第97話 百鬼夜行⑥
その武者が、一歩、俺の方へと踏み出した瞬間だった。
――戦場が、凍りついた。
ただの比喩ではない。
斬りつけようとしていた鎌鼬の風が止まり、火車の咆哮が途切れた。
鉄鼠の動きが止まり、赤舌の舌が空中で揺れたまま固まり、清姫の顔に浮かんでいた狂気の笑みさえも、凍りついたように消え失せた。
鵺が唸るのをやめ、雪女が翳 (かざ)しかけた指を降ろせずにいる。
餓者髑髏の巨腕が中空で止まり、牛鬼の尾が振り下ろされる寸前で、まるで空間ごと封じられたかのように動かなくなる。
全ての異形が――“それ”の出現を前に、無意識にひれ伏していた。
いや、違う。
“本能的に抗えない”というべきか。
敵も、味方も、息を呑んだまま、誰一人動かない。
「……な、んだ……?」
かろうじて声を漏らしたのは中野だった。だがそれは、霧の中に消えていく微かなつぶやきにすぎなかった。
空気が変質していた。
風は止み、夜気は熱を孕み、焔のような“重さ”が空間全体に圧し掛かっていた。
あらゆる殺気、怒気、悲鳴、苦悶――すべてが沈黙し、“ただひとつ”の存在を中心に世界が組み直されたような、異様な静寂。
叫ばず、吠えず、構えも取らない。ただ俺の前に立ち、視線を落とし――動かない。
ぬらりひょんすら、その瞬間だけは動きを止めた、高台から目を細める。
「……どなた様でございましょう?」
低く、ただ呟くような声だった。
――戦場が、沈黙する。
ぬらりひょんは高台からその異形の背を見下ろし、細く目を細めた。
そして、まるで興味深い実験対象を見る学者のように、ゆっくりと問いかける。
「ほほう……。こちらには結界を張らせていただいていたはずですが――いかなる手段で、この地へ?」
武者は応えなかった。
ただ静かに、ゆるやかに、首を巡らせ、ぬらりひょんの方へと顔を向ける。
その所作に、威圧も怒気もない。ただひたすらに、“無”の圧があった。
「……ふむ。口を利くおつもりはございませんか。あるいは――言葉をお持ちでないお方なのかもしれませんね」
ぬらりひょんはそう呟きながら、わずかに顎を傾け、武者の右腕へと視線を落とした。
「その腕の痕……穢れにございますな」
黒く焼けただれ、内から紅蓮を滲ませるような、異様な裂け目。
皮膚の下で蠢くように、熱がゆっくりと脈打っている。
「……まったく、人というものは――業の深いこと。存在そのものが罪であるというのに……魂までも汚してみせるとは」
ぬらりひょんの声音に、嘲笑とも哀れみともつかぬ色が混じった。
だが武者はなお、何も言わず、ただ立っていた。
その沈黙すら、圧力と化して、戦場を支配し続けていた。
「――こちらへ現れたということは、やはり“慟哭の剣”がお目当てでございますかな?」
ぬらりひょんの声は、静かに戦場に落ちる。
挑発でも威圧でもない。ただ、底知れぬ好奇と観察眼が滲んだ問いだった。
「おひとりでのご来訪とは……これはまた、死に場所でもお探しあそばされたか?」
高台の上で羽織の裾を払いつつ、ぬらりひょんは微かに口元を歪める。
その笑みは優雅でありながら、どこか酷薄な色を帯びていた。
「そのような有様にまで堕ち、それでもなお生きながらえておるとは……
いやはや、哀れや哀れ。業というものは、まことに――執念深いものですなあ」
その声音には、憐れみとも嘲りともつかぬ情が宿る。
それはまるで、虫の生き様を眺める博物学者のように――どこまでも、冷ややかだった。
ぬらりひょんは武者を見下ろしたまま、しばし静かに息を吸い――そして、ふと、肩をすくめるようにして微笑んだ。
「……やはり、言葉は交わせぬようで」
その声音には、少しの残念さと、大きな愉悦が滲んでいた。
「ならば――ご退場願うといたしましょう」
その一言が、合図だった。
戦場の空気が再びざわめく。沈黙していた霧がざらりと波打ち、地の底から何かが這い上がる気配。
「まずは……“土蜘蛛”を差し上げましょう」
ぬらりひょんが指を鳴らした瞬間、大地がひび割れ、そこから異様な脚がずるりと姿を現す。
獲物を狙うように現れた巨大な蜘蛛――その顔は人面を模し、瞳が武者を凝視していた。
「続いて、“大百足”。武門の方には、このあたりが丁度よろしかろう」
土蜘蛛の陰から現れたのは、金属のように硬質な殻を持つ百足。
