第98話 焔鬼 (えんき)
沈黙を引き裂くように、ぬらりひょんの声が高台から響いた。
「……見事、見事。まこと、素晴らしき力でございました」
しかし、その声音に笑みはなかった。仮面のような顔に浮かぶのは、計算か、焦燥か――その奥が読めない。
「それではお次へ参りましょう」
ひらりと片手を振る。その瞬間、再び戦場がざわめいた。
焔鬼が、ゆらりと顔を上げた。
その眼に映るのは、英斗たちを弄んでいた――十三体の異形。
鉄鼠、火車、鵺、針女、赤舌、烏天狗、蟹坊主、清姫、濡れ女、飛頭蛮、雪女、泥田坊、牛鬼。
いずれも、一騎当千の猛者。畏れられてきた“本物”たちだ。だが今、そのすべてが――ひとつの存在を前に、薄氷の上に立つような沈黙を保っている。
ぬらりひょんは、それを見て、なお余裕を崩すまいと口元を歪めた。
「……ああ、これは実に見苦しい。まるで犬が主を失って立ち尽くすようだ」
そう言って、羽織の袖を払う。
「行け。すべてを喰らえ。魂すら焼き尽くして構わぬ」
静かなその一言が、合図となった。
十三の異形が、同時に咆哮を上げる。地を駆け、空を裂き、熱気と腐臭と殺気が入り混じった濁流が、焔鬼に襲いかかる。
その中心に立つ焔鬼は、ゆっくりと刀の柄に手を添え――
抜き放つ。
それだけで、空気が灼けた。
「――踊れ。焔の鬼よ」
地を踏む音はなかった。
次の瞬間、焔鬼の姿が掻き消えた。
ただ――炎が舞った。火が舞い、空間が裂けたように影が跳ねる。
それは影のようでもあり、残像のようでもあり、ひとつではなかった。
鬼が、何人も、舞っていた。
影が跳ね、刃が閃き、焔が線を描いていく。
最初に動いたのは、鉄鼠。
獣のように跳ねて爪を振り上げた瞬間、その胸元に一本の斬撃が走った。
鉄の装甲を誇ったはずの胸が、音もなく裂け、血の代わりに熱気が噴き出す。
火車が咆哮し、炎を噴いた。
だが、焔鬼はその炎の中を“影”として通り抜け、背後から一閃。
炎ごと火車の身が断たれた。
同時に、鵺が空から突進し、針女が針を構え、赤舌が舌を叩きつける。
三体の連携――しかしすでに、焔鬼の“数”は一つではなかった。
残像が散る。煙と焔を引いて、鬼たちは交差する。
鵺の首が、半拍遅れて斜めに落ちた。
針女の胸に炎が咲き、背から舌のような光が抜けた。
赤舌の舌は切り裂かれ、胴体と分離し、仰け反るように崩れた。
「……ふふ、なんと絢爛な“舞”でございましょう」
ぬらりひょんが、思わずといった調子で漏らす。だがその瞳は細められ、笑っていなかった。
烏天狗が棍を振るい、蟹坊主が鋏を交差させ、清姫が蛇の尾を放つ。
だが“鬼たち”は止まらない。
斬っては消え、現れてはまた斬る。
一対一ではない。一対十三を、ただ一体で“舞い崩していく”。
烏天狗の頭巾が裂け、棍が砕けるより早く胸を貫かれ――
蟹坊主の甲羅が炎で焼かれ、鋏が落ちる前に首が跳ねた。
清姫の哀しげな声が熱に焼かれ、白無垢ごと闇に溶けていく。
濡れ女が髪を伸ばす――が、髪が届く前に腕が落ち、影が通り過ぎた後、身体も崩れた。
飛頭蛮が悲鳴を上げて空を舞うが、その軌道上に“鬼”の影が跳ねる。
喉元を斬られた飛頭蛮の首は、今度こそ“自ら”飛び去ることはなかった。
雪女が冷気を放つ。
空間が凍りつく。だが、焔鬼は止まらなかった。
炎が氷を上回る速度で燃え広がり、白き衣が焦げて黒となり、雪女の表情が焼け落ちるより早く――その身体が崩れた。
