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第90話 ぬらりひょん①

 黒い霧が周囲に滲みはじめる。

 八岐大蛇の尻尾から現れた“ぬらりひょん”の気配が、空間そのものを歪めていた。


 ――その最中。


 吉野英斗とリィド・グレイハルトの戦いはなお続いていた。

 風が刃のように走り、土が削られる。互いに傷つき、息を荒げ、それでも一歩も退かずに向かい合う。


「チッ……次の一手で沈める!」

 リィドが風を巻き起こし、刃の軌道を幻のように揺らす。


「……来い」

 俺はすでに何度も繰り返された殺気を受け止めながら、次の“瞬間”を待つ。


 ――だが、その刹那。


「吉野!」

 戦場の奥から、伊庭さんの声が飛んだ。


 その声音には、焦りも怒りもない。ただ、一点の静けさと確かな警戒が込められていた。


「今は、引け」

 言葉は短く、だが強い。


 俺は息を呑み、思わず視線をそちらへ向ける。


 その目に映ったのは、背後に現れつつある“異形”。

 伊庭さんの刀が、そちらへ向いている。

 ――状況が変わった。


 リィドもまた、その空気の違和感に気づいていた。


「……何か、来てるな」


 俺が僅かに距離を取った瞬間、

 今度はリィドの背後から、別の声が響く。


「リィド君。引きなさい」

 二階堂の落ち着いた声だった。


「は……?」

「勝負は、また後程」


 その言葉に、リィドの顔がわずかに強張る。


「……チッ、これからだってのに」


 リィドが舌打ちし、英斗としばし睨み合ったまま後退する。

 俺もまた、伊庭の呼びかけに従い、後方へと移動した。


 互いが背を向けるようにして、“それ”を挟む形になっていた。



 かつて八岐大蛇が横たわっていた場所は、今や影と霧の舞う“夜の領域”と化していた。

 黒い霧は、重く湿った気配を伴いながら、じわじわと地面を這い、空間を浸食していく。

 その中心に、“それ”は立っていた。


 ぬらりひょん。


 その姿を初めて目にする者でさえ、本能が理解していた。

「ここにいるべき存在ではない」と。


「……おやおや。思いのほか、残ってしまいましたね」

 ぬらりひょんが口元に手を当て、笑う。

 だが、そこには温度も、情もない。あるのは、ただ“支配する者”の余裕と――底知れぬ“冷たさ”。


「これは……何者だ」

 俺は思わず声に出す。

 気配に呑まれぬよう、意識を集中しながら言葉を絞り出す。


「“影”……それも、深い。あれは単なる魔物ではない」

 伊庭さんが隣に立ち、低く呟いた。

 その目は刀の切っ先のように鋭く、相手の本質を見極めようとしていた。


「八岐大蛇の……“尻尾”から出てきた」

 中野が続ける。傷口を押さえたまま、敵意をむき出しにせず、慎重に間合いを測る。

「断面に潜んでいたのか……あるいは、八岐大蛇、そのものか……」


「はてさて。どちらだと思われます?」

 ぬらりひょんが軽く首を傾ける。

 その動きは、まるで演舞のように滑らかで、どこか蛇のような粘性すら帯びていた。


「そもそも八岐大蛇はいなかった……夢、幻。気づけばそこにいる、それが私。」


「幻……?」

 俺は眉をしかめる。


「あなた方が斬り落としたのは、言わば“表層”。」


「……ふざけるな」

 リィドが低く唸った。風が巻き上がり、彼の髪を揺らす。

「さも理知的に語ってるが、てめぇのその存在――

 まるで“最初から見下してた”みたいな顔だな?」


「ええ、見下してますとも」

 ぬらりひょんは、あっさりと頷いた。

「だって……私の目から見れば、あなた方は“夜を恐れる子ども”のようなもの。

 暗闇に目が慣れた者だけが、“影”を歩けるのです」


「……おもしろい理屈ですね」

 二階堂が静かに言う。

 その目は、ぬらりひょんの足元――地面が“枯れていく様”を見ていた。


「闇は美しい。静寂なる闇の中にこそ、乱れが映える。

 ――それが“美”というものですよ。」


