第93話 百鬼夜行②
「……来る」
中野が呻くように言った。
霧の中から、巨大な“足音”が近づいてくる。
音ではない。存在そのものが、大地を震わせている。
まず、姿を現したのは――
「……大天狗」
伊庭さんが低く呟いた。
漆黒の羽根を持つ異形の老翁。
長く伸びた鼻、鋭利な嘴のような口元。
肩に風を纏い、背後に雷光を宿す威風堂々たるその姿。
彼は確かに、“山の王”の一柱だった。
そのすぐ後ろ――
「鵺、か……!」
リィドの声にわずかな怯えが混じる。
虎の身体に猿の顔、尾は蛇。
その姿を見た途端、空が濁る。
その咆哮だけで、空気が一変した。
さらに、その陰から音もなく歩み出る者。
「ぬめっ……!? あれ、髪……?」
長い黒髪が地を這うように広がっている。
中心には、顔のない女のような影。
「……濡女か……!」
二階堂の背筋が一瞬、強張った。
その気配のどれもが、“先程までの雑兵とは格が違う”。
影が揺れるたびに、また一体――また一体――
知っている名が、実在として現れる。
「鉄鼠……!」
獣の体に僧衣を纏い、血まみれの経を唱える狂気の僧。
「鎌鼬……三体いる!」
風の中を切り裂く影が、ぐるりと取り囲んでいる。
「百鬼夜行……“本物”かよ……!」
リィドが声を荒げた。
「この気配、みんなBランクか…」
「どうやら、“見せ場”はここかららしいですね」
ぬらりひょんの声が、頭上から降ってきた。
見上げれば、夜空を背に――
高く積まれた影の座に、彼は悠然と座っていた。
まるで、百鬼たちの“主”であるかのように。
「さあ――」
ぬらりひょんは扇子を片手に、ゆっくりと笑う。
「夜はまだ、これからでございますよ」
ズ……ズズ……ッ!
地面が震えるたび、結界の表面がびりびりと音を立てて軋んでいた。
「くっ……っ!」
中野が歯を食いしばり、結界の核に指先をかざす。だが――
バチンッ!
光の壁が、霧の圧に耐えきれずに一瞬たわみ、亀裂が走った。
「中野さん!」
「……限界だ」中野はかぶりを振る。「すまん、もう持たん……!」
その言葉と同時に――
パァン!
“結界”が砕けた。
光の膜が音を立てて弾け、霧と共に“百鬼”が一斉に動き出す。
「くそっ、まだ……!」
伊庭さんが刀を構えようとするも、脚が震え、膝が地を掠める。
「あんたは下がってな!」
叫ぶや否や、リィドが前へと飛び出す。
「《Storm Wall》ッ!」
両手を地面に向けて広げた瞬間、烈風が巻き起こり、霧と影を渦ごと巻き上げてはじき飛ばす。風が結界のように周囲を包み込む。
キィィィィィィン――!
風の障壁が形を成し、突進してきた鎌鼬の一体を吹き飛ばす。
「っ……はぁ、はぁ……!」
リィドの額から汗が伝い落ちる。結界は確かに形成されたが、中野のそれに比べれば精度も硬度も及ばない。
「クソ……中野さんみたいな結界は無理でも、少しくらいは……!」
伊庭さんが奥歯を噛みながら、二階堂に声をかけた。
「撤退だ……俺たちは《エクスヴェイド(緊急脱出)》する」
「お前たちも、あの“暗闇に紛れて消えるスキル”で脱出したほうがいい」
「ご配慮、感謝いたします。しかし……」
「……なに?」
「先ほどからゲートを開こうと連絡しているのですが、どうしても仲間と繋がらないのです」
「ならば、エクスヴェイドしかないだろう!」
「……ええ、寿命を削るのは惜しいですが、背に腹は代えられませんね」
二階堂が一つ深く息を吐いた。
「皆さん、話は聞いていましたね? 撤退します!」
全員が無言で頷き、次々に声を上げる。
「《エクヴェイド》!」
淡い光が彼らを包み、空間から消え去る――はずだった。
「これは……」
二階堂が、珍しく声を震わせる。
「なぜだ! 光はどうした!」
リィドが堪えきれず叫ぶ。
そのとき、霧の奥からぬらりひょんが静かに歩み出た。目元を細め、笑みを浮かべながら言う。
「もう、ここは我らの世界――出ることも、入ることも叶いませんよ」
「リィド君、下がりなさい――!」
二階堂が叫ぶ。
が、その刹那――!