泥田坊が地を這い、牛鬼が雄叫びを上げて突進する。
だが、それすらも“舞”の終盤を飾る装飾に過ぎなかった。
焔鬼は、ふわりと地に足をつけ、舞を終えるように軽く回転した。
その動きと同時に――牛鬼の巨体が、“線”で切り取られたように崩れ落ちる。
泥田坊は自らの泥を吸い上げることなく、熱で蒸発していく。
黒煙が立ち上り、泥の身体が、干からびたように崩れた。
そして――
焔鬼は、元の位置に戻っていた。
まるで最初から一歩も動いていなかったかのように。
刀を、静かに鞘へと納める。
――カチリ。
その小さな音を合図に、最後の妖たちが、音もなく地へと崩れ落ちた。
火も、氷も、泥も、煙も、すべて消え失せていた。
そこに残るのは、ただひとつ――焔の鬼。
ぬらりひょんは、静かに口を閉じたまま、しばらく動かなかった。
瞼の奥が重い。
体がほんのわずかに震えている。
「……ふむ……」
ようやく、それだけを呟いた。
笑おうとしたが、喉が乾いていた。
それほどまでに――圧倒的だった。
ぬらりひょんは、しばし沈黙したまま――その唇の端を、わずかに引き結んだ。
「あれは鬼よりも“鬼”ですな」
初めて、声に宿るのは愉悦ではなかった。
それは、明確な“警戒”だった。
そっと扇子を下ろす。
畏れ、そして――興味。
「……これは、予想以上。いやはや、まったく……」
焔鬼は何も言わない。
ただ、蒼く燃える霧の中に立ち尽くし、なお、英斗を見下ろしていた。
まるで――次に何をするかを、見極めるように。
蒼く揺れる霧の中――焔鬼が動いた。
その肩が、微かに上下する。静かに、深く、息を吐くように。
「ふむ……」
低く、地の底から響くような声音が、戦場に落ちた。
それは声というより“灼けた鉄を擦る音”に似ていた。
焔鬼の喉から絞り出された言葉は、熱と圧を孕みながら、戦場全体に静かに広がっていく。
「久方ぶりに面白げな催しがあると覗いてみれば……これはまた――派手な祭じゃのう」
微笑とも嘲りともつかぬ声音。
それは生者の語り口ではなかった。
ぬらりひょんの目が、ピクリと揺れる。
英斗は、まだ倒れたまま、その声音を――体の芯で“聴いて”いた。
声ではなく、“熱”として、脳に焼き付くように。
焔鬼は一歩、英斗から離れるように前へ出る。
その歩みに、地は震えぬ。ただ、“気配”が押し出される。
「良い、其方ら遊戯者であるな?」
ゆっくりと、頭を巡らせる。視線は血を流しながらもなお倒れずにいる者たち
――伊庭、中野、リィド、二階堂――全てに、等しく注がれた。
「儂には、聞きたいことがある」
その言葉に、誰も答えない。
できなかった。
焔鬼は、一歩を踏み出す。
そして、静かに、笑った。
「……動くでないぞ? 首が飛びとうなければな」
風が止まる。
声も、音も、心臓の鼓動さえも――一瞬、全てが“止まった”。
誰もがその場で凍りついたまま、ただ焔鬼の一挙手一投足に縛られていた。
ぬらりひょんでさえ、言葉を発することをためらっていた。
焔鬼の双眸が、静かに揺れる。
だが、そこに怒気はない。ただ――意思だけがあった。
意思というには、あまりにも濃く、重く、灼熱に近いもの。
それは、“災厄”が人の形を取った存在。
問いとは何か。目的とは何か。
その言葉を、この場の誰も、問い返すことすらできなかった。
ただ、焔鬼が何を問うか――それが、今この夜の“命運”を左右すると、誰もが悟っていた。