第2章 降りつもる時間は僕らの未来の形
砂時計の砂がすべて落ちると君は上下を回転させる。
再び砂が落ち始め、また新たな時が刻まれていく。
過去の砂が未来を形作る。
その形は二人の未来の姿だよね。
なのに静かに君は首を振る。
思い出がいくら降りつもってもそれは未来にはつながらない。
過ぎ去りし時のかけらを見ているだけ。
小さな穴から落ちる砂。
それは終わりの始まりの姿。
二人に未来があるとするならば今は……。
ただそのかけらの一つにすぎないんだね。
◇
登山合宿から帰ってきてすぐに僕と上志津さんの関係に進展があったわけではなかった。
あれからそのままゴールデンウィークに入って学校は休みだったし、その間、気軽にメッセージを送る勇気はさすがにまだなかった。
高校に合格したタイミングで初めてスマホを買ってもらった僕は、入学して一ヶ月を過ぎた今でも親との連絡以外に使ったことがなかったのだ。
送ろうと思って何度も打っては消してばかりで、結局あと一歩、送信を押すことができなかった。
でも、それはそれで正解だったような気がする。
ちょっと冷静になって振り返ってみれば、《元気ですか》なんて送って無視されたらそれこそ取り返しがつかなかっただろうし、《元気ですよ》なんて返ってきても、それもまたどう続けたらいいのか分からない。
向こうからだって何も送られてこなかったのだから、僕らはまだそういう段階ではないということなんじゃないだろうか。
つまらないメッセージを送ってせっかくのきっかけを失うのが怖い。
メッセージをあきらめてスマホに保存された彼女の写真を見ていると、踏み込んでいきたいという焦りと、幸せな思い出を失いたくないという恐怖に挟まれて胸が苦しくなるばかりだった。
休み明けに教室で不意に目が合っても、まわりの視線が気になって話すタイミングがつかめなかったし、目と目で会話する余裕すらなく、やっぱり僕は逃げてしまっていた。
そんな態度が失礼だってことは分かっている。
山でも彼女にそう言われたんだし。
だけど、みんなが見ている前で声をかけて良いのかどうか、確信が持てなかったのだ。
身の程をわきまえろと僕がみんなに笑われるのは構わないけど、地味男子が話しかけて彼女に迷惑がかかるのは避けたいと、いつも弱気になってしまう。
自分はいったい何者なんだろう。
同級生、ちょっとだけ親しい人、何度か会話をしたことがある関係。
いろいろな言葉が思い浮かぶけど、大切なことを伝えようとすればするほど何も言えなくなる。
――いやいや、待てよ。
た、大切なことって何だよ急に。
僕は彼女に告白しようと思っているのか。
でも実際、自分でも分かっていた。
登山合宿の時に彼女が示してくれた気持ちは紛れもない好意だ。
それは決してただの同級生とか、知り合いとか、その程度の関係の人に抱く気持ちじゃないことくらい、僕だって分かる。
他人との関係に敏感な僕にしてみたら、むしろ分かりすぎるくらいだ。
分かるからこそ、口をつぐんでしまうんだ。
手が触れたり、ペアリフトに並んで乗ったり、それが普通じゃないってことくらい分かる。
だからといって彼女にとって当たり前の距離感に、こちらから踏み込んでいくことなんてできるわけがない。
今までそんなふうに人と接したことがなかったから、まるで自信がないんだ。
彼女のことを想うたびに、氷を入れて泡が立った炭酸水みたいな清涼感に包まれるのに、自分自身の不甲斐なさと比較したとたん、さっきまで軽やかに弾けていたはずの泡が、氷の棘となって襲いかかってくる。
そんな劣等感に押しつぶされそうで、自分の殻に固く閉じこもってしまうのだ。
あれ以来、自分を鏡で見ることが多くなった。
――なんで、おまえなんだよ。
何の取り柄もないくせに。
鏡の中の自分に罵声を浴びせる自分の顔がますます歪んでいく。
僕自身が僕を笑っていた。
――なんだよ、笑うなよ。
僕だって……彼女のことが好きなんだ。
こんな僕だって、彼女を好きになったっていいじゃないかよ。
似合わない、釣り合わないってみんなに笑われたっていいじゃないか。
こんな調子で自分自身との問答を繰り返してばかりでちっとも前には進めない。
何度繰り返したところで、答えはどこにも見つからないのに。
あまりにも急に距離が縮まったものだから、話のきっかけになる共通の話題すら思い浮かばない。
そもそも同級生というだけで、僕は彼女を知っているようでほとんど何も知らないのだ。
五月の連休明けに席替えがあった。
僕は教室のほぼ中央の席で、上志津さんは廊下側の二つ後ろだった。
彼女のまわりにはつねに人が集まるし、最初の配置よりも少し距離が近づいたせいで、聞こうとしなくても会話が耳に入ってくる。
それによれば、彼女は中学の時にバドミントンをやっていたのに、高校では部活に入っていないらしい。
誘われたけど、勉強についていけそうにないから断ったんだそうだ。
お昼ご飯は購買でパンを買うことが多く、お気に入りはクリームチーズの入ったフォカッチャだけど、人気商品だからたまにしか買えないようだ。
男子連中のうわさ話も聞きたくもないのに耳に入ってくる。
狙ってるやつらは多いし、理想の女子としてあがめる発言もあれば、思春期男子らしいちょっときわどい内容まで、彼女の話題が出ない日はない。
昼休みにわざわざ顔を見に来る他のクラスの男子連中もいるし、上級生たちがのぞきに来ることもあった。
それに、女子のうわさ話では、実は登山合宿の時に指導役の上級生に呼び出されてコクられていたらしい。
「もったいなくない?」と、僕のすぐ後ろで女子の甲高い声が響く。「あの先輩、結構イケメンだったじゃん」
「でも」と、答える上志津さんの声はいつもの張りがない。「知らない人にいきなり言われても困るでしょ」
ゴメンナサイとお断りしたそうだけど、他にも僕の知らないところでいろいろな動きがあるのは間違いないようだった。
もちろん、そういった話を聞けば心がざわつくし、誰かに先を越されてしまうのではないかという焦りはある。
ただ、噂がすべて正しいとは限らないし、尾ひれのついた内容もあるだろうから、どこまでが本当の話かなんて、僕が確かめようもなかった。
気になるなら直接本人と話せばいいんだろうけど、普通の会話すらできないのに、そんなデリケートな内容なんか聞けるわけがない。
結局、何でもない今の関係、はっきりとさせない曖昧なポジション、それが実は一番居心地がいいんだろう。
僕はそんな穴蔵に逃げ込んで目を塞いでいるだけなんだ。
でも、太陽の下に引き出されて、真実に目を焼かれるくらいなら、背を向けていた方が安心だ。
なのに、君のことばかり考えてしまう。
絆創膏を貼った傷口が気になって、ヒリヒリするのにはがしてばかりいるみたいに。
僕は知りたいんじゃない。
あんなに探していた正解に価値なんかない。
変わらないのが一番。
今は答えを知るのが怖いんだ。
◇
入学して初めての定期試験が五月下旬に迫っていた。
試験前の準備期間中、女子たちは上志津さんを中心に、高校の図書館で勉強会をしているらしい。
僕らの高校の図書館は、江戸時代の藩校から伝わる和書を所蔵した資料館も併設された独立した建物になっている。
校舎と間違われるくらいの規模があるから、自習スペースにもかなり余裕があって、つねに空調も効いている。
とはいえ、試験期間中はさすがに満席になってしまうので、僕は放課後の教室に残って試験勉強をしていた。
教室は最終下校時刻まで自由に使えるし誰もいないから、混雑している図書館よりもかえって集中できる。
結局のところ、一人が一番気楽でいい。
僕はわずか一ヶ月半でクリアファイルに収まりきらなくなった英語のプリントを順番通りに並べ替えていた。
これをすべて復習して意味や文法事項を覚えるのは不可能としか言いようがない。
クラスメッセージで過去問の写真が回ってきたけど、暗記しただけではまったく歯が立たない問題ばかりだった。
おまけにもちろん、他の科目だってやらなくちゃならない。
学区一番の笹倉高校に合格したときは親も喜んでくれたし、まわりにもうらやましがられたけど、入る高校を間違えたのかなと、ため息をついたときだった。
後ろのドアから誰かの足音が聞こえてきたので振り向くと、野村さんだった。
「ここで勉強してたんだ」
「あ、うん」
教室で話しかけられたのは初めてだ。
「図書館に来ればいいのに」
「混んでるからね」
「まあ、そうだね」
野村さんは自分の机からノートを取り出すと、僕の所へやって来た。
「ねえ、ちょっといい?」
詰問口調に戸惑いながらもうなずくと、野村さんは僕の前の席にまたがって座り、背もたれに腕を置いて僕と向かい合った。
「ねえ、ひょっとしてさ、森崎君と晶保ってつきあってんの?」
山では『ショウワ君』と呼んでいたのに、今日の彼女はからかうつもりもないらしい。
野村さんは山で僕と上志津さんの間にあった出来事を見ているわけだから、はぐらかしても無駄なんだろう。
だけど、まだそういう状態ではないことも事実だ。
「そ、それはないと思うけど」
「思うけど何?」
「ああ、いや、つきあっているわけではない……です」
「本当に?」
「山で少し話をしただけだから」
野村さんはそんな答えに満足しないようだ。
「森崎君はそれでいいの?」
「だって、僕が勝手に決めることじゃないでしょ」
「じゃあ、ちゃんとコクりなよ」
そんなことを言われたって困る。
そもそも、なんで野村さんにそんなふうに責められなくちゃならないんだよ。
腹が立つと言うほどではないけど、納得がいかない。
「そりゃあさ、あたしもあの時どんな話をしてたのか、詳しくは知らないけど、晶保の気持ちくらい、顔を見てれば分かるでしょ」
上志津さんの顔……って。
リフトで見た彼女の笑顔と髪の輝きが急に浮かんでくる。
顔が熱くなって、鼻の頭に汗も噴き出した。
「分かんないの?」
デキの悪い生徒を叱りつけるように眉を寄せながら、そんな僕の顔をのぞき込む。
「好きなんでしょ」
え、いや、あ、あの、その……。
ズバリ指摘されてしまうと、つかみかけた言葉がリスの尻尾のようにつるりと逃げていく。
こうなってしまっては、心の回し車を駆けめぐるハムスターを止めることなどできない。
そんなふうに僕を追い詰めた野村さんは、背もたれをつかんで腕を伸ばすと、机に背中を預けた。
「ショウワ君はさ、真面目でいい人だっていうのは分かるけど、ちゃんと伝えなくちゃいけないことってあるでしょ?」
呼び名が変わっても目つきはそのままだ。
野村さんには関係のないことだと、面と向かって抗議する勇気も余裕もなかった。
「自分に自信がないって逃げてるつもりなんだろうけど、本当は相手のことを信じてないだけなんじゃないの?」
疑問形でたたみかける野村さんは僕の返事など期待していないんだろう。
追及の手はゆるまない。
「晶保のことをちゃんと見て考えてるなら、答えはもう出てるでしょ。それでも信じてあげられないの?」
ふだん上志津さんと一番仲良くしている野村さんがここまで言うんだ。
答えはもう分かっている。
だから、あとは答え合わせをするだけなんだ。
だけど……。
やっぱり、今のこの居心地の良い空気を、僕の方から吹き飛ばしていいのか分からない。
ただでさえ、ジュースに浮かんだ氷を渡り歩くような不安定な毎日なんだ。
しかも、進んだつもりで、コップの外には出られないのに。
何も変わらないこと、現状維持、無難な対応。
始まる前の夢想は無限に広がる幸福だ。
都合の良いストーリーだけをふくらませて延々と見ていられる今の気楽さは、いったん動き出してしまえばもう取り戻せない。
予告編だけでやめておけば良かったと後悔する映画は見たくないんだ。
失敗したからといってリセットは効かないし、嫌われて壊れてしまうくらいなら、今の曖昧な関係の方がよっぽどいい。
結局、僕は自分自身の回し車から抜け出すことができないんだろうな。
ねえ、と体を起こした野村さんが前のめりに顔を突き出す。
「登山合宿の時に、応援団長さんからコクられたって知ってるでしょ」
「え、そうだったの?」
先輩にコクられた話は聞いていたけど、その相手が三年の団長さんとは知らなかった。
「晶保ってさ、主張の強い男の人が苦手なんだと思うよ。ほら、人気あるからしょっちゅう呼び出されたりして、断るのも大変だし、逆ギレされちゃうことだってあるんじゃないかな」
注目される人には、それなりの苦労があるんだろうな。
「そういうのから守ってあげるのもカレシの役割なんじゃないの?」
「かっ、カレシって……」
思わず声が詰まって裏返る。
「僕はただの……」
「それでいいの?」と、野村さんがかぶせてきた。「本当に、そのままでいいの?」
その方がいいんだけど、納得しないだろうな。
「今は試験勉強が大事だから、そのタイミングじゃないと思う」
口を結んで軽くうなずきながら野村さんが僕をにらみつけた。
「まあ、それはそうだよね。じゃあ、試験が終わったら?」
「終わってから考えるよ」
「うまく逃げたって感じ?」
ひどい言い方だと抗議したかったけど、言い返せない自分が情けなかった。
「待ってよ。逃げるつもりはないから。必ずなんとかするけど、ただ、それは今とか、すぐではなくて……」
「じゃあ、いつよ?」
「どうしてそんなに急がせるの?」
あまりにも追い詰められたせいか、カウンターパンチのように言葉がこぼれ出た。
「なんでだろうね」と、野村さんは机に腰をぶつけながら立ち上がった。「見てるとイライラするからかも」
