第99話 災厄
焔鬼は、誰の返答も期待していなかった。
ただ、静かに、ゆるやかに言葉を紡ぐ。
「――遊戯者となり、数百年。されど……このような“祭”は、ついぞ見ぬものよ」
声に込められた熱は、感情ではなかった。
それは、ただ“存在”に染みついた温度。かつての時代、血の上に咲いた業火の記憶がそのまま音になったような、そんな響き。
「長き眠りより目覚めてみれば、すっかり様変わりしておる。下々の者どもに聞くよりも――主ら、遊戯者に尋ねた方がよかろうて」
その視線が、再び彼らを貫いた。
伊庭、中野、リィド、二階堂――血に塗れた四人の戦士たち。
誰もが立てず、声も上げられず、それでも焔鬼の目を逃れようとはしなかった。
焔鬼は、その姿にわずかに口元を歪めた。
それは讃える笑みだったのか、あるいは興味本位の歪な慈悲だったのか――誰にも分からない。
そして、焔鬼の声が少しだけ低くなる。
「……だが、まずは――“慟哭の剣”よな」
言いながら、焔鬼はゆっくりと踵を返す。
その視線が、高台の上――ぬらりひょんへと向けられた。
重々しくも、軽やかに。
焔鬼は、すっと一歩、ぬらりひょんの方へ踏み出す。
「動かず、待っておれ。……その爺から剣を取り出してくれようぞ」
まるで、それが当然の礼儀であるかのように。
ぬらりひょんは、一瞬、眉を動かした。
その目は細められたまま、口元の笑みは凍りついていた。
高台の風が、静かに羽織の裾をなびかせる。
「……ほう。やはり、それが目当てでございましたか」
乾いた声が、唇の奥から漏れる。
焔鬼は応えない。
ただ、再び、静かに一歩踏み出す。
その歩みに合わせて、周囲の霧が揺れた。
その中央に立つ“鬼”が、何を求め、何を語るのか――
その次の一言が、夜の運命を決するものになることを、誰もが感じていた。
「そう容易く、手に入るとお思いですかな?」
ぬらりひょんは扇子をゆるりと開きながら、焔鬼を見下ろす。
「なに、我が妖どもは――数が減れば減るほど、力を増す性質でしてな」
その声音に、嘲りとも賞賛ともつかぬ含みが宿る。
「さて……お強いお侍様は、いったい、どこまで戦い続けられますかな?」
口元には微笑み。だがその目は、決して笑っていなかった。
ぬらりひょんの言葉に、焔鬼は立ち止まった。
刀の柄に添えていた手をそっと離し、肩をわずかに揺らして笑う。
「……うつけ共め」
その声は低く、地の底から滲み出すようだった。
焔ではなく、灰の中でくすぶり続けた何かが、ようやく火種を得たかのように。
「寝起きには、まこと……好い手慰みよのう」
笑みには色はない。だが、そこに含まれる“死”の気配だけは――確かだった。
焔鬼は再びゆっくりと顔を上げる。
その目が、ぬらりひょんの双眸を真っ直ぐに貫いた。
「……そこで首を洗って待っておれ」
言葉を斬り捨てるように放ち、ひと呼吸置いてから、最後に一言。
「すぐに、参ろうぞ」
重く、どこまでも静かな宣告だった。
まるで、それがもう――定められた結末であるかのように。
その場に漂う空気が、さらに張り詰める。
焔鬼の一歩が、まるで鐘の音のように静寂を裂いた直後――
地の底から、再び、震えが這い上がってきた。
「……ん?」
焔鬼の視線がわずかに、斜め後方へと逸れる。
風が逆流する。
霧が引き裂かれ、空気が膨張し、地面が軋むように唸った。
ドッ……ドッ……ドンッ……。
重低音の鼓動のような、いや、“侵入”の足音のような衝撃が、遠くの地平から徐々に近づいてくる。
「なんじゃ……あの律動は……」と、誰かが喉の奥で震えるように呟いた。
それは風ではなかった。地鳴りでもなかった。
“存在そのものが”こちらへ歩いてくる――それだけで、空間に歪みを生じさせるほどの圧。
やがて、濃い闇を裂いて、輪郭が浮かび上がる。
ゆらりと揺れる、赤黒い焔。
燃え上がるような長髪が、闇の中で赫々と光を放つ。
その中心に立つ影は、黒曜の装甲を纏ったかのごとき巨躯を揺らし、静かに、ゆっくりと、地を踏み締めていた。
ひとたび現れたその姿に――
誰もが、息を呑んだ。
「あれは……まさか……」伊庭が絞り出すように声を漏らす。
肩越しに振り返ったリィドの双眸が見開かれる。
「……っ、赤い髪……ツノ……黒い痣……」
反射的に片膝をつき、肩越しに手を伸ばすように警戒する。
「嘘だろ……よりによって今かよ……!」
あれはパリの魔人……まさか、この日本で出会うなんて
俺は言葉にすらならなかった。
パリでの出来事が一瞬にして蘇る。
“深紅の破滅”――
“魔人・クリムゾン・ベイン”。
その異形は、あの夜、恐怖と死の象徴として現れ、ただ存在するだけで災厄を撒き散らした“伝説”だった。
その魔人が、今――こちらへと歩を進めている。
斧を片手に携え戦場を見渡す。
「アバドニスの気配を感じてきてみれば、他にも強そうなのがいるじゃねぇか」
魔人の視線が、焔鬼、ぬらりひょんと移動する。
焔鬼が、わずかに首を傾げ、炎のごとき眼光をその方角へと向けた。
「……ほう」
その声に、ほんの僅かな愉悦の色が滲んだ。
「面白うなってきたわい」
「なるほど、なるほど……これでようやく腑に落ちましたぞ。
お侍様がどのようにしてこの地へお越しになられたのか――」
扇子を軽く一度、打ち鳴らす。
「……あれほどの結界も、あなた方にとっては紙切れ同然、ということでございましたか」
焔鬼と魔人――二つの災厄が、同じ空の下に並び立った。