第96話 百鬼夜行⑤
「それでは、あなた方の健闘を称え、もう“一体ずつ”送りましょう」
ぬらりひょんの声が、夜気を這うように戦場全体を包み込む。
その一言を皮切りに、霧が裂ける――否、“ひらく”というべきか。
闇の帳が引き裂かれたその奥から、地獄からの遣いのごとき“異形”たちが、ゆらり……と姿を現した。
その気配に、誰もが息を呑み、そして……絶望する。
◆
鎌鼬の風の刃と、鉄鼠の爪の連携に、すでに膝をつきかけていたリィドの前に、赤黒い火の粉が舞った。
「……まだ増えるのかよ……」
呻くように振り返ると、そこには、火車。
猫のような顔と、炎を纏った歪な猫の四肢。
「ッ……う、うぅああああっ!」
咆哮と共に、火車の前足がリィドの背を叩きつけた。熱と激痛が同時に背中を走り、息が詰まる。
立ち上がろうとする足元に、鉄鼠の爪が突き刺さり、転倒。
その身体に、火車が容赦なく炎を舐めさせた。
「っ、あ、ああああ……やめろ……ッ!」
火車は嗅ぐようにリィドの顔に近づき、嘲笑う。
◆
蟹坊主に脇腹を裂かれ、烏天狗に棍で何度も叩かれ、地を転げていた英斗。
そこに、響く鈴の音。
「……っ!?」顔を上げた先には――清姫。
白無垢に蛇の尾。美しくも狂気を帯びたその女の顔が、英斗をじっと見つめる。
「……ようやく見つけた……わたしの愛しい人……」
「……!やめ――ッ!」
清姫はすでに目前。蛇のような尾が俺の脚を締め上げ、軋む骨の音と共に地面に叩きつける。
「ふふ……あたためてあげますね……わたしの中で、ずっと……」
爛れた口元が耳元に触れ、熱が皮膚を焦がしていく。
棍が再び背を叩く。蟹坊主の鋏が今度は足を挟む。
全身が悲鳴を上げる。俺は呻くしかできなかった。
◆
針女に背を貫かれ、鵺に胸を裂かれながらも、なんとか片膝で耐えていた中野の背後――
ぼとり、と“舌”が落ちた。
視線を動かす。血のような液を滴らせながら、巨大な口と真紅の舌を持つ化け物――赤舌が、中野の背後に迫っていた。
「……!」
構える間もなく、舌が叩きつけられ、地面に叩き伏せられる。
呼吸ができない。上から赤舌がのしかかり、ぬめる触手のような舌で、中野の顔や傷口を舐め回す。
「――く、……っ、あ、ぐ……!」
針女は、苦悶する中野の背にさらに針を刺し、鵺が顔を覗き込むように低く鳴いた。
――この三体は、遊んでいる。
中野の苦痛に、喜んでいる。
◆
濡女に腕を絡め取られ、飛頭蛮に噛み付かれていた伊庭の前に、白い息が漂う。
「……ッ」歯の根が合わない。異常な冷気。
視線の先――雪女。
凍てつく白装束の女が、冷たく笑いながら手を翳す。
「そんなに熱いなら、冷やしてあげましょう」
その言葉と同時に、霜の息吹が吹き荒れ、伊庭の身体を覆った。
「うっ、が、……あ、ああああっ!!」
皮膚が裂けるような寒さ。筋肉が凍り、濡女の髪がそのまま凍結して伊庭を締め付ける。
飛頭蛮は血を啜りながら笑う。雪女は指先で伊庭の頬をなぞる。
「もっと……震えて……そのまま砕け散ればいいのに」
地に伏す伊庭の顔に、粉雪が静かに積もっていく。
◆
――二階堂の視界に映る、異様な“脚”。
地響きのような重たい歩調で、闇の奥から現れる。
現れたのは、牛鬼。
牛の頭に蜘蛛のような脚、肥大化した筋肉と毒々しい色の甲殻。口から滴るのは、血か毒か。
「……いいですね。これで、終わりですか?」
自嘲気味に言いながら、立ち上がろうとする――その瞬間、牛鬼の尾が突き刺さるように背中を打った。
呻きと共に、再び倒れる。
泥田坊が絡みつき、牛鬼がゆっくりと口を開け、そこから腐臭混じりの息が吹きつけられる。
「く、ふ、ふふ……最悪ですね……」
口元は笑っていたが、体はもはや動かない。
餓者髑髏が骨の手で彼を抑えつけ、牛鬼が静かに首元に毒の滴を垂らす。
◆ そして――
戦場の空気は、完全に変わっていた。
もはや誰も立っていない。
呻き声と、嗤う異形たちの息遣いだけが、夜を満たしていた。
ぬらりひょんは、高台で腕を組み、満足そうに頷く。
「……人は、脆く、儚く、……美しいものですね」
その言葉は、勝者の余裕ではなく――狩人が獲物を愉しむような、嗜虐の愉悦。
そして、誰もが知った。
――この夜は、まだ終わらない。
――これは“試練”などではなく、“遊戯”でしかない。
生き延びることすら、奇跡と呼ぶに値する。
もはや戦えないほど傷ついた者、膝をついてなお抗おうとする者、
恐怖と怒りの狭間で拳を握る者――全員が一斉に顔を上げ、その“気配”に怯えを見せる。
地の底から響くような重い足音が、ただ一つ、戦場に響く。
俺はうつ伏せに倒れたまま、意識を手繰るようにして目を開けた。
――そこに“それ”はいた。
己のすぐ目の前に。
見上げた先、黒く焦げたような甲冑に身を包み、炎のような赤い亀裂が全身を走る異形の存在。
頭には、半月を逆さにしたような兜飾り。鬼面のごとき顔に表情はなく、ただ紅蓮の眼光だけが沈黙の中で揺らいでいた。
武者のような姿で、その眼が、ただ無言で英斗を見下ろしている。
呼吸ひとつすらない――いや、あるのだろうが、それすらも“熱”としてしか感じ取れない。
背には黒煙のような残滓 (ざんし)が揺らぎ、右腕は溶岩のように裂け、灼けた地表のような赤い光を脈打っていた。
腰には漆黒の闇のような日本刀。
だがそれを抜く気配はない。ただ、“立っている”。
それだけで、全身が硬直する。
「……ぁ……」
俺は言葉にならない声を漏らす。
恐怖ではなかった。身体のどこかで、脳のどこかで、“これは違う”と本能が警告していた。
――この存在に、触れてはいけない。
武者が一歩、俺に向けて踏み出す。
その足音は、鼓動よりも重く、静かに地を震わせた。
英斗の周囲の空気が、一気に熱を帯びる。
声も、音も、風すらも沈黙した。
誰も動けない。誰も叫ばない。誰も助けられない。
――それが、絶望というものだった。