他人から見ると、僕なんかはそういう存在なんだろうな。
なんで、あんたが、とも思われてるんだろうし。
「ごめんね、僕なんかで」
「晶保のことだよ」
野村さんの声が天から振り落とされる。
岩で殴られたような衝撃に顔を上げられない。
「女子の友達関係を甘く見ない方がいいよ。見てもいないんだろうけど」
そう言い捨てて野村さんは教室を出ていった。
◇
心に受けた重い痛みが癒えないまま試験が終わって、結果も返ってきた。
僕はほとんどの科目が平均点レベルで、可もなく不可もなくだったけど、出題内容が想定以上に難しくてもっと悪いかと思っていたから、それでも満足だった。
耳にした噂では、上志津さんも同様だったようだ。
バスケットボール部の練習が忙しかった野村さんは数学と英語が赤点ギリギリだったらしい。
「部活辞めようかな」
「時間が足りないよね」
表面的には仲の良さそうな二人の会話をつい盗み聞きしてしまう。
「せっかく楽しかったんだけどな」
「次のテストまでにいろいろ工夫してみるとか」
「どうかなあ。どんどん難しくなるだけじゃないかな。次の期末は家庭科とか保健とか科目数も増えるじゃん」
「でも、辞めたらもったいないよ」
「やっぱ、そうだよね。どっちにしても、なるようにしかならないよね」
――なるようにしかならない。
それは僕への当てつけなんだろうか。
聞き耳を立てていることなんかとっくにバレてるんだ。
僕は相変わらず上志津さんと話せずにいた。
試験が終わったら告白しろと時限爆弾をくくりつけられたわりに、野村さんたちが常にそばにいて、まるで遠ざけられているようだった。
おまけに、野村さんと目が合うと、渋い表情でにらまれてしまう。
どうすればいいんだよとまた自分の中だけであれこれ悩んでいたけど、言うつもりならスマホで呼び出したり、なんならスマホでコクればいいんだから、結局のところ、弱気な僕の言い訳に過ぎないんだろう。
そんなとき、思いがけないことがきっかけで事態が動き出した。
六月に入ってすぐだった。
衣替えでブレザーの上着から、長袖ブラウスにクリーム色のサマーベストに替わり、午前中は夏を思わせる日差しを照り返して目にまぶしいくらいだったのに、午後から雲行きが怪しくなって、ちょうど下校時刻になったところで大粒の雨が降り出したのだ。
僕は折りたたみの傘を鞄に入れてあったから困らなかったけど、一面黒い雲で覆われた空を昇降口で見上げる生徒たちの中に上志津さんもいた。
いつもまわりにいる女子たちは部活に行ってしまったらしく、上志津さんは一人だった。
――ちょ、ちょっと待ってくれ。
いきなりどうしろって言うんだよ。
一緒に傘に入りませんかなんて誘えるわけがないじゃんか。
使っていいよと無理矢理傘を押しつけて雨の中を駆けていくのだってカッコつけすぎだろ。
そんなのが許されるのはイケメンだけだ。
ヘタレな僕はこの期に及んでも言い訳ばかり探していた。
と、その時だった。
「良かったら、傘入りなよ」
二年生の先輩たちが上志津さんを取り囲んでいた。
前からよく教室にのぞきに来ていて、僕も顔を知っている人たちだ。
どこにでもつるむ連中というのはいるものだ。
上志津さんは丁寧に頭を下げた。
「あ、いえ、大丈夫です。ありがとうございます」
「遠慮しなくていいよ」
「本当に、大丈夫ですから」
後ずさりながら何度も頭を下げて断ろうとしているのに、連中は後ろにも回り込んでしつこく迫っている。
「あ、あの、一緒に帰る友達を待ってるんです」
「嘘なんでしょ」と、傘を差しかけて顔をのぞき込む。「待ってる人がいるなら、スマホで連絡来たか見てたはずじゃん」
「もうすぐ来ると思います」と、か細く震える声が僕の心を共振させる。
「じゃあ、俺たちも待つよ」
完全に逃げ道を塞がれてしまった上志津さんは唇を噛んでうつむいていた。
さっきまで雨を見上げていた他の一年の生徒たちは、関わり合いになるのを恐れたのか、下駄箱の陰に隠れたりしてみんないなくなっていた。
相手は上級生五人だ。
僕なんかの出る幕じゃない。
胃の底が痙攣して吐き気がこみ上げてくる。
血が逆流したみたいに体が震え、体中の血管が自分を絡め取る網となって一瞬で固まった気がした。
僕にできることなんて何もないよ。
自分の折りたたみ傘に隠れながら目をつむって帰るしかない。
英雄気取りで助けに入ったところで、怪我をして恥をかくだけだろ。
だけど、上志津さんだって青白い顔をしておびえている。
彼女にそんな顔は似合わない。
体がぶるぶると震え出す。
だけど、それは恐怖ではなかった。
自分でも感じたことのない不思議な力だった。
後悔するな。
失敗なんか恐れるな。
助けに入って殴られるというのなら、右の頬でも左の頬でも喜んで差し出せよ。
僕はヒーローになりたいんじゃない。
たとえどんな土砂降りの日だろうと、天使には空を見上げて微笑んでいてほしいんだ。
しおれた朝顔の花みたいに沈んでいたら放っておくわけにいかないだろ。
君にそんな顔は似合わないからね。
「ほら、誰も来ないじゃん」と、連中が彼女に手を出そうとする。「嘘つかないでよ。俺たちだって、親切でやってんだからさ」
「でも……」
――やめろ。
声はかすれて出ないけど、ひとりでに手が上がる。
その手よりも前に心臓が口から飛び出しそうなほど暴れていた。
だけど、心の中でハムスターが立ち上がっていた。
無茶だって分かってるのに、僕は震える足をもつれさせながら彼女に向かって踏み出していた。
「ごめん、待たせたね」
割って入ると、先輩たちが一斉に僕を取り囲んだ。
「はあ、なんだてめえ」
だけど、一番びっくりしていたのは上志津さんだった。
丸く見開いた目に、山で僕に飛び込んできてくれたあの信頼の色が見えた。
僕は頬を引きつらせながら彼女に微笑みを向けた。
「ごめん、ごめん」と、本当に待ち合わせていたかのように言葉がするりと飛び出した。「傘探すの手間取っちゃってね。待った?」
とんでもない大根役者かもしれないけど、自分でも信じられないくらいウソの芝居ができた。
「あ、うん……」
「じゃあ、一緒に帰ろうか」と、僕は彼女の手をつかんだ。
「あ……ありがとう」
まるで誘拐犯みたいに乱暴なつかみ方になってしまったけど、からめあった細い指から安堵と信頼の力を感じる。
僕らの手はもう誰にもほどけない。
「よけいな口出しすんじゃねえよ」
彼女の後ろに回り込んでいた先輩が僕の肩を小突いた。
膝が震えて崩れそうになるのをこらえて、僕は彼女の手を引き寄せた。
そんな態度が相手をよけいにイラつかせたらしい。
「なんだよ、邪魔しやがって。おまえ、何なんだよ」
何者でもないけど、上志津さんを助けるための演技なら嘘でもなんでも言える。
なのに、肝心なところで声が裏返ってしまった。
「た、た、ただのドーキューセーです」
まるでお笑い芸人の一発ギャグだ。
しょせん、僕だよ。
うまくいくはずないさ。
だけど、一番笑っていたのは上志津さんだった。
さっきまで青白い顔をしていたのに、肩を震わせながら耳まで真っ赤にして喜んでくれていた。
「もう、遅すぎだよ」と、目に涙を浮かべながら笑いをこらえている。「ずっと待ってたんだからね」
――待たせてごめんね。
登山合宿の時から一ヶ月近く、ずっと待たせていたんだ。
あんなに話しかけることができなかったのに、今はちゃんと目でも表情でも、固くつなぎあった手からも気持ちが伝わってくる。
ごめんね、こんなに遅れて。
「彼女は嘘なんかつきません」と、僕は先輩たちに左手を突き出して道を切り開いた。「僕らはずっと前から待ち合わせをしていたんです」
嘘じゃないから胸を張って言えた。
声も震えてなどいない。
本当に、待たせてごめんね。
こんなに時間がかかっちゃったけど、迎えに来たよ。
――僕らはずっとずっと前から約束してたんだよね。
きっと出会う前から、運命を待たせていたんだよ。
「行こっか」
手を引いて先輩たちの輪から彼女を連れ出す。
堂々と、前を向いて、一歩一歩しっかりと地に足をつけて。
空気なんて読まなくていい。
オイとか後ろでわめいているけど、僕らは振り向かずに雨の中に踏み出していた。
折りたたみ傘を広げるために、いったん通路からそれて図書館につながる渡り廊下の下まで、手をつなぎ合ったまま小走りに移動した。
あきらめたのか先輩たちは追いかけてこない。
だけど、立ち止まったところで、急に膝が震えてふらついて、手を離してしまった。
格好悪いけど、精一杯やったんだ。
上出来だろ。
「怖かったね」
思わず正直な感想がこぼれ出る。
「うん、でも、来てくれてありがとう」
彼女も胸に手を当てて荒れた息を整えていた。
「遅くなってごめん」
と、言った瞬間、いきなりたたきつけるように雨脚が強くなって、遠くで雷まで鳴り始めた。
街が一気に海に沈んでしまったかのような豪雨で、見ているだけで溺れたみたいに息苦しくなりそうだ。
だけど、土やコンクリートに染みこんだ雨の匂いが不思議と落ち着く。
彼女の隣に立っていても緊張することはなかった。
雨宿りをする僕らの前を鞄で雨をよけながら生徒が駆け抜けていく。
上志津さんが空を見上げながらつぶやいた。
「どうしよっか」
その横顔にはいつもの柔和な笑みが戻っていた。
「雷がおさまるまで少し様子を見た方がいいかな」
「そうしよっか」と、いったんうつむいた彼女が、また顔を上げた。「ずっと待ってたんだよ」
――え?
「いつか声をかけてくれるかなって、ずっと前から待ってたのに」
「あ、ああ……」
「連休明けにせっかく教室で会っても、目も合わせてくれないから、手紙丸めて背中にぶつけてやろうかと思ったもん」
それはそれで楽しそうだと思ってついニヤけてしまったせいか、腕を肘でつつかれた。
「スマホでいいから、連絡くれればよかったのに」
「ごめんね」と、僕はしどろもどろに言い訳を探した。「連休中にずっと何かメッセージを送りたいなって思ってたんだけど、何を話したらいいか思いつかなくって消しちゃってたんだ」
彼女がため息交じりに笑みをこぼした。
「私もね、ドキドキしてたんだよ」
それはとても思いがけない言葉だった。
「こんなこと送っても返事に困るかなとか、無視されたらどうしようとか、打っては消して打っては消してで、なんで私こんなことしてるんだろって笑っちゃったもん」
「ぼ、僕も同じだったんだよ」
なんとなくお互い照れくさくなって、二人並んで雨を見上げたけど、くすぐったさはあってもなぜか気まずくはなかった。
無理に言葉を探さなくてもいい。
二人で耳を傾ける雨のリズムが僕らの不安を打ち消していた。
「私ね」と、雨に紛れるように彼女がつぶやく。「お土産に買った砂時計を毎日何度もひっくり返して、カズ君のことを考えながら砂が落ちるのを三分間じっと見てたんだよ。三分たったら、カズ君から連絡来るんじゃないかなって期待しながら」
「カップラーメンじゃないんだから」
「三十点」
「え?」
「今のツッコミ。イマイチ」
「じゃあ、正解は?」
「あはは」と、雨音を打ち消すように朗らかな笑みが花咲く。「君らしくていいね。正解を知りたがる」
そして、重心を後ろに傾けて体を揺らしながら、僕の顔をのぞき込んだ。
「私にも正解なんて分かんないよ」
僕はありのままのことを隠さず話してみた。
「スマホを買ってもらったのが高校に合格してからだから、どんなメッセージを送ったらいいのか全然見当がつかなくてね。ふつうのあいさつなんか送ったってつまらないだろうし、なんかほら、スマホ独特のルールみたいなのも全然知らないからさ。絵文字とか使いすぎるおじさんよりダメかも」
「私もだよ」
え、そうなの?
「私もスマホ持ったの高校入学からだもん。一緒だよ」
なんだ、そうだったのか。
女子はみんなこういうことに慣れてるものだと思い込んでいた僕が間違ってたんだ。
「だから、あんまり細かく送ってウザがられたらやだなって」
「そ、そんなこと思わないよ」
上志津さんがお祈りをするみたいに手を合わせた。
「ねえ、私たちだけのサインを決めておこうよ。まわりに他の人がいて話せなくても私たちだけに通じる合図があれば、心配しなくていいでしょ」
それはとても素晴らしい提案に思えた。
僕ら二人の秘密ってことだ。
「どんな合図?」
「うーん」と、彼女が首をかしげる。「襟を触るっていうのはどう?」
さっそく彼女がブラウスの左襟に右手をやる。
「こんな感じでどう?」
「あえて手の反対側の襟っていうのが、合図っぽくていいね」
「ちょうどオーケーのサインみたいな形じゃない?」
親指と人差し指でつまむから丸く円ができてたしかにそう見える。
「私の気持ち、伝わりましたか?」
うん、楽しいよ。
僕も同じ動作をやって見せた。
「あ、喜んでる」
うん、そうだよ。
ちゃんと伝わるね。
「これからは、お互いに何か話したいことがあるんだなって、これで分かるね」
雷はおさまって、少しだけ空が明るくなった。
雨も落ち着いてきたようだ。
「そろそろ行けるかな」
僕は折りたたみ傘を広げた。
今までずっと使っていた物なのに、思ったよりも小さく感じる。
また急に弱気な自分がささやき始める。
こんな小さな傘、密着しないとはみ出ちゃうぞ。
下心なんかないふりをしようとしたってバレてるって。
「小さくて二人は入れないかも」
僕が引っ込めようとすると、彼女が傘を見つめながらつぶやいた。
「ねえ、相合い傘ってしたことある?」
「ないよ」
あるわけないじゃん。
いつも一人だったんだから。
――君は、あるの?