「入ってきたッ!」
鉄鼠と、鵺の一部、そして濡女の髪が結界の“隙間”から侵入を果たす。
それでもリィドは下がらない。
風の結界を保ちながら、体を半身に捻り、足さばきで影の一体をかわすと、逆手の剣で応戦する。
「リィド君、よくやりました」
二階堂の声が飛ぶ。
その言葉は、敵に突破を許したことを責めるのではなく、僅かな時間を繋いだ勇気への賛辞だった。
「吉野さん、侵入してくる敵を私達で倒します。
吉野さんが牽制、私が止めを。リィド君は風の盾を維持してください。宜しいですね?」
俺は頷こうとしたその時
「はてさて、旨い事行きますか?」
ぬらりひょんの背後――
霧の帳が裂けるようにして、異様な影が現れた。
巨体、骨の骸。
無数の髑髏が繋がれ、塔のように積み上がったその“存在”は、地響きと共にゆっくりと立ち上がる。
「……がしゃどくろ……っ!」
誰かの声が、震え混じりに漏れた。
咆哮ひとつなく、それはただ腕を振り上げた。
空気が唸りを上げる。
次の瞬間――
ドウンッ!!
風の結界が、紙のように潰された。
リィドが喀血しながら吹き飛ぶ。風の盾も、一瞬で霧散した。
「リィド君!」
二階堂が叫び、すぐさま駆け寄る。
だが、もうそこに“守る壁”はなかった。
「……うそ、だろ……」
俺の足が、動かない。
がしゃどくろの圧倒的な存在感に、心が凍りつく。
望みが断たれた。
結界は破られ、敵の群れは押し寄せる。
呆然と、その場に立ち尽くす俺たちの前で――
“地獄”が、静かに口を開いた。
がしゃどくろの出現を皮切りに、辺りの気配が一変した。
音もなく霧が渦巻き、影のような存在たちが次々と姿を現す。
四足で這うもの、ぬめるように這い寄る濡女の髪、顔のない影、蝙蝠の群れ――
気がつけば、俺たちは完全に囲まれていた。
「……っ」
誰かが小さく息を呑む。
その時だった。
「いやはや。……随分と賑やかになりましたなあ」
霧を裂き、ひときわ濃い影が現れる。
羽織を揺らしながら、悠然とした足取りで現れたのは、あの男――ぬらりひょんだった。
「がしゃどくろは力加減というものを知らぬのでね。壊すしか能がないのですよ」
その声は、まるで旧知の友へ語りかけるように柔らかく――それでいて、ぞわりと背筋を撫でてくるような冷たさがあった。
気づけば、周囲は妖怪で埋め尽くされていた。
犬のような皿顔の影、首のない女、笑う虫、腕が幾本もある子供のようなもの……息を潜め、音もなく、こちらを見つめている。
誰も応えない。応えられない。
それでもぬらりひょんは、実に楽しげだった。
「ふむ……沈黙。いやはや、これほど人数がいて一言もないとは。やはり“絶望”とは口を閉ざすのですねえ」
ぬらりひょんの背後で、影の一体がくつくつと笑うような声を漏らす。
逃げ道など、どこにもない。
ぬらりひょんは静かに歩み出ると、まるで月下の茶会でも始めるかのように優雅に言った。
「良い夜ですね。……いや、良くはないか。息も詰まるような緊張と、戦の気配。けれど――こうして顔を合わせられたのは、何よりです」
誰も返さない。空気は重く、喉は焼けつくように乾いていた。
「……用件はなんです?」
かろうじて声を出したのは、二階堂だった。ぬらりひょんは目を細める。
「用件、ですか。……ふむ、そうですねぇ。ひとつ、確認したかったのです」
ぬらりひょんは、地を這う黒い霧の中を指でなぞるように歩きながら、静かに続けた。
「神の意志に逆らい、何故歯向かうのですか?」
その言葉は、冗談にも挑発にも聞こえなかった。
ただの疑問。
「……神の、意志……?」
二階堂の眉がわずかに動いた。
その隣で、俺は思わず顔を見合わせる。意味が分からない。何の話をしている?
「ふふ、なるほど。やはり“自覚”はないのですね。可笑しい、実に可笑しい」
ぬらりひょんの背後で、首のない女がかすかに笑い、皿顔の影が地面を這って擦れる音を立てる。
周囲の妖怪たちは動かない。ただ、“聞いている”。
「そろそろ……使命を果たすとしましょうか」
その一言で、空気が変わった。
霧がざわつき、風が止まる。
ただの“静寂”ではない――
それは、肌を刺すような緊張と、“命”そのものに圧し掛かる圧。
殺意。
理屈も、言葉もいらない、ただの“本能”が告げてくる。
**ここにいる者たちは、確実に俺たちを殺すつもりだ――**と。