「……気味が悪いな」

 中野が吐き捨てるように言う。

「人間のように喋るが……」


「ええ、まったくその通り。私は人ではありませんし、

 怪異でも化け物でも、神でもない。

 ――“境界”なのです。

 人と怪異の境目、夜と昼の狭間、欲と理性の裂け目」


「出てきたのなら切り伏せるのみ」

 伊庭さんが力強く言い放つ。


 一瞬の沈黙――。


「実に潔い」

 ぬらりひょんが愉快そうに笑う。

 その笑みは、今までで一番“人間らしかった”――だが、それが最も“恐ろしかった”。


「では……夜会を始めましょうか」


 次の瞬間、ぬらりひょんの足元から黒い霧が吹き上がる。

 それが周囲を覆い、時空すら歪ませる“帳”となった。


 黒い霧が、一瞬にして辺りの空気を塗り替えた。

 視界は歪み、音が遠ざかり、まるで深海に沈むような圧迫感が満ちていく。


「……来るぞ」

 中野が静かに息を吐いた。


 その瞬間、伊庭が踏み込んだ。

 刀を低く構え、迷いなく斬りかかる。


「せいっ――!」

 鋭い軌道。真正面から、ぬらりひょんの首元を狙った一撃――


 だが、


 スッ……


 霧の中、ぬらりひょんの姿が“揺れる”。

 まるで水面に映った像が波紋で歪むように、その姿は少しだけズレて――


 伊庭の刀は、何もない空を斬り裂いた。


「っ……!? 今、いたはず――!」


 伊庭の背後。微かに笑う声がした。


「……一手目から、それでは困りますね」

 ぞわり、と首筋に冷気が這う。


「ッ!」

 伊庭が振り向きざまに再び斬りつけるも、そこに姿はない。


「動きが……読めない」

 リィドが風を巻き上げながら接近。刃の連撃を斜め下から放つ。

 だが、ぬらりひょんはそのすべてを、まるで、浮いているかのような動き

 で――ぬるり、ぬるりとかわしていく。


「当たらねぇってのかよ……っ!」


 リィドの腕が風を切るたび、霧が散る。

 だが、ぬらりひょんはいつの間にか別の位置に立っている。


「そこだッ!」

 中野が横から飛び込み、鉤爪を両手に構えて突進する。

 爪が霧を裂き、影を断つ――が、


 パシッ――


 空を斬った瞬間、耳元に吐息。


「そんなに焦らなくても、私はここにいますよ」

 隣に立っていた。中野の“横”、ぴたりと。


「……っ、避けたんじゃない。存在が……ずれた?」


 中野が後退し、背を壁に取る。

 もはや反射神経の領域ではない。

 これは、“理”が歪んでいる。


「感覚が狂う……」

 二階堂が鋭く叫び、ポケットから小型のナイフを抜く。

 あえて正面から投擲――


 スッ――!


 飛来する刃を、ぬらりひょんは首をわずかに傾けて避けた。

 その動きに、まるで意志が感じられない。

“反射”ではなく、“結果”のような動き。


「何だ、あれは……」

 俺は思わず呟く。

 ぬらりひょんの動きには“間”がない。

 意図が読めない。反撃もしない。ただ――


“かわす”。


 そのすべてが、どこか“滑っている”ようだった。


「戦っているのに、手応えがない……!」

 伊庭が叫ぶ。

 刀を――何度も、何度も振る。霧を裂くたび、影は遠ざかる。

 間合いの中にいたはずのぬらりひょんが、ふと気づけば“木の上”に立っていたり、

“俺の背中”に影を落としていたりする。


「はは……まるで夢の中みたいだな」

 リィドが不気味な笑いを漏らす。

「この戦い、本当に“現実”か?」


「現実だ」

 俺が刀を握り直しながら応じる。

「現実じゃなきゃ、ここまで冷や汗はでない……!」


 再び黒い霧が渦巻く。


 そして、ぬらりひょんがぽつりと呟く。


「さあ、踊り続けてください。

 夜の帳が落ちるまで、皆さんの“理性”が持つ限り――」


 影の中で揺れるその笑みは、

 人間の形をしていながら、何よりも“異質”だった。


 ――戦いの幕は、まだ開いたばかりだった。


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