聞きたいけど、自分がみじめになりそうで聞けない。
「私もしたことないんだけどさ」
え、そうなの?
あからさまに顔に出てしまったのか、彼女に苦笑されてしまった。
「これって、どうやったら濡れないのかな」
どうやっても濡れるんじゃないの。
そもそも、片方が濡れちゃって、もっとこっちに寄りなよっていうのがお約束なんじゃないのかな。
「ここで少し練習してみようよ」と、彼女が僕を見つめる。
その目の圧に押されて僕は渡り廊下の下でまず自分だけ傘を差してみた。
「お邪魔します」と、彼女が入ってくる。
やっぱり、お互い、体が半分ずつしか入らない。
「ねえ、こうだと、どう?」と、彼女は僕と向かい合わせになった。「ほら、天才かも。横に並ぶと円の直径よりも二人の肩幅が大きくなるからはみ出るわけでしょ。だけど、この位置だと半円ずつ使えるから二人とも入れる」
いや、そりゃそうだけど。
これじゃほぼ抱き合ってるような密着度だ。
ただの練習なのに、緊張で体がこわばってしまう。
「そっちは後ろ向きだから歩けないじゃんか。転んじゃうよ」
「そのときは抱きかかえてくれるでしょ」
「無理です。傘持ってるし、そもそも道路でふざけちゃいけません」
「はあい」と、口をとがらせて、くるりとターンする。「じゃあ、前向きに並べばいいじゃん。これなら危なくないでしょ」
これじゃ、電車ごっこだ。
危なくはないけど、今度は僕が危ないよ。
髪の毛からすごくいい匂いがする。
冷静でいろっていう方が無理だろ。
「なんなら、後ろから腕回してくれてもいいよ」
「だから、傘持ってるから無理です」
「あ、じゃあさ」と、彼女が僕の後ろに回り込む。「こっちならどう?」
いやいや、今度は僕が匂いをかがれてしまうわけだろ。
汗臭いに決まってるじゃん。
ムリムリ。
めちゃくちゃ恥ずかしい。
「どっちもだめだよ。前が見えなくて歩きにくいでしょ」
後ろから顔をのぞかせた彼女は頬を膨らませていた。
「つまんないの。初めての相合い傘なのに」
「最初だから、普通でいいじゃないかな」
一瞬固まった表情を震わせ、柔和な笑顔でうなずく。
「そうだね」
あはは、とおなかを押さえながら朗らかに笑うと、僕の隣に並んで傘に入った。
「ごめんね。なんかはしゃいじゃったね」
――まただ。
なんで素直に受け止めてあげられなかったんだろう。
彼女が悪いわけじゃないのに。
山から全然進歩していない僕が悪いんだ。
伝えなくちゃ。
怒ったりしていないって伝えなくっちゃ。
僕はとっさに傘を持ち替えて右手で左の襟を触った。
それを見た彼女も真似をした。
大丈夫。
まだまだぎこちないけど、僕らはうまくやっていける。
「じゃあ、行くよ」
予行演習を終えて雨の中へ一歩踏み出す。
校門から駅までの道はケヤキの街路樹で区切られた歩道のある大通りで、歩行者はいないけど、車がけっこうスピードを出して走っている。
相合い傘で寄り添う僕らの横を通り過ぎるときだけ、エンジンのうなりが大きくなるのは気のせいだろうか。
雨脚は弱まったとは言え、すぐに長袖シャツの左袖全体がピタリと肌に張りついてしまった。
僕は彼女の肩を濡らさないように、反対側に傘を回した。
触らないように気をつかいすぎて、地球の裏側に手を回しているくらいに遠かった。
「いいよ、そんなに気をつかわなくて」
でも、これも僕の気持ちだ。
せっかく傘に入ってもらうんだから、彼女に風邪をひいたりしてほしくない。
とはいえ、密着する勇気なんかどこにもない。
「もっと、間隔狭めていいよ。ほら」と、彼女が僕に体を寄せてくる。
僕はそのままの距離を保とうとして横に逃げてしまう。
彼女がますます詰めてくるたびに、いい香りが波のように押し寄せてくる。
自分の鼻をもぎ取ってでもなんとか理性を保たないと犬になってしまいそうだ。
歩道からはみ出すしかなくなって、追い詰められた僕はついに観念した。
肩をくっつけながら歩く。
でもやっぱり、紐で結ばない二人三脚みたいで歩きにくい。
「フォークダンスのつもりでリズムを取ればいいんじゃない?」
チャララララララン、タラララララランと彼女が軽やかに歌い出す。
しかも途中でターンまでして、ふわりとスカートが広がる。
「ちょ、え」
自由すぎて、ハラハラしてしまう。
幸い、雨でまわりに人は歩いていなかったし、歩道に沿って腰までの高さに刈りそろえられたサツキの植え込みがあるから、脇を通る車からも隠れていたと思う。
もちろん、密着した僕の視点からだと何も見えない。
変に疑われなくて、その方が助かる。
だけど、思春期男子には『妄想』という名の神視点が備わっている。
見えないはずの見えてほしかったものがしっかり見えてしまったような気がして顔が熱くなる。
何か別のことを考えてクールダウンしないと破裂してしまう。
なのに、ごまかそうとすればするほど意識が集中してしまう。
ありがたいことに、そんな僕を、音程もリズムも外れた彼女の鼻歌が現実に連れ戻してくれた。
――ていうか、ものすごい音痴だ。
思春期男子の妄想を一瞬にして鎮火するほどの破壊力だ。
だけど、楽しんでいる気持ちだけは伝わってくるし、あんなにずれていた二人の歩くテンポが、なぜかそろうのが不思議だ。
「あ、笑ってる」と、彼女が頬をふくらませる。「前に教えたでしょ。私の弱点」
「これほどとは思わなかったから」
「正直でひどい感想ありがとうございます」と、彼女は鼻歌をやめた。
だけど、一生懸命右手で左の襟をつかんで、本当は怒ってないよとアピールしてくれる。
「そんなに目立つと、意味ありげで、秘密の合図にならないよ」
「だって、この合図楽しいんだもん」
――僕もだよ。
君のそんな表情をこんな間近で独り占めできるなんて、楽しくてしかたがないよ。
そんなことをしているうちに、駅前広場まで来てしまった。
地元の僕はここでお別れだ。
いつの間にか忘れていた相合い傘の緊張に気づいて膝が震え出す。
残念だけど、これ以上だと、心臓が持ちそうにない。
今ならフルマラソンでももっと楽にゴールできそうな気がした。
「傘、持って行きなよ」
「カズ君が家に着くまでにびしょ濡れになっちゃうよ」と、大げさに手を振る。「いつもね、お母さんがちょうど仕事帰りの時間だから、駅まで車で迎えに来てくれることになってるの」
「ああ、そうなんだ」
「うん、今日はありがとう」と、彼女が右肩に頬を埋めるように首をかしげた。「楽しかったよ」
僕もだよ。
と、お互いに自然と右手を左襟に当てていた。
「伝わっちゃったね」
「うん」
また明日、と手を振って僕らは別れた。
――また、明日話せるんだ。
ただのあいさつかもしれないけど、それは僕らにとって大事な未来の約束だった。
◇
駅前で別れて家に着いてからも喜びや興奮は解けなかった。
メッセージを送るなら今しかないと、ずっと悩んでいた。
打っては消し、打ってはまた消し、と時間ばかりが過ぎていく。
結局、気の利いた一言が出てこなくて、寝る時間になってしまった。
と、アラームをセットして部屋の明かりを消したその時だった。
スマホの画面が光る。
上志津さんからのメッセージがロック画面に浮かんでいた。
《今日はありがとう》
眠ろうとしたタイミングで来るなんて。
こんなささいな偶然にまで、ふと見上げた空に流星群を見つけたような大げさな感動を覚えてしまう。
――偶然に感動する魔法。
その魔法の名前を僕は知っている。
僕は恋をしているんだ。
画面を開いて夢中で指を動かす。
さっきまで悩んでいたのに、実際に届いてるんだから迷ってなどいられない。
おしゃれな言葉なんて、どうせ僕には似合わないんだ。
《また明日話せるとうれしいです》
真面目すぎるとは思ったけど、時間をおく余裕なんてない。
すぐに返事が来た。
《私も》
《ありがとう》
なんか違う気がするけど、僕の頭では精一杯だ。
いったん暗闇に落ちた部屋に、池から湧き出た女神のように返信が浮かび上がる。
《うれしくて眠れなくなっちゃうけど、おやすみなさい》
気の利いたセリフなんてなくていい。
そのままの自分の言葉を受け入れてもらえるのがこんなにうれしいなんて知らなかった。
仰向けになった僕はスマホを両腕で掲げて画面をじっと見つめていた。
その小さな画面におさまる神秘の宇宙に彼女のすべてが詰まっているような気がした。
それはまるでビッグバンのような衝撃だった。
彼女はやっぱり天使なんだ。
僕の知らなかった新しい世界を見せてくれる創造主なんだ。
止めてくれ。
時を止めてくれよ。
このまま時を止めてくれれば、僕は幸せな人生という幻想を永遠にこの胸に抱いていられるじゃないか。
勘違いでいい。
ただの思い違いでいいんだ。
僕みたいな非モテボッチ男子にはそれが最高の贅沢なんだから。
――いや、違う。
僕の気持ちは確信に変わっていた。
たぶん偶然なんかじゃない。
これは運命なんだ。
僕らの出会いはずっと前から約束された運命だったんだよ。
……。
――ん?
いつの間にか眠っていたらしい。
スマホがおでこに落ちてきたけど、なんだか彼女に笑われたみたいでくすぐったかった。
◇
翌朝、僕はアラームが鳴る前に目が覚めた。
こんなことは小学校以来だろうか。
いつもは何度も声をかけられてようやく朝食に下りていくものだから、親が目玉焼きを皿から滑り落としそうになっていた。
「朝から驚かさないでよ、まったく」
早起きして嫌味を言われるなんて理不尽だけど、今朝はそんなことはどうでも良かった。
昨日までと世界が違っていた。
窓の外は曇っているのに濡れた木々の葉っぱのきらめき一つ一つが目に飛び込んできたし、いつものトーストをかじる音まで違って聞こえるような気がした。
「パン屋さん変えたの?」
「いつものスーパーの見切り品だけど、カビ生えてた?」と、母親が僕の額に手を当てた。「熱はないのよね?」
そんなふうに心配されたのも小学校以来だ。
家を出てからも足取りは軽やかだった。
自分の人生でこんな気分になる日が来るなんて思いもしなかった。
いったん駅前へ出て、電車通学の生徒の流れに合流して学校へ向かう。
昨日、二人で一つの傘に入って歩いた同じ道だ。
今まで何度も通った道なのに、まるで一面のお花畑を歩いているみたいだ。
歩道はほとんど乾いていたけど、ところどころ水たまりが残っている。
わざと足を踏み入れて音を立てると、彼女のうまくない鼻歌が聞こえたような気がした。
もうあれ以上の幸せなんかないのかもしれない。
でも、それでもいい。
一度でも、あんな経験ができたなら、それでもいいんだ。
そんな夢みたいな出来事の思い出に浸りながら昇降口に入って、下駄箱の蓋を開けたときだった。
叫びそうになって僕は思わず口を押さえた。
上履きの上に見慣れないものが置かれていたのだ。
薄紫色の封筒だ。
――こ、これは……。
う、うそだろ。
ま、まさか、ラ、ラ……。
頭の中ですら、その言葉を思い浮かべることすらできなかった。
だけどそれは紛れもなく、非モテボッチ陰キャ男子にとって都市伝説圧倒的第一位に君臨する『下駄箱のラブレター』だった。
な、なんでだよ。
どうしてこんなタイミングで?
どうして僕なんかに?
そんな疑問が一瞬のうちに頭を駆け巡る。
僕には上志津さん以外の人は考えられないのに、なんでモテ期なんか来るんだよ。
あ、もしかしてと、僕は周囲を見回した。
動画配信をやっているやつらが仕掛けたドッキリかもしれない。
非モテ男子が下駄箱のラブレターを見つけて舞い上がってる姿を生配信。
でも、そんな気配はなかったし、他のクラスの生徒も特に不審な様子は見られない。
なんだろう、違うのかな。
僕は震える手でその封筒を手にし、見られてもすぐに隠せるように下駄箱の中で手紙を取り出した。
きれいに折りたたまれたレター用紙を広げると、そこには藍色のインクで整った文字が書かれていた。
《十年後も二十年後も私の笑顔を見ていてください 晶保》
――あっ……。
な、なんだ、上志津さんか。
知らない人がくれたラブレターじゃなくて良かった。
そ、そりゃそうだよな。
僕に手紙をくれる人なんているわけないじゃんか。
いやいや、そもそも上志津さんから手紙をもらうことだって、それ自体あり得ないことなんだけどね。
本当はもっと素直に喜びたかったんだけど、余計な心配をしてしまったせいで、ホッとしたり、別の感情が先に来てしまった。
まわりを確かめて、誰にも見られないようにポケットにしまったところで、ようやくじわじわと喜びがこみ上げてきた。
《十年後も二十年後も……》
今見たばかりの文面が思い浮かんで自然と頬が緩んでしまう。
こんなに幸せでいいんだろうか。
昨日、駅で別れてから、わざわざこの手紙を書いてくれたんだ。
僕のことを思って、僕のために書いてくれたんだ。
そしてそれを僕にくれたんだ。
この世にそんなことをしてくれる人がいるなんて、今まで思いもしなかった。
生まれて初めて、この世に生まれてきて良かったと叫びたかった。
「何してんの?」
――え?
