胸に残っているのに。
どうして君の存在だけが消えてしまったの?
思い出せない君のことを考えようとすると、とっくに乾いているのに細い枝にしがみつく枯れ葉みたいに心が震えます。
北風が容赦なく私の心をざわめかせ、飛び立った小鳥が木の葉を一枚落としていったかのように、君の存在が消えそうになる。
だけど、その枯れ葉が砂となって指の間からこぼれ落ちたとしても、たとえ一粒であったとしても私はそれを握りしめてみせます。
小さな砂時計に閉じ込められた私たちの未来を、もう二度と君と一緒に見ることはできないんでしょうか。
約束したよね。
来年の花火大会を見に行くって。
夜空の星がすべて降ろうとも、月が割れたとしても、君に会えることがないのなら、私はどうして今ここにいるの?
君のいないこの世に意味なんてない。
運命が私をもてあそんでいるの?
でも、私はおもちゃになんかなりません。
私を苦しめようとしたって無駄です。
絶対に耐えてみせます。
だって、君は私の大切な人だから。
言ったよね。
私、すごくわがままだからね。
だから、絶対にあきらめないんだからね。
君は知ってるよね。
私が甘えん坊だって。
忘れさせようとしたって無駄だよ。
君のそばにいたいから。
私、世界一のわがままだからね。
絶対にあきらめたりしないんだから。
だから、ね。
いいでしょ。
だって、それが……私が望むハッピーエンドなんだから。
――今、そちらへ行きます。