大蛇のごとき体躯が地を這い、節ごとに赤い毒棘を覗かせていた。
「火がお好きであれば……“輪入道”など、いかがかな」
炎と共に転がる巨大な車輪。中心には鬼の顔――燃え盛る瞳が武者をにらみつけ、唸りを上げながら旋回し始める。
「では、少々風雅に。“栄螺鬼”(さざえおに)なども、風情があって良い」
霧の中から濡れた足音が響く。
巨大な貝殻を背負い、濡れた槍を引きずりながら現れた鬼。磯の臭いと、粘つくような殺意を全身に纏いながら、ゆらりと歩を進める。
「そして、最後に……“婆娑婆娑”。気を付けられますように。あれは羽音こそ、おぞましいものでして」
大きな鶏冠を有する怪鳥のような妖怪が、翼をばさりと広げて舞い降りてくる。
ぬらりひょんは両腕を広げ、小さく一礼した。
「どうぞ、お楽しみくださいませ。ささやかな――“宴”の幕開けでございます」
五体の異形が、包囲のように武者を取り囲み、異様な呼吸音と殺気を滾らせ始める。
だが武者は、わずかに顎を上げたのみで――一歩たりとも、動かなかった。
五体の妖が、円を描くようにして武者を取り囲む。
土蜘蛛の足が蠢き、大百足が地を這い、輪入道が火を噴いて唸り、栄螺鬼が得物を引きずり、婆娑婆娑が空から羽音を撒き散らす。
ぬらりひょんは高台から、その光景を眺めていた。
「……さあ、どう出ますかな?」
その問いに答える者はいない。武者もまた、何も言わず、何も構えず、ただ静かに立つのみ。
――そして、次の瞬間。
空間が“切り裂かれた”。
音はなかった。いや、速すぎて音が追いつかなかった。
土蜘蛛の脚が一本、二本と斬り落とされる。巨体が崩れ落ちる前に、その頭部が、真一文字に斬られていた。
同時に、大百足が身をくねらせ、毒棘を振り払うように襲いかかる。
だが――武者は、一歩も動かず。
斬撃は“すでに終わっていた”。
ぬらりひょんが眼を細める。
「……斬り伏せて、なお歩を進めておらぬとは」
大百足の体が、一瞬遅れて裂ける。節のひとつひとつが切断され、断面からは毒でも血でもない、ただ熱気と炎が漏れ出した。
輪入道が咆哮とともに突進する。火の車輪が地を焦がし、火柱が吹き上がる――
その中を、武者の影がふらりと消え、次の瞬間には火の向こう側に立っていた。
刀を納める“音”が先に届き、輪入道の車輪が上下にずれる。
バギィィィ――ン!
爆ぜる火花の中、輪入道が真っ二つに弾け飛んだ。
栄螺鬼は声も出さずに襲いかかる。槍を構え、貝殻を盾のように前へ。
だが、武者の刃は“その中”を通った。
剣閃は見えず、ただ栄螺鬼の姿が――消えた。
槍も、貝も、腕も、顔も、全てが等しく“ひとつの線”に収束され、霧のように崩れ落ちる。
最後に残ったのは――空に舞う婆娑婆娑。
武者の眼が、わずかに空を見上げる。
次の瞬間、何が起きたのか誰にも分からなかった。
婆娑婆娑が空中で静止したかと思うと、その身が、羽が、翼が、首が――
すべて“音もなく”切り裂かれ、細かく、まるで降り注ぐ羽毛のように散っていく。
風すら、起きなかった。
五体の妖、すべてが。
斬られたことにすら気づかぬまま、“存在を終えた”。
戦場に、再び沈黙が落ちる。
だがそれは、先ほどの“畏れ”による沈黙とは異なる――
明確な理解によってもたらされた、“恐怖”の沈黙だった。
高台の上で、ぬらりひょんはまだ口元に笑みを浮かべていた。
その笑みは、どこまでも品のある微笑だった。だが――
その頬の筋肉が、わずかに引きつる。
そして、目元。
これまで細く鋭かった双眸が、わずかに見開かれていた。
「ああ……これは……」
感嘆とも、困惑ともつかぬ声が、漏れた。
再び整えようと、ゆっくりと羽織の裾を払う。
しかし、その手の甲に、ほんの一瞬――震えが走った。
ぬらりひょんがこの夜で初めて、余裕を取り落とした瞬間だった。
「……おやおや。五体、とは……少々、手を抜きすぎましたかな?」
取り繕うように笑みを浮かべるが、その声音には微かな翳りがあった。
あの“武者”を前にして、明らかに彼の視線が定まらない。
伊庭さんの絞り出すような声が聞こえた。
「焔鬼 (えんき)……」
霧が、再び戦場を包む。
ただ、“あの存在”を見つめ続けることに、耐えられなくなった世界そのものが――
幕を引こうとしたかのような霧だった。