すぐ横に野村さんが立っていた。
「え、あ、いやべつに。おはようございます」
「なんで敬語なのよ」
「いやべつに、なんでもないです」
「女子慣れしてない男子って、隠し事があるとすぐに挙動不審になるよね」
バレてる?
と、思わずポケットに手をやったら、野村さんが眉をひそめてじっと見ていた。
――こういうところなんだろうな。
挙動不審に、さらに墓穴まで掘ってるし。
「昨日、ずっと噂が流れてたよ」
う、噂って……。
相合い傘のことか?
「晶保のこと、守ってあげたんでしょ」
「あ、ああ、まあ」
先輩たちに絡まれていた件のようだ。
「やるじゃん」
野村さんは靴を入れ替えて上履きをポトリと床に落とした。
褒められたのかどうか、その横顔からは真意はつかめなかった。
それにしても、昨日、どこかで誰かが見てたんだろうか。
「クラスのメッセージには何も流れてなかったよね」
「あたしたち女子だけのグループがあるのよ」と、野村さんが上履きに足を入れてトントンとつま先を鳴らした。「晶保以外のね」
なんで上志津さんを仲間はずれにしてるの?
「引いてる?」と、悪意のこもった笑みが向けられた。「べつに悪口言い合ってるわけじゃないよ。晶保が入りたがらないだけ」
まあ、それなら仕方がないのか。
「一言で女子って言ったって、スマホのやりとりが苦手な人もいるでしょ。短い言葉で誤解されると面倒だし。だったら、最初からやらないっていうのも全然アリじゃん。個別に連絡は取れるし、学校ではみんなと話してるんだし、べつに困らないもん」
スマホのやりとりをしないのは僕に対してだけじゃなくて、女子の友達に対してもそうだったのか。
そうなると昨晩交わした短いメッセージが急に重みを増してくる。
あの文面を、一生懸命考えてくれたんだろうな。
送るときに、ちゃんと伝わるか、僕と同じように悩んでくれたんだろうな。
「何ニヤけてんの?」
野村さんの声で我に返る。
ちょっと自分でも浮かれすぎだと反省してしまう。
「そこに突っ立ってると邪魔だから、早く行ってよ」
「あ、ごめん」
背中を押されて、二人並んで教室へ向かう形になってしまったけど、何を話したらいいのか分からない。
「べつに無理に話さなくていいよ。あたし、そういうの気にしないから」
気をつかわせてしまって申し訳ない。
だけど、ご厚意に甘えさせてもらうしかないのが情けない。
ていうか、僕の心の中が全部読めてるんだろうか。
「ショウワ君ってさ、全部顔に出るんだよね」
うわっ、本当にバレてる。
「そういうところだろうね」
え、何が?
「晶保が好きになった理由」
す、好きって……。
黙り込んだ僕のお尻に野村さんの鞄がヒットする。
ちょ、え?
「見てて飽きないもん」と、野村さんが一歩前へ出た。「あたしもね」
教室の入り口にいた女子とあいさつを交わすとそのまま野村さんは窓際の自分の席に鞄を置きに行ってしまった。
上志津さんのまわりにはいつものように女子たちが集まっていて賑やかだった。
さすがに割って入るわけにもいかず、僕は自分の席に座る流れで体を横にひねって後ろを向きながら、軽くポケットをたたいて襟を触る合図をしてみた。
目が合ったその瞬間、彼女も右手で左の襟をつまんでくれた。
『手紙ありがとう』のサインがうまく伝わったらしい。
と、安心したその時だった。
「ちょっと、今の何それ」と、野村さんがすぐ脇に立っていた。
「え、べつに」
「意味もなく襟なんか触らないでしょ」
もう、バレてるよ。
ていうか、ものすごい観察力だな。
名探偵か、いやスパイなのか。
そんな野村さんだけど、僕と上志津さんの関係をどう思っているのか、今ひとつ読み取れない。
嫌われているわけではないみたいだし、みんなに噂を広めようともしない。
邪魔したいのか、からかってるだけなのか、そのどちらでもないような気もするし、何なんだろう。
その日は朝一番に六月の席替えがおこなわれて、僕は一番前の席を引き当ててしまった。
自分の荷物を運んだものの、居眠りのできないハズレ席に落ち込んでいると、野村さんが話しかけてきた。
「あたしさ、後ろの方だから交換してよ」
「どうして?」
「黒板見えないから前の方がいいの。赤点取りたくないし」
「ああ、そういうことなら、いいよ」
正直ありがたかった。
「で、どこなの?」
「晶保の隣」
野村さんが親指を向けた空席は一番窓際の後ろに座る上志津さんの隣だった。
大当たりじゃないか。
呆然と立ち尽くしていると、さっきの昇降口と同じように鞄で背中を押された。
「早くどいてよ」
「ああ、ごめん」
と、立ち上がって野村さんと向かい合ってみて、僕はようやく気がついた。
彼女は目が悪いようには見えない。
眼鏡をかけている姿を見たことはないし、コンタクトをしてるといった話を聞いたり、ずれたりほこりが入って目が痛いとか嘆いていたこともない。
勘のいい彼女はそんな僕の疑問を察したんだろう。
「いいの。あたし、見たくないから、あんたの背中なんて」
僕を押しのけるように席に座ってしまった。
「ありがとう」
僕はかろうじてお礼を言って後ろの席に向かった。
「あれ、カズ……、森崎君、ここなの?」
上志津さんは目を見開いて僕を迎えてくれた。
「よろしく」
まわりの目があるからわざと素っ気なく答えたけど、左襟に触れていたからちゃんと分かってもらえたようだった。
朝のホームルームが終わって休み時間になったところで、上志津さんがスマホの画面を僕に向けてささやいた。
「きのう、返信ありがとうね。記念に保存しちゃった」
表示されているのはメッセージ画面のスクショだった。
「わざわざ写真に撮ったの?」
「だって、この画面はもう見られなくなっちゃうんだよ」
「ああ、メッセージが重なるとどんどん流れちゃうのか」
「そうだよ」と、スマホを両手で包み込む。「さかのぼればいつでも見られるけど、私たちの始まりは今だけだもん。大事な記念でしょ」
「じゃあ、僕も保存しておこうかな」
「うんうん、そうしなよ」
こちら側に身を乗り出すように僕のスマホをのぞき込む。
と、女子グループがいつものように上志津さんに話しかけに来たので、僕はスマホをしまって国語の準備をすることにした。
「晶保、超大当たりの席じゃん。うらやましい」
「たまたまだよ。これからの季節暑くなるし」
「日焼けヤバイかも」
「しかも片側だけね」
まあ、六月からはエアコンがついてるし、カーテンもあるから、あまり心配はないだろうな。
取り囲む人垣の隙間から、上志津さんが右手を左襟に当てているのが見えたので僕も同じ合図を返した。
ふと、黒板を見ると、一番前の席で野村さんがこちらを向いてたけど、僕と目が合うと、ちょっと舌を出して前を向いてしまった。
◇
その日の昼休み、上志津さんがみんなに誘われて購買に行っているタイミングで、野村さんが弁当を持って僕の席に来た。
「あたしに、ここ使わせてよ」
なるほど、上志津さんたちのグループが集まるから僕がいたら邪魔なんだろう。
「いいよ。もともと野村さんの席だったんだから」
「あたしの席使っていいよ」
鞄を持って野村さんの席に移動したら、消しゴムが置いてあった。
片づけ忘れたのかと思ったら、机にシャーペンでメッセージが書いてあった。
《スマホで放課後図書館に誘う。その後、一緒に帰る。読んだら消す》
なるほど、そのための消しゴムか。
弁当を広げる動作の流れでとりあえず消しておく。
スパイかと思ったら、鬼の演出家だったか。
大根演技で吸い殻山盛りの灰皿を投げつけられたら困るので、監督さんの指示通り、スマホを取り出してメッセージを送った。
台本通りだから、指に迷いはなかった。
すぐに既読がついて《いいよ》と返信も来た。
購買から戻ってきた上志津さんに左襟の合図を送る。
両手にパンとドリンクを持っていた彼女は久しぶりにゲットしたクリームチーズ入りフォカッチャを軽く振って返事をしてくれた。
午後の授業は教室移動で話すタイミングがなかった。
ホームルームの直前にメッセージが来た。
《みんなが部活に行ったら行くから待っててね》
すぐ隣にいるのに、声を聞かれないように配慮してくれたんだろう。
僕は左襟に右手をあてて『返信』した。
こういったやりとりができるようになるのにずいぶん時間がかかったけど、一度きっかけがつかめれば楽しくてしかたがない。
ほんのちょっとした約束だって、それがあれば未来を自分たちで作っていける。
未来は未知で漠然としたものだと思っていた。
だけど、決めてしまえばその通りになる。
一人だと未定なのに、二人だと予定になる。
それは僕にとって初めての経験だった。
ホームルームが終わると、野村さんが鞄を持って上志津さんのところへやってきた。
「晶保、帰るの?」
「あ、うん、ちょっと用事を済ませてからね」
「へえ、用事って何?」
――知ってるくせに。
なんか僕の方にチラチラ視線を送ってくるのやめてください。
言葉を濁す上志津さんに対して、もっといじってくるのかと思ったら、野村さんはあっさり引き下がった。
「じゃあ、あたし、部活行くね」
「う、うん、また明日」
思惑通りからかえたのがご満足いただけたらしく、野村さんは軽やかな足取りで机の間をすり抜けていった。
他の女子たちも声をかけに集まってきていたので、約束通り僕は先に図書館へ行っていることにした。
窓際の自習席に座って数学の宿題を広げてみたものの、上志津さんのことばかり考えてしまって勉強なんて手につかなかった。
窓の外では、青い壁を這い上るように入道雲が天に向かって伸びていく。
今朝は曇ってたし、もしかしたらまた雨が降るかもしれないな。
とりとめのないことを考えながらちょっとうとうとしかけた頃だった。
急いできたのか、額に汗を浮かせながら上志津さんが現れた。
「ごめんね。おしゃべり長引いちゃって」と、顔をあおぎながら前髪を整える。
「宿題やってたから平気だよ」
「あ、それ、どうだった?」と、僕のプリントをのぞき込んだ彼女が笑う。「やってないじゃん」
バレてしまった。
「まあ、いろいろ考え事しちゃっててね」
「私のこと?」
一気に顔が沸騰する。
図星ですけどね。
受験勉強に集中している三年生の先輩もいたから、このまま話を続けるわけにもいかず、僕らは図書館を出て昇降口へ向かった。
下駄箱を開けたとき、手紙のことを思い出した。
「今朝、手紙ありがとう。びっくりしたよ」
「俺にもモテ期が来たとか思ったでしょ」
ちょ、え、なんで……。
「あ、冗談のつもりだったのに」と、頬を膨らませる。「残念でした、私で」
「ち、ちがっ……くて」
彼女はわざとらしく拗ねた表情で靴を履き替えている。
「あ、あ、あの……ですね、正直に白状します。手紙を見たときに、喜んだのは事実です。だけど、ぼ、僕には、その、こ、心に決めた人がいるので、ですね、どう言って断ったらいいのか、申し訳なくて気が重くなってしまって」
「ふうん」と、上志津さんは平板な口調で首をかしげた。「じゃあ、私も、そうやって断られちゃうのかな」
「え、どういうこと?」
「だって、心に決めた人がいるんでしょ」
「だ、だからそれはその、つまり……」
うつむく彼女が僕との間に隙間を空ける。
「も、もし違う人だったら断らなくちゃという意味で」
どんな言い方も空回りしてしまう。
心の中で声がする。
言えよ。
今だろ。
今しかないだろ。
おまえのためじゃない。
彼女のために言うんだよ。
不安なのはおまえだけじゃない。
彼女を安心させてやれるのはおまえだけなんだぞ。
おまえはもう、回し車のハムスターなんかじゃないんだ。
――分かったよ。
弱気な自分と決別するときが来たんだ。
昇降口を先に出ていこうとする上志津さんの背中に向かって、僕ははっきりと想いを告げた。
「僕の心に決めた人は、あなたです。かみし……晶保さん」
言ってみると、それはあっけないものだった。
言葉は何の抵抗もなく飛び出し、まっすぐ彼女の胸に刺さった。
僕にはそれが分かった。
だって、振り向いた彼女が涙ぐんでいたからだ。
「ずっと待ってたの」と、こぼれ落ちる涙をぬぐうことなく彼女がつぶやいた。「ずっと待ってたんだからね、ずっと……」
僕は一歩踏み込んで彼女の頬を伝わる涙を指でぬぐってあげた。
「好きです。僕のカノジョになってください」
一歩下がって彼女が目を伏せる。
「ああ、もう、泣かせたな」と、かすれた泣き笑いを持て余している。「泣かせたでしょ、私のこと。責任とってもらうからね」
――うん。
大丈夫。
全部受け止めるから。
「私、すごくわがままだからね」
知ってる。
目の前に山があったら登っちゃうもんね。
「私、すごく甘えん坊だからね」
知ってる。
もうずいぶん振り回されたし。
だけど、これからは全部、僕が受け止めてみせるから。
僕は一歩間合いを詰めた。
彼女は涙で崩れた笑顔を隠すように手の甲で頬をぬぐっていた。
「よかった。私、今、やっと恋をしてる」
うん、待たせてゴメンね。
「私さ、ちゃんと息できてるよね」
ちょっとむせったように咳が出るのを手で押さえている。
「大丈夫だよ。落ち着いて」
「すごくドキドキしてるけど、心臓だってちゃんと動いてるんだもんね。ずっと、ずっと待ってたんだから」
こんなに喜んでくれてるのに、どうして僕は不安に思っていたんだろう。
もっと早く伝えるべきだったんじゃないか。
