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第86話 恐山①

 足元を踏みしめるたび、小石が転がる乾いた音が響く。


 山頂まで、もうそう遠くはない。

 黙々と歩く俺と伊庭さん、その背中にはわずかな緊張が滲んでいた


 ふいに、伊庭さんが口を開いた。


「……吉野」


 呼ばれて、顔を向ける。

 伊庭さんは前を見据えたまま、真っ直ぐな声で問いかけてきた。


「お前が以前“見た”と言っていたのは——“アバドニス”で間違いないんだな?」


 足を止め、そっと視線を落とす。

 頭の中に、あの夜の光景が鮮明によみがえる。

 地面が砕け、血が降り注ぎ、視線ひとつで呼吸を忘れた“死”の存在。


「……はい。間違いありません。あのとき、テミスの一人が……“アバドニス”と確かに」


 伊庭さんはわずかに目を細め、数秒の沈黙のあと、静かに頷く。


「……日本にいるのか、あれが……」


「……?」


「穢れ人には、絶対に戦ってはいけない三人がいる」


 静かな声が、霧の中に溶けるように広がる。


「吉野が魔人と呼んでいた――《Crimson Bane (クリムゾン・ベイン)》

 二人目が、奈良の山で遭遇した魔獣――《Abaddonis (アバドニス)》

 最後は、日本に数百年前から存在している災いの王――《焔鬼 (えんき)》」


「この三人のうち、たった一人にでも遭遇した場合……即時撤退が原則だ。

 古株のプレイヤー達から伝わる伝説のような存在だ」


 伊庭さんの声に、わずかに重さが増す。


「お前の言った通りなら……日本には《アバドニス》と《焔鬼》、両方が存在していることになる。

 もし“彼ら”が現れるなら……今回の任務は、“神器の確保”どころじゃ済まない」


 言葉の温度が、凍てついた刃のように研ぎ澄まされていた。


 俺は強く唇を噛み、前を向いた。


「……俺もレベルは21まで上がりましたが、正直、魔獣や魔人に勝てるなんて思えません」


 伊庭さんはふっと微かに笑い、目を細める。


「万が一遭遇したら……自分の命だけ考えろ。それでいい」


 俺は思わず、彼の顔を見る。


「……死ぬなよ。生きて帰るまでが、俺たちの戦いだ」


 静かに頷く。


 山頂へと続く道が、わずかに光を帯び始めていた。

 その先に、何が待つのか――わかっていながらも、俺たちはまた一歩、足を進めた。


 空気が変わったのは、さらに数歩踏み出したときだった。


 風が止まり、鳥の声が途絶える。

 木々が揺れる音も消え、世界から“音”が抜け落ちたような静寂。


 そして――突如、空気を裂くような悲鳴が響いた。


「やめろッ!うわあああああっ!!」


 男のものだ。

 すぐ近く――山頂の先からだ。


 伊庭さんと目を合わせ、頷く。

 俺たちは走り出した。岩場を越え、傾斜を登る。


 やがて、木々の切れ間から視界が開けた。


 そして――それを見た。


 眼下の崖下、くぼ地のようになった場所に、巨大な何かが蠢いていた。

 太くねじれた胴体。うねる八本の首。

 それぞれの口から赤黒い涎が滴り、地面に爪痕を刻む巨大な蛇の化け物。


「……八岐大蛇 (ヤマタノオロチ)……」

 俺の口から、震えるように言葉が漏れた。


 その化け物の前には、数人のプレイヤーが立ちはだかっていた。


 一人が逃げようと背を向けた――その瞬間。


 ズガッ!!


 一本の首が伸び、男を咥えた。


「やめろ!やめ――ッ」


 悲鳴が途中で途切れる。

 そのまま、バリバリと骨の砕ける音と共に、飲み込まれた。


 助ける術は――なかった。

 あまりにも一瞬で、あまりにも無力で。


 唾を飲み込む音すら、躊躇われた。

 気づかれてはいない。だが、もう一歩でも踏み出せば……。


 その時だった。


 少し離れた位置、崖の対岸。

 別の影が数人、身を潜めるように立っていた。


(誰か……?)


 目を凝らすと、その中の一人がこちらに視線を向け、僅かに手を上げた。


 高級感のあるスーツに、鋭い目。


 ――二階堂だ。


 以前、フェリーで一度だけ遭遇したあの男。テミスの一員。


 その隣には見たことのない男が二人。

 灰色の髪をなびかせた青年と、右目に眼帯の男。


 その視線は鋭く、決して侮れない雰囲気をまとっていた。


 そして、二階堂が口元を動かす。

 声は届かないが、はっきりと読めた。


「共闘しましょう」


 こちらをまっすぐに見つめ、まるで当然のように言っていた。


 伊庭さんがわずかに目を細め、俺を見る。


 この状況で、敵だ味方だと言っている余裕はない。

 俺も小さく頷く。


 戦いは――避けられない。


 次に動くのは、こちらだ。


 岩肌を滑るように駆け下り、崖下の戦場に足を踏み入れる。

 その時にはもう、プレイヤーたちの姿はなかった。


 残されたのは、削れた地面と潰れた装備、そして……八本の首が蠢く化け物だけ。

 八岐(ヤマタノ)大蛇オロチは、ゆらりと首を持ち上げ、獲物のいない空間を威圧するように咆哮を放った。


「間に合わなかったか……」

 伊庭さんの声が低く響く。


「ごきげんよう、フェリーではお世話になりましたね」


 声の主は、崖の向こうから歩み寄ってきた男――二階堂 司。

 その隣を歩く二人もまた、まっすぐにこちらへと向かってくる。


 灰色の髪をなびかせ、若く中性的な印象を持つ青年がにやりと笑った。


「俺はリィド。……で、こっちは」

「中野俊博だ」


 中野は冷ややかな瞳で伊庭と吉野を一瞥し、そのまま視線を大蛇へ向けた。


 伊庭さんは一歩前に出て、短く名乗る。

「伊庭 静馬だ」


「吉野英斗…」

 俺はそう言いながら、二階堂をにらみつけた。


「お久しぶりです。吉野さんどうされました?随分と怖い顔をされていますが」

 まるで船での出来事が無かったことのように話しかけてくる。


「このっ……」

 俺は思わず一歩、前に出た。


「吉野!」

 伊庭さんの手が俺を制止する。


「おお怖い、しっかり押さえていてくださいね?」

「ほら、こっち来ますよ?」


 八本の首のうち、一つがこちらに向かって大きく開く。

 その喉奥には、赤黒い粘液と歯列が並び、獰猛な咆哮の前兆を孕んでいた。


「……まったく、共闘なんて向いてねぇのにさ」

 リィドが肩をすくめる。


「形式上の協力だ。余計な感情は持たん」

 中野が淡々と返す。


「ええ、皆さん、今は“取引の場”です。余計な接触や挑発は控えましょう?」

 二階堂が柔らかく笑うが、その目はひときわ冷たい。


 伊庭さんは振り向かずに言った。

「吉野、言いたいことは後にしろ。今は……こいつを仕留める」


 それを合図に、五人は動き出した。

 大蛇が咆哮とともに動いたのと、ほぼ同時だった。


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