不安に思っていたのは彼女の方だったんだ。
泣いたり、笑ったり、落ち込んだり、拗ねたり、いろんな表情を見せてくれるのは、全部僕のためだったんだよ。
だからちゃんと受け止めてあげなくちゃ、不安にさせてしまうばかりなんだよ。
やっと気がついた。
ようやく確信が持てた。
彼女は、ごくふつうの女の子なんだ。
だけど、僕にとって特別な女の子なんだ。
この世で一番大切な人なんだ。
「行こっか」と、彼女が僕に手を差し伸べて歩き出す。
手を握るのかと思ったら、するりと逃げられてしまった。
「捕まえてみて」
出遅れた僕をおきざりにして君はどんどん駆けていってしまう。
きっと、真っ赤な目を見せたくないんだろう。
涙で濡れた頬を乾かしたいんだろう。
君と同じスピードで駆け出すと、同じ時が刻まれ始める。
一瞬一瞬がキラキラと光を放ち出す。
雨上がりの乾いた道路に残った水たまりを飛び越える後ろ姿ですら、スローモーションで記憶されていく。
君はよく時を切り取る魔法を使うよね。
僕は山のリフトでも似たような感覚に襲われたことを思い出していた。
あれからずいぶん回り道したけど、僕らの見ている風景はようやく一つに重なったんだ。
◇
校門を出て角を曲がり、学校が見えなくなったところで、彼女が立ち止まった。
どうやら校内の人目を気にしていたらしい。
僕らは人通りの少ない脇道に入ると、どちらからともなく自然と手をつないだ。
走ったばかりで汗でぬるっとしてないかと一瞬気になったけど、手よりも顔からの方がだくだくだった。
「暑いよね。すごい汗だよ」
歩きながら彼女がハンカチを出して僕の額に押し当ててくれたけど、前が見えなくなってつまずきそうになってしまい、いったん手を離す。
ふいてもらってもかえって汗が噴き出してしまう。
なかなかカッコよくうまくなんていかないものだ。
大きな木が茂った道端の神社の境内に自然と足が向いて、少し休憩することにした。
錆びたブランコに並んで腰掛けると、木々の葉の間からこぼれた青空のかけらがビーズのように地面に散りばめられていた。
僕はポケットから丸く固まった自分のハンカチを取り出して顔の汗をふいた。
いい匂いのする彼女のハンカチに比べて僕のはカビ臭い。
これからはちゃんと洗濯してアイロンをかけたのを毎日用意しないといけないな。
そんなことを考えていたら、彼女が前髪を上げて乾かしながらつぶやいた。
「私ね、いろんな人から告白されるんだけど、好きな人に好きになってもらえたことがなくてね」
中学二年生の時に好きな人にバレンタインのチョコを渡したら、からかっているんだろうと、信じてもらえなかったんだそうだ。
「思い切って告白したのに嘘告白みたいにされちゃって、すごく悲しかったし、それがきっかけでクラスから無視されるようになっちゃってね」
「え、なんで?」
「その前のクリスマスに、クラスで人気だった男子に告白されてて断ってたんだけど、『他に好きな人がいるから』って理由を言ってたのね。で、私がバレンタインで告白して相手が誰なのか分かった途端、その男子が仲間はずれにされちゃって、それをきっかけに、私が悪いってまわりの女子にも攻撃されちゃってね」
僕みたいな非モテ男子がクラスの人気女子からチョコをもらったら、ドッキリか何かかと信じられなくて、同じような態度を取ってしまったかもしれない。
ていうか、この一ヶ月、まさにそうだったんじゃないかよ。
今さらながらに自分が情けなくて土下座で謝罪したくなる。
彼女の声は淡々としていた。
「今思えば人気のある男子のことを好きだった女子たちの嫉妬だったんだろうけど、私が好きだった人にはフラれちゃうし、みんなからは無視されるし、学校に居場所がなくなっちゃってね」
「あ、だから、離れた高校に来たんだ」
「うん」と、彼女はつま先で地面を蹴って軽くブランコを揺らした。「中三の一年間、保健室登校だったんだ」
錆びついたブランコが悲鳴のような音を立てる。
「そのときに、すごく嫌だったのが、『あんなさえない男子じゃなくて、人気者の男子とつきあってれば良かったんだ』ってまわりに言われたことなのよ」
僕の中学でも、イケメン男子がクラスの人気女子とつきあうみたいなのはあったな。
お似合いだってみんなに囃し立てられていたけど、クラスが変わったら、お互いの相手も変わってたっけ。
考えてみたらあれも、こうあるべきだと押しつけられた役割を演じていただけなのかもしれない。
モテたことのない僕なんかはつきあってる連中がうらやましかったけど、実際には、まわりの目に縛られて窮屈だったのかもな。
「私ね、自分じゃない自分の姿を押しつけられて責任を取らされるのが嫌だったの」
彼女のつぶやきは深い井戸の底に落ちた滴のように僕の心に澄んだ音を響かせた。
「だから、山でカズ君に『自分が自分じゃない自分にされてしまうのは嫌です』って言われた時にハッとしたの。おんなじことをしちゃってるんだなって」
ああ、そういうことだったのか。
状況は違っても、似たような気持ちだったんだ。
「だけど、だからこそ、カズ君なら、私のこと、分かってくれるって信じられたの」
――そうか。
今までつらかったんだろうね。
「カズ君と一緒にいるときは自分のままの自分でいられるような気がしたの」
お互いに引かれあい、相手のことを想い合っているのに、僕は彼女のことを何も知らなかったんだな。
美人というだけで勝手にモテると決めつけて、同じ悩みを持つ一人の人間だってことを考えもしなかったんだ。
それはとても失礼なことだよね。
――君に約束するよ。
もう自分を卑下したり、君にふさわしくないなんて勝手に判断するのはやめるよ。
逃げない。
ずっとそばにいる。
そばにいさせてほしい。
「手紙、大事にするよ。十年先も、二十年先も」
そんな僕のつぶやきに、はじけるように彼女が顔を上げた。
「だったら毎日書いちゃおうかな」
「それはうれしいけど、大変じゃない?」
「あんまり多いと飽きられちゃうか」
またうつむいてブランコを揺らす。
「そんなことはないよ。世界で一番大切な人からの手紙だから」
「せまいよ、君の世界」
彼女は瞬きをしながら僕に微笑みを向けてくれた。
「こんな僕でごめんね」
「どうして?」
「ずいぶん待たせちゃってさ」
「いいよ。私のために頑張ってくれたんだもん」
「ずっと自信がなくってさ。取り柄なんかないし」
「かっこいいじゃん」
「そんなわけないでしょ」
「見る目がないって?」と、彼女が軽くブランコをこぐ。「じゃあ、君が私に魔法をかけたんだよ。君のことが素敵に見える魔法、私を虜にする魔法を」
そして飛ぶように着地すると、彼女はかかとでくるりと振り向いた。
「私に魔法をかけるなんて、それだけでもたいしたものだよ」
僕も立ち上がろうとしたら、ブランコが膝裏に当たってよろけそうになってしまった。
彼女が口に手を当てて笑い出す。
「リフトの時もふらついてたよね」
ああ、そんなこともあったっけ。
いつの間にか共通の思い出がたまっていたんだな。
ここまでの時間は、二人並んで歩くための助走だったんだろう。
ぼんやりとそんなことを考えてふと顔を上げたら、息がかかりそうな距離に彼女の顔が合って思わず呼吸が止まりそうだった。
こ、これは……。
な、何の距離だよ。
頬を染めた彼女の唇に目が行ってしまう。
――いやいや、待てよ。
思い込みだろ。
まだ焦るなよ。
やっと気持ちが通じ合ったところなんだぞ。
おまえはいったい何をしようとしてるんだよ。
ついさっきまで、手を握るのだってためらっていたくせに。
平手打ちされて頬に真っ赤な手形のついた自分しか想像ができない。
「か、帰ろうか」
「うん、そうだね」と、何事もなかったかのような口調で彼女が空を見上げる。「雨も降りそうだし」
そうだよ、今はこれでいいんだ。
神社の木陰を出て、僕らは駅へ向かった。
さっきまで青空に輝いていた入道雲が、真っ黒に空を覆っていた。
◇
晴れてつきあうことになった僕たちだけど、学校では二人の関係をまだ内緒にしていた。
まわりの反応が予想できなかったし、中学の時の彼女の事情もある。
校内では席が隣とはいえ、これまでと変わらない態度で言葉を交わす程度にとどめていた。
僕もその方が気楽だった。
傘のことで先輩たちと揉めた事件も、上志津さんが適当にはぐらかしていたから、女子たちはたまたま僕が居合わせただけだと思ったみたいで、そのうち興味がそれたようだった。
放課後もいったん僕が図書館へ行き、部活へ行くみんなと別れた彼女と待ち合わせてから帰るというスタイルを続けていたから人目につくことはなかった。
でも、二人だけの秘密があるというのは、日常を鮮やかに彩る絵の具としてはそれだけで充分に印象的で、彼女のちょっとした仕草や、授業中人目に隠れて僕だけに見せるくだけた表情は、紛れもない宝物だった。
そんな僕らの関係は文部科学省に模範的男女交際として推薦されそうなほど清く正しく美しいものだった。
「男女交際の評価で大学に推薦してもらえないかな」と、彼女が笑う。
「そんな科目あるわけないじゃん」
「世の中甘くないか」と、耳が染まる。「私たちは甘いのにね」
まさかのダジャレに頭がフリーズしてしまう。
無反応の僕の脇腹に彼女の肘がねじ込まれる。
「もう、ちゃんとツッコんでくれないと恥ずかしいでしょ」
「だってお笑いコンビじゃないんだから」
「ええ、もう解散?」
「いや、それは勘弁してください」
勉強といえば、図書館で待ち合わせてそのまま課題をやってから帰る場合もあって、協力し合って問題を解いた時の達成感はいかにも青春といった楽しみだった。
夜は夜で、スマホにメッセージが送られてくる。
ある夜は砂が落ち始めたばかりの砂時計の写真だった。
《私たちの未来の形はまだこんな感じかな》
《そうだね。だけど、砂って、何回やっても円錐形になるよね》
《君が言うと、ロマンのかけらもないよね》
《いつも幸せの形は同じってことなのかも》
《それはロマンのクリーム盛りすぎ》
《甘すぎた?》
そこでメッセージは途切れてしまった。
なるほど、ツッコんでくれないと恥ずかしいな。
二人で保存した最初のメッセージ画面はあっという間に過去へと流されてしまっていたけど、さかのぼって初々しさを懐かしむ暇もないほど未来が積み重なっていた。
下駄箱のラブレターも毎朝配達される。
《甘すぎて寝落ちしちゃいました》
そんな一言だけど、それだけでその日一日が朝から輝き出す。
僕は彼女の魔法に魅了されていた。
魔法使いは僕じゃないよ。
だって、僕は最初から君の魔法の虜だったんだからね。
野村さんは僕らが付き合い始めたことに勘づいていたみたいだけど、席が離れていたせいか、上志津さんを取り巻く女子たちの輪から一歩距離をおいているようで、あえて噂を広めるようなことはしないでいてくれた。
「べつに邪魔するつもりはないし」と、僕への態度は相変わらず素っ気ない。
なのに、七月初めの席替えで窓側と廊下側で僕らの席が離れた時は、「残念だったね。今回はあたしも協力できないよ」と、わざわざ声をかけてくれたりした。
でもまあ、すでに気持ちの通じ合っていた僕らからしてみれば、教室の席の位置なんて障害にはならなかったし、親しくしすぎて気づかれる心配がなくなってむしろ都合が良かった。
左襟の合図もすっかりおなじみになったし、不意打ちのように送られてくるスマホのメッセージもなんてことのない日常に刺激を加えるスパイスだった。
そんなふうに僕らの時間は順調に流れていたけど、七月中旬の期末試験が近づいていた。
これが終われば夏休みと浮かれそうな反面、野村さんみたいに前回の成績がギリギリだった人たちは、挽回しないと補習が待っているから、教室はいつになくピリピリとした雰囲気に包まれていた。
準備期間中、前回同様上志津さんは図書館で女子グループの勉強会に参加していたから、僕は教室に残って復習に取り組んでいた。
どういうわけか、今回は野村さんも図書館へは行かず、教室に残っていた。
「ねえ、ショウワ君さ」
他の生徒がいなくなったのを見計らったのか、僕の前の席にまたがって座ると、背もたれに腕を置いて話しかけてきた。
「あたしに数学教えてくれないかな」
「まあ、いいけど、僕も教えられるほどできるわけじゃないよ」
「あたしよりましだからいいじゃん」
そうつぶやきながらプリントを取り出す。
なんだよ、まだ一問も解いてないじゃんか。
「部活で忙しかったんだからしょうがないでしょ」
口に出してないのに、思ったことがすべて読み取られてしまうのは困る。
「いつも協力してあげてるんだから、こういうときに愚痴ぐらい聞いてくれたっていいじゃん」
まあ、それくらいならお安いご用だ。
実際、野村さんとはあまり緊張しないで話せるようになっていたし、日頃の見守りに対する感謝の気持ちもある。
それになにしろ、僕は『協調性』が取り柄なのだ。
狭い机を分け合いながら最初の計算問題に取り組み始めた途端、予告通り愚痴が始まった。
「今回は頑張らないとまずいのよ。もし赤点だったら補習で夏休み中の部活に出られなくなっちゃうでしょ。そしたら試合にも呼ばれなくなっちゃうから、部活続ける意味までなくなっちゃうし」
「バスケ好きなんだね」
「まあね、他にも好きなものはあるけど」
他にも趣味があるのは知らなかったなと顔を上げたら、思い切りにらまれていた。
え、何?
「分かってるだろうけど、あたし、勉強する気はないからね」
どういうこと?
「晶保がいないところであんたが調子こいて浮気しないか監視するの」
「す、するわけないじゃんか」
「どうだか。女子慣れしてない男ほど、一度カノジョができると自信つけちゃって、反動でやらかしたりするもんじゃないの」
――ぐっ……。
思わず窓の外へと視線をそらすと、夏の日差しがまぶしすぎて視界が一瞬暗くなる。
やらかす可能性なんてないけど、ありそうで反論できないのが情けない。
「ねえ、ショウワ君さ」と、呼ばれて顔を向けると、野村さんが頬杖をつきながら僕を見つめていた。「あたしだったら?」
――え?
「あたしだったら、絶対にバレないようにしてあげるけど」
「な、何を?」
「だから、隠れてつきあうの」
いや、いやいや、なんで?
「ほら、いざというときに恥をかかないように、あたしでいろいろ練習してみればいいじゃん。ショウワ君、女子慣れしてないからすぐにテンパるでしょ」
全部バレてるし。
「もうキスくらいしたの?」
え、な、何言ってんの?
答えられずに顔が熱くなる。
それがそのまんまの答えと受け取られたらしい。
「だからさ、あたしと練習してみるとか」
のぞきこむように顔を近づけてくるから、僕は思わずのけぞった。
野村さんのささやきが僕を揺さぶる。
「練習だもん。本気じゃないんだし、回数なんかに入らないでしょ」
い、いやいや、だめでしょ。
そうやって僕を試そうとしてるんだろうけど、そんな罠には引っかからないよ。
「そんなことできないよ」
「なんでよ」
「だ、だってさ、もしも野村さんにカレシがいたとしてさ」
「なんで、いないって前提で話すのよ」
「あ、いたならゴメン」
「いないけど」
なんなのさ、これ。
「だから、あの……ええと、野村さんだって、カレシがそんな誘いを受けるような人だったら嫌でしょ」
「うん、やだね」と、僕をにらみつけた。「絶対に嫌」
「だ、だから、僕は……そんなことできないし、したくないよ」
「だろうね」と、つぶやいたきり、野村さんは黙ってしまった。
追及はうまくかわせたんだろうか。
元々そんなつもりなんかなかったんだし、もちろん後ろめたさとか、やましい気持ちなんかない。
そもそも上志津さんはモテたことのない僕に舞い降りた天使なんだぞ。
世界を変えてくれた彼女以上の人がいるわけないじゃんか。
考えてみれば、僕は上志津さんとは話せるけど、他の女子とはいまだに落ち着いてしゃべることができない。
それはある意味、よほど相性がいいっていうことなんじゃないだろうか。
自分で言うのは恥ずかしいけど、やっぱり僕らの出会いは運命で決まっていたんじゃないのかな。
だから、堂々としていればいいだけなんだよ。
どうしても弱気な自分が顔を出しそうになるけど、少しずつ直していくしかないだろうな。
淡々と計算問題を解き進める野村さんに僕はたずねた。
「でも、どうしてそんなこと言うの?」
「悪い?」と、シャーペンをカリカリ動かしながら答える。
「だって、友達なのに」
「晶保が?」と、ようやく顔を上げてくれた。「前にも言ったでしょ、友達じゃないよ」
はっきりとした口調で彼女は続けた。
「あたしはただ晶保を利用してるだけだよ。他のみんなもそうだよ」
オブラートで包むとか、隠すつもりもないらしい。
「女子ってさ、男子に人気のある女子はとりあえず持ち上げておこうとするものだからね」
なんで?
そんな疑問符が僕の顔に浮かんでいたらしい。
「だって、自分の好きな物の悪口を言われて喜ぶ人はいないでしょ。自分が聴いてる曲をけなされたり、自分が楽しみにしてるアニメを馬鹿にされて友達になろうと思う?」
まあ、それはないか。
「男子だってさ、自分たちが狙ってる女子の悪口をさ、『あの子裏ではヤバイから、あたしにしなよ』とか言ってくる女子がいたら、ウザいと思うだけじゃん。だからとりあえず持ち上げておくわけ」
なるほど。
あざといって思われたら致命傷だもんな。
「だからさ、気をつけな。晶保があんたとつきあってることがバレたら、まともな男子はそこで諦めるでしょ。そうしたら、女子の方も、晶保を持ち上げる意味がなくなるからね。今までみたいにお姫様じゃいられなくなるかもよ」
それはまさに上志津さんから聞いていた中学の時の話にそっくりだった。
まわりが勝手に崇めたてまつり、価値がなくなったと見なせば、一気におとしめる。
僕がその原因になるなんて考えてもみなかった。
「ちゃんと守ってあげられるの?」
覚悟はしてるつもりだけど、うまくいくかどうか、自信はない。
野村さんはそんな僕の弱さをえぐるようにたたみかけてきた。
「だからさ、あたしと仲良くしてるように見せかけておけば、晶保との関係をごまかせるんじゃない?」
「でも、やっぱり、それはできないよ。自分でなんとかするしかないさ。根本的な解決にはならないんだし」
なんとかそう答えると、野村さんは腕を前に突き出してそのまま背伸びをした。
「だめかあ。そういうところだよね。あたし、結構本気だったんだけどな。自分が間違ってなかったのがかえって悔しいよ」
はあ?
「登山合宿の時に、ショウワ君が女子の部屋に来たじゃん。あのとき、晶保の写真を撮りたいって言われて、『あたしじゃないんだ』ってガッカリしてたの、気がつかなかったでしょ」
「え、そうだったの?」
思わず正直に驚いてしまったのがいけなかったらしい。
プリントをクシャッとつかんで野村さんが立ち上がった。
「気づいてすらもらえなかった時点で、あたしの負け」
野村さんが鞄に荷物を放り込んでいると、彼女のスマホが急にうなりはじめた。
女子グループのメッセージが流れているらしく、僕に画面を突きつける。
「晶保が男子から呼び出されたってよ」
図書館で勉強しているところに声をかけた男子がいるらしい。
こうして画面を見ている最中にも、どんどんメッセージが流れていく。
《あの人、F組だよね》
《サッカー部》
《なんか別れたばかりだって》
《うそ、マジで?》
《手早っ》
《D組の真希がコクりたいって言ってたのに》
《恨み買いそうw》
《姫とじゃ勝ち目ないって》
《ひどっ》
この流れからすると、女子連中は上志津さんと僕がつきあっていることを本当に知らないようだ。
それに裏では本当に『姫』と呼ばれているらしい。
だけど、今はそんな情報分析をしてる場合じゃない。
「どうすんの、カレシ」
「行くよ」
即答した僕に、野村さんがため息をつく。
「行かないでよ」
「なんで?」
「泣くよ」
野村さんの頬が震え出す。
ちょ、えっ……。
ど、どうしたらいいんだよ。
なんでこんなことになっちゃったんだろう。
でも、僕にできることなんて何もない。
もたもたしていると、肩をつつかれた。
「もう、何してんのよ」と、野村さんの目に涙が浮かんでいる。「早く行きなよ。泣くよ」
どっちなんだよ。
どっちも同じなのに正解が分からない。
こらえきれなくなった彼女が目を閉じ、涙がこぼれ落ちた。
「ゴメン」
僕は荷物をまとめて図書館へ向かって教室を飛び出していた。
いや、逃げたんだ。
僕は何も変わってなんかいない。
変われるわけがない。
今の僕にはこの状況は荷が重すぎる。
頭の中でお経のようにゴメンゴメンと何度も繰り返しながら僕は階段を駆け上がった。
と、うまいぐあいに図書館に通じる渡り廊下まできたところで、鞄を持った上志津さんと出会えた。
中まで探しに行ってたらみんなに見られていただろうから、ちょうど良かった。
「あ、カズ君」
思ったよりも表情に動揺は見られない。
「大丈夫だった?」
「え、どうして……」
僕が知っていたことに驚いているようだった。
「野村さんに聞いたんだ。サッカー部の人に呼び出されたって」
「あ、うん、そうなんだけどね」と、彼女が体をよじりながらうつむく。「土曜日の花火大会に行こうって誘われたの」
地元の笹倉花火大会は毎年十万人以上の集客を誇る県内でも有数の大規模イベントだ。
だけど、今度の土曜日は試験期間に入ってからの中休みだ。
クラスのみんなも行きたがっていたけど、勉強しなくちゃならないのはもちろんだし、赤点候補の連中の目もあって遠慮がちな雰囲気ができあがっていた。
だから、他のクラスから誘う男子が現れるとは予想外だった。
「もちろん、断ったよ。他に好きな人がいるからってはっきりと」
「あ……ありがとう」
その返事で合っているのかは自分でもよく分からなかったけど、とっさに左襟をつかんでいたせいか、彼女の表情も和らいだようだった。
「今までみたいにあやふやにごまかすんじゃなくて、本当に好きな人がいるから自信を持ってちゃんと断れたよ。おかげで、あんまり気も重くならなかったし。私の方がありがとうだよ」
それがいいことなのかどうかはよく分からないけど、僕は何もしてないのにお役に立てたのなら何よりだ。
「でも、カズ君が迎えに来てくれてびっくりしたよ」
「野村さんに行けって言われてさ」と、僕は半分嘘をついた。
「さすが、頼りになるカレシだね」
「出番はなかったみたいだけど」
「ううん。来てくれて嬉しかったよ。もう勉強はいいから、一緒に帰ろうよ」
僕らは並んで昇降口へ向かった。
試験準備期間中で部活は休みだから校庭は空っぽで、蝉の声が賑やかだった。
頭を押さえつけるような日差しに照らされてアスファルトが揺らいでいる。
学校を出ていつものように人通りの少ない脇道を歩きながら、僕は野村さんから聞いた話を伝えた。
人気者を利用している女子の思惑、僕らの関係が明るみに出たときに予想される反応、そして、野村さん自身がそれを言っていたことなどだ。
ただ、泣かれたことだけは隠しておいた。
「知ってたよ、私も」
思いがけずサバサバとした反応だった。
「中学の時に思い知ったもん。裏切られた時は悲しかったけどね。だけど、梨奈みたいにはっきりさせてくれた方が意外と楽だよ。実際、腹の探り合いみたいなことってあるから疲れちゃうよね」
それにね、と彼女は鞄を後ろ手に持ち直して肩を左右にゆったりと揺らしながら笑みを浮かべた。
「私ね、梨奈のことは友達だと思ってるよ。むしろ、友達だからそういう裏のこともカズ君に話したんじゃないかな」
「つまり、僕がこうしてバラしちゃうことも想定していたってこと?」
「たぶんね」
ヤバい、見事に乗せられて、狙い通りに動いてたってことか。
『調子に乗るんじゃないよ、少年』
野村さんのにらみ顔が思い浮かんでしまった。
だからといって、泣いたことまでは明かしてしまっていいわけじゃないんだろう。
それが正解なのかどうかは分からないけど、結局、僕はしゃべらなかった。
「でも、分かってはいても、さすがになんか疲れちゃったね。人を好きになるのって、もっと簡単なことだと思ってたのにな」
そうつぶやいた彼女が慌てたように顔の前で手を振った。
「あ、違うの。言い方悪くてごめんね。カズ君は何も悪くないよ。むしろ感謝してるんだからね」
昔のこともあるし、僕が野村さんに対して感じたのと同じように、上志津さんだって他の男子に恨まれずに断るのは気をつかうだろう。
割り切っているようなそぶりを見せても、やっぱり落ち込んでるんだろうな。
本当は僕が盾や杖になるべきなのに、全部彼女に任せてしまっているのがいけないんだ。
「あ、あのさ……」
「何?」
「こんな流れで言いにくいけど、よかったら僕と一緒に花火を見に行きませんか」
花火大会は土曜日で、勉強は日曜日にやればいい。
ふだんちゃんと頑張ってるんだし、息抜きだって必要だ。
「うん、うん、行こうよ。絶対だよ。誘ってくれて嬉しいよ」
大きく目を見開いて何度もうなずくと、彼女はいきなり僕の腕に絡みついてきた。
うわお。
でもそれは、腕を組んで歩くというよりも、警察に連行される容疑者みたいで、引っ張られるように体が傾いてものすごく歩きにくかった。
おまけにブラウスの袖ごしに伝わる君の熱が僕の心臓に火をつけたせいで、脇汗がしたたりそうだった。
汗対策に中にTシャツを着てても何の役にも立っていなかった。
駅前に出る頃には人目を気にして離れたけど、腕を組んで歩くってこんなに大変なことだったんだな。
また一つ、君に教えられたよ。
「家に帰ったらさっそく勉強頑張らなくちゃね」
そう言って手を振りながら彼女は駅の階段を上っていった。
実際のところは何もできずに固まっていただけだったけど、はしゃぐ彼女を受け止められたのは僕にとって大きな一歩だった。
花火大会ではもう一歩前に進めるだろうか。
今の僕には、それもまた楽しみな試練だった。
◇
その夜、スマホに奇妙なメッセージが送られてきた。
《つらいよ》
――ん、なんだこれ?
《どうしたの?》
《苦しいよ》
《大丈夫?》
助けを求めているような内容に驚いて返信してみたものの、それ以上の返事は来なかった。
続きが気になったけど、いったん風呂に入ったりして少したってからスマホを見たら、不思議なことにそのメッセージはどこにも残っていなかった。
僕の知らない削除機能があったのかなと思ったところで、そもそも誰のメッセージだったのか、確かめておかなかったことに気がついた。
ロック画面に出てきたのを、内容が内容だけにあわててタップして開いたわけだけど、ふだん他の人とやりとりをしたことがないから、てっきり上志津さんだと思い込んでいたのだ。
だけど、あらためて僕らの画面を開いてみたら、そんなメッセージはなかったし、グループの方にもないようだった。
いわゆる誤爆というやつで、気づいた誰かが消したんだろうか。
スマホの使い方に慣れていない僕にはどちらにしろ分からないことだったし、上志津さんからはちゃんと、《花火大会楽しみだね》《勉強頑張ったよ》と、別のメッセージが届いていたから、その時はそれ以上気にせず忘れてしまっていた。
◇
翌朝、駅前広場で電車通学の集団と合流した時に、ちょうど階段を下りてきた野村さんと鉢合わせしてしまった。
「うわ、サイアク」
いきなりひどいあいさつだけど、何だか野村さんらしくて笑ってしまった。
そんな僕を見て彼女もどうやら安心してくれたらしい。
昨日あんなことがあって気まずかっただろうに、吹っ切れたような態度で接してくれた。
「なんか、あたしが待ち伏せしたみたいに思ってない?」
「いや、そんなことはないよ」
「偶然だからね。勘違いしないでよ」
はいはい、こっちだってタイミングを見計らってたとか勘違いしてほしくないし。
「なんか、でも、かえって良かったかも」
「なんで?」
「昨日のこと、話そうと思ってたんだけど、どう言い出したものかさ、ずっと考えてたのよ」
ああ、そうなのか。
「昨日、あんなの見せちゃってドン引きしてるだろうけどさ、べつになかったことにしてくれとか言わないから」
正直なところ、僕としてはなかったことにできるならそうしてくれた方がありがたい。
気まずさという点では、僕だって野村さんと変わらないんだ。
「あと、好きなのバレちゃったでしょ。でも、邪魔するつもりもないし、あと、なんか上から目線でかわいそうとか思われるのもやだからね」
「そんなふうには思ってないよ」
考えてもみなかったから、それは自信を持ってはっきりと答えられた。
でも、あらためてあっさりと『好き』と言われて僕の方が動揺していた。
学校へ通じる道を歩いていくと、いくらか軽口もはさまれるようになっていた。
「誘惑したらワンチャンあるかなんて期待してたんだけどね」
僕がヘタレなせいで、セーフだったんだよな。
危ないところだったよ。
「あたしさ、ショウワ君のこと見習わなくちゃって思ってね」
「どんなところ?」
「次にね、いい人見つけたら、先にどんどんアピールしちゃおうって」
ああ、そういうことか。
あの登山合宿で、もしかしたら運命がねじれてた可能性だってあるわけだ。
僕がトランプで勝っていたら、写真を撮る罰ゲームの相手が上志津さんでなかったら、他にも、頂上で上志津さんに僕からちゃんと声をかけにいかなかったら、今頃違う世界を見ていたかもしれないんだよな。
必死すぎて気づいていなかったけど、結果として僕がチャンスを逃さなかったってことになるんだろうな。
「それにさ、ショウワ君だけじゃなくて、晶保だって自分に巡ってきたチャンスに自分から手を伸ばしてつかんだんだよね」
その観点はなかったな。
でもたしかに、目の前の山に登ろうと誘ってくれたのは上志津さんだったんだっけ。
やっぱり僕だけじゃないんだ。
上志津さんだって頑張ってくれていたんだな。
登山合宿の思い出がよみがえると胸が熱くなる。
だけど、ついこの間のことなのに、それからの出来事が多すぎて、僕の中ではもうずいぶん遠い記憶になりつつある。
野村さんがうつむきながらつぶやいた。
「あたしだって、ショウワ君のこと結構早くから見てたのに声をかけていいのかどうか迷っちゃってさ。その差だよね」
「見てたって、何を?」
僕の問いかけに顔を上げた野村さんは向日葵みたいな笑顔だった。
「目立たないところでいいことしてたじゃん。いつだったかさ、校門の前で子供の靴が落ちてるのを拾って自転車のお母さん追いかけてたでしょ」
ああ、そういえば、入学してすぐのころに、そんなことがあったな。
後ろに幼稚園の子供を乗せた自転車がずいぶん先の方まで行っちゃってたから、結局駅の方まで走って信号で追いついたんだっけ。
「見ててキュンとさせられちゃったよ。もしかして、自覚なし?」
まあ、目立たないってところは自覚あるけど、キュンとは無縁だと思うけどな。
たぶん、いつもうつむいてばかりいたから落ちているものに自然と目が行ってたんだと思う。
そういえば、登山合宿の時に上志津さんが、僕のことを褒めてる女子がいたって言ってたけど、あれは野村さんだったのか。
「僕はそんなに中身のたいした人間じゃないよ」
「ああ、君ね、勘違いしてるよ」と、野村さんが僕をまっすぐ指さした。「あたしが好きなのはね、顔」
はあ?
「冗談でしょ」
「見る目がないって?」と、上志津さんみたいに詰め寄られた。「そりゃさ、分かりやすいイケメンじゃないけど、あたしの好みなの。女子がみんなアイドルみたいな男子ばっかり追いかけると思ったら大間違いだぞ。男子だって、全員が晶保のことを好きとは限らないでしょ。あたしにはあたしの好みがあるの」
外見のことで褒められたことがないから、背中に毛虫を入れられたみたいになんかむずがゆくて落ち着かない。
昇降口まで来たところで、野村さんが僕に耳打ちした。
「ねえ、ちょっとは落ち込んで強がってるんだからさ。少しは優しくしてよ。ほんのちょっぴりでいいから」
さすがに冗談なのかどうかの判断がつかない。
「晶保には内緒にしておくよ」
たたみかけられて身動きできない僕を見て、それが返事だと受け取ったんだろう。
先に靴を履き替えた野村さんは僕に背中を見せながら手を振った。
「一緒にいて晶保に誤解されたくないから先行くね。じゃあね」
もしかしたら、昨夜の奇妙なメールは野村さんだったんじゃないのかな。
でも、もう消えてしまったものを今さらほじくり返しても意味がないし、こんなに前向きな野村さんの傷に塩を塗り込むのは失礼だから、聞かないでおくことにした。
協調性の発動だ。
下駄箱を開けた僕は、上履きの上に置かれた手紙を手に取った。
いつもと同じ薄紫の封筒に見慣れた便箋。
『あんまり多いと飽きられちゃうか』なんて言われた時は、『そんなことはないよ』と即答したのに、たしかに最初に受け取った時のような感動は薄まってきている。
慣れっていうのは恐ろしいものだ。
もしかして、昨日じゃなくて、今日だったら、野村さんの誘いを受けてしまっていたかもなんて、そんなもしもの分岐を思い浮かべたりして頬が緩んでしまう。
だけど、今朝の手紙は中身がまったく違っていた。
《君がいなくなってしまってから、私はずっと抜け殻のように生きてきました》
――え?
どういうこと?
ゆるんでいた頬が引きつって、思わず口の中を噛んでしまった。
封筒や便箋はいつもと同じだし、藍色のインクで書かれた文字は上志津さんのものだ。
最後には《晶保》と署名もある。
いったいどういうことなんだろう。
字を真似した誰かのイタズラにしてはずいぶんと上手だし、上志津さん本人が書いたにしてはまるで意味が通じない。
口の中にじんわりと血の味が広がる。
――君がいなくなる。
僕が?
いなくなるって?
いや、ここにいるけど。
「おう、森崎、何してんだ」と、池田が隣に立っていた。
「あ、いや、おはよう」
クラスの他の連中も登校してきてしまったので、僕は下駄箱の中に手紙を隠して、とりあえず教室へ向かうことにした。
◇
教室では野村さんと上志津さんが話をしていた。
お互いの腹の内が明らかになったにもかかわらず、逆に、明らかになって腹を割って話せるということなのか、表面的には和やかな雰囲気に見えた。
手紙についてたずねたかったけど、現物は下駄箱に置いてきてしまったし、どう切り出したものかも分からず、結局確かめることはできなかった。
しかも奇妙なことに、放課後帰る時に下駄箱を見たら、手紙はなくなっていた。
僕がニセモノと見抜いて放置したから、誰かが回収したんだろうか。
それにしても、封筒やインクの色まで同じというのは気味が悪い。
その夜、上志津さんから一度だけメッセージが来た。
《いよいよ明日から試験だね。花火見に行けるように頑張るから、今日はこれでゴメンね》
いつもと変わらない調子だ。
――抜け殻のように生きてきました。
そんな手紙を書くようには思えない。
もしかしたら、野村さんだろうか。
僕にフラれたことを詩的に表現したとか。
いや、でも、僕と一緒に駅から歩いてきたんだから、手紙なんか入れるタイミングはなかったはずだ。
昨日のうちに入れていたとか?
それだと、今朝の話の様子と矛盾している。
それに、文面そのものがおかしい。
『君がいなくなってしまってから、私はずっと抜け殻のように生きてきました』
これだと、僕がいなくなってずいぶんと長い時間が過ぎたような言い方じゃないか。
昨日今日のことではないようだ。
僕と上志津さんの仲を壊そうとするイタズラだと考えるにしても、やはりどこか奇妙な文章だ。
レターセットまでそろえるくらい用意周到なら、もっとわかりやすい文面にするのが自然だろう。
そういえば、スマホの不思議なメッセージもなんだったんだろうか。
考えれば考えるほど頭が空回りしてしまう。
試験準備でこれ以上頭を疲れさせたくなかったから、僕はいったん手紙の件はおいておくことにした。
上志津さんも頑張ってるんだ。
僕も勉強しないとな。
花火大会の日に残りの試験科目の心配なんかしてたら楽しめないもんな。
といいつつ、実際のところ、当日の妄想シミュレーションばかりふくらみすぎて、勉強はちっとも進まなかったんだけどね。
◇
試験初日と二日目はなんとか無事に通過して、いよいよ花火大会の土曜日がやってきた。
前日の晩のメッセージはかなり前のめりだった。
《早く寝なくちゃね》
――いやいや、花火は夜だから。
《早起きしてもしょうがないじゃん》
《だって、起きてたら楽しみすぎて眠れなくなっちゃうもん》
そんなに喜んでくれているんだと感動していたら、ポコンとメッセージがついた。
《カズ君はまだ勉強するの?》
《できるだけやっておこうかな》
《エライ!》
お褒めにあずかり光栄ですよ。
《でもカズ君も早く寝てね。おやすみなさい》
と言いつつ結局、僕も勉強しているうちに寝落ちして、しかも、起きたのが昼過ぎだった。
緊張しているのか、僕らしいのか、我ながらあきれてしまった。
花火大会の会場は『ふるさと広場』と呼ばれる川沿いの公園で、駅からはシャトルバスが出ているけど、毎年、周辺道路の渋滞がひどくて歩く方が早いと言われている。
花火の開始は七時からだったけど、見る場所を探すために時間の余裕を持たせた方がいいかと、五時に駅前で待ち合わせることになっていた。
家を出た頃には、ふだんはさびれた地元の商店街も人出が多く、駅前へ続く道ですら渋滞でまったく車が動いていなかった。
それでもまだ約束より二十分くらい早く駅前に着いたら、階段下にもう上志津さんが立っていてびっくりしてしまった。
彼女は薄紫地に同系色の朝顔柄の浴衣を着ていて、編み込みというのか、長い髪を上げて大ぶりな花飾りでまとめていた。
ポロシャツにジーンズで来てしまった僕はどうしたらいいのか一瞬足がすくんでしまったけど、会場へ向かう男性客たちが上志津さんをじろじろと眺めていくので、迷っている場合ではなかった。
「やあ、早かったね」
「あ、カズ君、浴衣どう?」
彼女は僕の目の前でくるりと回転して背中を見せてくれた。
上げ髪のうなじに目が吸い寄せられる。
男子的視線で見てしまった恥ずかしさをごまかそうと、いつもは引っ込めてしまう褒め言葉がするっと出た。
「いいよ。すごく似合うと思うよ」
「ホント?」と、正面に向き直った彼女が袖を広げた。「良かった。でもこれね、お母さんのお下がりなの」
「え、そうなの?」
「ちょっと落ち着いた色合いでしょ」
言われてみれば、まわりにいる中高生くらいの女の子が着ている浴衣とは、素材が違うらしい。
帯も、安っぽくなくてどこかちゃんとしている感じだ。
お下がりと謙遜しているけど、僕でも分かるくらいきちんと着こなせているからこそ、人目を引くほどの艶やかさを醸し出しているんだろう。
「買いに行く暇がなかったからしょうがないかなって」
「まさか浴衣を着てくるとは思ってなかったよ」
「えへへ」と、いたずらっ子のようにチラリと舌をのぞかせる。「びっくりさせようと思って」
「ごめんね、僕なんか普段着で」
「急だったし、しょうがないよ」
正直なところ、ファッションセンスのかけらもない僕だから、高校の制服でなかっただけでも褒めてほしいくらいなんだけどね。
「ねえ、どこに行って見ようか」
「うん、いくつか考えてはあるんだけどね」
陰キャな僕は今までこういったイベントのときには出歩かないようにしていたけど、地元だから土地勘はある。
とりあえず、僕らは駅前から会場へ向かって歩き始めた。
僕らは人混みではぐれないように手をつないでいた。
ふるさと広場へ続く道沿いには屋台も並んでいて、焼きそばのソースや綿飴の甘ったるい香りがごっちゃになってまとわりつくせいで、いきなり頭がぼんやりしてしまった。
「何か買おうか?」
この日のために、お年玉貯金からまとまったお金を下ろしてきたのだ。
どうせ夏休み中にも、いろいろ必要だと思ったからだ。
「まだおなかはすかないかな」
曖昧に言葉を濁すけど、遠慮しているわけでもないようだった。
「先に場所を確認してからでもいいかも」
「足元は平気?」
「あ、うん、大丈夫よ」と、裾を少しだけ上げて見せてくれた。「これね、和風のサンダルなの。鼻緒にクッションが入ってて痛くないし、歩きやすいんだよ」
「へえ、今はそんなのがあるのか。便利だね」
「なんかオジサンみたいな感想」
そう言って笑った彼女が僕の手を引いて先に行く。
「でも、心配してくれてありがとう」
人混みを縫うように歩くのは難しいけど、少しくらいはしゃいでいてもお祭りだからしかたがないかと思った、その時だった。
彼女の後ろ姿に違和感を感じた。
さっきまでは気づかなかった何かが引っかかる。
――あっ……。
違和感の正体に気づいた僕は、赤信号で立ち止まった彼女の耳元に口を寄せてささやいた。
「ねえ、浴衣に血がついてない?」
ハッとした表情の彼女がお尻を見ようと体をひねる。
「見えないけど、もしかして、ついてる?」
今度は僕が彼女の手を引いて脇道の人がいないところまで誘導した。
確かめると、さっきよりも赤い染みが大きくなっていた。
「さっきは赤い模様なんかついてなかったよね」
「うん」と、彼女が力なくうなだれる。「ごめん、カズ君、生理になっちゃったみたい」
僕にとっては学校の保健で習った知識しかない現象だった。
「ど、どうしたらいいのかな」
「困っちゃったな。まさか来ると思わなかったから、用意してないの」
彼女の持ち物は小さな巾着だけだった。
とりあえず生理用品というやつが必要なんだろう。
「コンビニとかに行けばいいのかな?」
「この辺にある?」
地元だけあってお店の場所はすぐに思い浮かんだ。
「すぐそこにドラッグストアがあるよ。歩ける?」
「うん、大丈夫」
僕らは会場へ向かう人の流れから外れてドラッグストアへ向かった。
「実はね、さっきから少しおなかが痛かったの」
だから食べ物を買おうかと聞いたときに乗り気じゃなかったのか。
帯を締めているからよけいに苦しかったのかもしれない。
なんでその時に気づいてあげられなかったんだろう。
いくら女子慣れしてないからって、相手の体調くらい顔色や様子を見れば分かるだろうに。
無理にはしゃいでいたことを見抜けなかったなんて。
自分の情けなさに腹が立ってしかたがなかった。
お店の前に来たものの、なぜか彼女は立ち止まってしまった。
「どうしよう。帯を解いちゃったら、私、着付けできない」
ええと、それはどうしたらいいんだろうか。
頭の中でハムスターが顔を出す。
――いや、おまえの出番じゃない。
空回りしかけた思考を強制的に遮断する。
「とりあえず必要な物を買おう」
「うん」
彼女はお店に入って女性向けの商品が並ぶ棚へ向かった。
ふだんは見る機会のない品物ばかりが並んでいる。
生理用ナプキンを手に取った彼女が恥ずかしそうに固まってしまった。
もしかして……。
口にするのは迷いがあったけど、一刻を争う場面で羞恥心なんかどうでも良かった。
嫌われたっていいじゃないか。
彼女のためなんだ。
「下着は?」
「あ、うん、一応はいてるけど」
僕は棚を瞬時に見回した。
「これ、生理用ショーツっていうのも必要?」
「う、うん、あった方が安心かも」
「サイズは?」
失礼とか、デリカシーとか、そんなものを気にしてる場合じゃない。
今は緊急事態なんだ。
「え、ええと、これ……かな」と、彼女が一つ手に取った。
「あとは……そうだ」
僕は一つ裏の棚に回ってざっと全体を眺めた。
――あった。
「ねえ、スウェット売ってるから、これに着替えなよ」
オシャレさゼロのネズミみたいなスウェットだけど、ここでは他に選択肢がないし、かといって、どこかまだ開いてる服屋さんを探す余裕はない。
「トイレで着替えられるかな?」と、僕はまっすぐ彼女を見つめてたずねた。「帯を解くことはできるんでしょ?」
「うん、なんとかなると思う」
僕は品物を持ってレジに会計をしに行った。
浴衣を入れる袋ももらって彼女に渡す。
「ありがとう。行ってくるね」
「焦らなくて大丈夫だよ」
お店の入り口脇にあるトイレに彼女を見送ったところで、僕は口をすぼめて細く長く息をついた。
膝が震えている。
全然違う用途になったけど、お金を用意してきておいて良かった。
うまくいったかどうかは分からない。
女子にしてみれば男子には知られたくない秘密だったかもしれない。
深くよけいなことをしすぎて嫌われたとしても、今は自分を褒めてやろう。
正解なんて分からないんだ。
だけど膝の震えはまだ止まらなかった。
かなり時間がたって、見に行くわけにもいかないからお店の人にでも事情を話して頼んでみようかと思った頃に、ようやく上志津さんが姿を現した。
「お待たせ。ごめんね」
思った通り、近所のコンビニに買い物に行くのですらアウトなんじゃないかといったスウェット姿だったけど、着ている人のおかげでかろうじてセーフの判定だった。
そんな僕の表情から察したのか、彼女が浴衣の入った袋を持ったまま腕を広げた。
「意外と着心地いいよ。生地も夏用みたいだし。それにね……」
くるりと回ってお尻を突き出す。
「こっちはばっちりだよ。もう安心」
さすがにじろじろ見るわけにもいかず、曖昧にうなずき返すしかなかった。
ただ、そんなことよりも、彼女の顔色が気になった。
「顔色悪いよ。おなかとか、痛いんじゃない?」
「う、うん、大丈夫……だよ」
額に変な汗も浮いていて、強がっているのは明らかだった。
体育を休む人もいると聞いたこともある。
「無理しちゃダメだよ。今日は帰った方がいいよ」
「でも、せっかく楽しみにしてたのに」
「またどこか行けばいいよ。来年もあるし」
未来の約束に安心してくれたのか、こわばっていた頬が少し緩んだようだった。
「そっか。来年もあるか。ごめんね、急で」
「いいんだよ。謝ることじゃないよ」
ドラッグストアを出て、人の流れと反対に住宅街の路地を駅へ向かう。
六時近くでも七月はまだ明るい。
彼女がぽつりと本音をこぼした。
「さっき見たらね、思ったよりもけっこう多かったの」
「え、あ……ああ」
血のことらしい。
「だけどね、カズ君がしっかり頑張ってくれたから嬉しかったよ」
「いや、どうしたらいいか、全然分からなかったけどね。パニックだったよ」
「ううん、完璧だよ。自慢のカレシだもん」
――それは良かった。
実際、僕は彼女に嫌われるとばかり覚悟していたから、少し安心した。
彼女がほんのり色の濃くなってきた空を見上げながら口をとがらせる。
「せっかくの花火大会だったのに、いつもより一週間も早く生理になるなんて、ついてないな」
「そういう場合もあるんだね」
僕には分からないことだった。
「ないわけじゃないらしいんだけど、なんだろうね。はしゃぎすぎちゃったのかな」
「まあ、それはあるかも」
「バチが当たっちゃったかな」と、涙声の彼女が肩を落とす。
「それはないよ。何も悪くないんだから」
こんなときの励まし方はまったく思いつかない。
自分のふがいなさに打ちのめされて、気がついたら手をつなぐこともないまましばらく無言が続くうちに駅に着いてしまった。
会場へ向かう人はますます増えていて、僕らは駅前広場の反対側へまわってスペースに余裕があるところで立ち話をした。
「せっかく誘ってくれたのに見られなくなっちゃってごめんね」
「いいよ、気にしないで。来年もあるし、ほら、どこか別の所にも行けばいいさ」
「それもいいね」と、ほんの少し表情が和らぐ。「このスウェット、パジャマにするね」
「無理に着なくていいよ。安物なんだから」
「こういうの、おばさんになってもきっと似合うよね」
「お母さんたちって、中学のジャージとかいまだに着てるのとか多くない?」
「カズ君のとこも?」と、ようやく満面の笑顔がもどってきた。「うちも、そう」
「頑丈だよね。素材とか、いいやつ使ってるんだろうね」
彼女はお母さんに連絡を取って、成山駅に迎えに来る時間を早めてもらっていた。
「僕も成山まで送っていくよ」
「え、いいよ。もう一人でも大丈夫よ」
ネズミ風スウェット姿で一人で電車に乗せるのは申し訳ない気がしたからなんだけど、それは言わないでおいた。
「もう少し話したいから」
「そっか。じゃあ、お願いします」
下り方面の電車は笹倉駅で花火目当ての人が全員降りて、乗客は僕らだけだった。
「さすがに、始まる前に帰る人はいないもんね」
ロングシートに並んで座り、過ぎゆく車窓の風景に名残惜しそうに目をやりながらそうつぶやくと、彼女は僕の左肩に頭を乗せてきた。
イケメンならここで肩に手を回すところなんだろうけど、僕は地蔵のように固まってしまい、腕をピンと張って膝の上にお行儀良く手を置いていた。
電車が加速してゆるいカーブを抜けていく。
心地良い揺れに体を預け、線路が刻むリズムに耳を傾けていると、彼女が膝の上の僕の手に自分の手を重ねてきた。
「ねえ、目を閉じて」
――ん?
言われたとおりに目を閉じると、彼女がささやく。
「ねえ、花火の音、聞こえる?」
いや、電車の音しかしないけど……。
会場からはずいぶん遠ざかったし。
と、正直に言いかけて気がついた。
「聞こえるよ」
「ホントに?」
「ああ」
僕らだけの花火大会が始まっていたんだね。
――ヒューン……ドーン。
パラパラパラ……。
目を閉じた心の中で、色鮮やかな大輪の菊や牡丹が天空を彩る。
「うふふ、聞こえるね」
「うん、見えるよ」
天の川を渡って出会えた織り姫と彦星のように僕らの心は一つに重なり、色彩が幾重にも散らばる万華鏡の世界に僕らは浮かんでいた。
僕に寄り添う空想の彼女が口を開く。
「え、何?」
想像の夜空に次々と打ち上げられていく大玉のとどろきでお互いの言葉がかき消されてしまう。
心の中で彼女の口が再びゆっくりと大きく動いた。
――ダ・イ・ス・キ。
聞こえないけど、君の声は僕の目に刻みつけられたよ。
それに、僕の返事も君に届いていたね。
花火もかすむ君の笑顔が僕の心いっぱいに広がっていたからね。
……。
――ん?
いつの間にか肩が軽くなっていた。
左頬に何かが軽く触れたような気がした。
目を開けて顔を向けると、横で彼女が真っ赤に沸騰した顔で僕を見つめていた。
え、もしかして、今……。
「な、何もしてないから」
怒ったようにそう言うと、口をとがらせた彼女は自分の膝の上に手を置いてうつむいてしまった。
電車が成山駅に到着した。
二人でホームに降りると、フェンスの向こうに駅前広場が見えた。
「あ、うちの車来てる」
セダンというタイプのグレーの車らしい。
改札を抜けて階段を下りると、車の運転席から女性が出てきた。
顔を見た瞬間、上志津さんの母親だと分かった。
髪型とかは違うけど、ほぼ瓜二つと言っていい。
「森崎さん、どうも、晶保の母です。ご迷惑かけてすみません。付き添ってくれてありがとうございました」
何度も頭を下げられて、僕も合わせて頭を下げるばかりだった。
「あ、いえ、連れてくるだけで精一杯で何もしてあげられなくて」
「そんなことないわよ。でも、会えて良かったわ」
「はあ……」
「晶保ね、毎日学校に行くのが楽しくてしょうがないって言ってるの。カズ君のおかげね。あらやだ、私までカズ君って言っちゃった。もう、毎日お名前聞かされてるから」
いったい、どんな話をされてるんだろうか。
「もう、お母さん、いいから」と、上志津さんがお母さんの袖を引いて車に向かおうとする。
「あら、そのスウェット素敵じゃない」と、お母さんは逆に彼女を引き留めた。
「いや、あの、それしか売ってなかったんです」
「一生懸命頑張ってくれて本当にありがとうございました。家で寝てれば落ち着きますから、心配なさらないでね」
車に乗り込むと彼女が窓を開けて手を振ってくれた。
「いろいろありがとう」
「うん、ゆっくり休んでね」
「また、どこか行こうね」
「その前に試験があるよ」
「ああ、もう、考えないようにしてたのに」
左襟に触ろうとして、襟がないことに気づいたらしい。
言葉とは裏腹に彼女は笑顔だった。
「じゃあ、また来週、学校で」と、僕はポロシャツの左襟をつまんだ。
「うん、またね」
走り去る車に向かって手を振って僕は成山駅の階段を上った。
ふう。
上り方面の電車にはこれから花火大会へ向かう人もまだ多いようで、シートはほとんど埋まっていた。
僕はドアのところに立って、ようやく暗くなった窓の外を眺めていた。
電車に揺られながら今日あった出来事を思い返す。
ああすれば良かった、こうした方が良かったのかもと反省点ばかりが思い浮かぶけど、ふと暗い窓に映った僕は笑顔だった。
こんな遠回りですら愛おしい。
ここまで来るのだって、ずいぶん待たせてしまったんだもんね。
大丈夫。
僕らはうまくやっていける。
何でも乗り越えていけるんだ。
左頬に感じたあの感触は、たぶん夢じゃなかったんだよな。