第84話 酒呑童④
「……静かじゃのう」
そう呟いた鬼は、一歩、また一歩と社から離れ――
ふと、再び立ち止まった。
背後には、六人の屍。
まだ温もりの残る肉体。
血の香りは生温かく、土と混じって空へと昇る。
酒呑童子は、振り返らないまま、宙へと目を細めた。
「……やはり、よい」
その声は、どこか満ち足りていた。
満腹のあとに湯をすするような、柔らかな呼気。
「人というものは……このように儚く、そして美しいものかの」
風が吹いた。
死者の髪が揺れ、衣が鳴る。
鬼は目を閉じたまま、静かに耳を澄ませた。
「あれ程の猛者はそうはおるまいて」
社の奥から、かすかに“鼓動”のようなものが鳴った。
天音の太鼓。
その気配が、まるで鬼の内に響くように共鳴している。
「忌むべきは人の欲か。惜しむべきは人の情か。いずれにせよ――」
酒呑童子は、ゆるりと目を開いた。
「これが、終わりの始まり。ゆえに――静寂は美しき導入よ」
再び、沈黙が訪れる。
風も、鳥も、虫すらも音を止め、
社の前に立つ鬼ただ一体のみが、確かに“在る”。
そして鬼は、ゆっくりと社へと歩を進める。
世界が息を潜める、そのただ中で――
何かが、確かに、動き始めていた。
社の前、血に染まる地に立つ鬼は、歩を止めた。
――何かが、おかしい。
酒呑童子は、ふと眉をひそめる。
足元の砂利が踏みしめられる感触はある。
鼻をくすぐる血と泥の匂いも、まだ残っている。
しかし――
静かすぎる。
風のざわめきがない。
木々の葉擦れがない。
自らの呼吸の音すら、聞こえない。
「……?」
鬼はその場に立ち尽くし、周囲に意識を巡らせる。
音が“遠い”のではない。
“消えて”いる。
「……奇怪な」
独りごちたその声すらも耳に届かない。
――まるで、“世界”が音という現象を拒絶したかのように。
社の奥から聞こえていたはずの、あの天音の太鼓の脈動さえ――今は沈黙している。
酒呑童子は、にわかに目を細めた。
「……なるほど」
誰にともなく、そう呟く。
「ただの余韻……では、なさそうじゃな」
静けさを愉しんでいた鬼の表情に、わずかに緊張が走る。
――これは、“異常”だ。
無音の世界の中。
目の前に黒い小さな物体が現れ、突如強烈な光を発した。
直視してしまい、視界が灼かれるような痛みに包まれた
「おおぉ」
後ずさり、たまらず目を抑える。
そして“静寂”を破る声だった。
「Crimson Bind (クリムゾン・バインド)!」
右側から奔る赤黒い鞭が、雷のように空を裂いた。
「Chain Bind (チェイン・バインド)!」
左から襲いかかる鎖が、鉄を唸らせ、全身に絡みつく。
「……これは――!」
酒呑童子が振り返るより早く、両腕・胴・脚が、鞭と鎖によって引き絞られていた。
だがそれだけでは終わらない。
「Mud Max (マッドマックス)!」
前方、わずかに傾いだ足元――そこがぐにゃりと沈む。
足裏が、確かに捉えていたはずの地面が崩れ、泥に変わっていた。
「ぐッ……!?」
踏ん張りが利かない。
束縛と重力に引き倒され――巨躯の鬼が、仰向けに、地へと崩れ落ちた。
――ズドンッッ!!
大地が悲鳴を上げるほどの轟音と震動。
視力はまだ戻らないが――このスキルには覚えがある。
右に――イレーナ・クルーゲ。
左に――神谷 大地。
前方に――姫川 結生。
いずれも、死んだはずの者たち。
確かに、命を奪ったはず。
確かに、肉が裂け、血を流し、動かなくなった――あの者たちが。
「……おのれ、これは……何の幻術か?」
酒呑童子の表情が、初めて“困惑”に揺れる。
「貴様らは、死んだはず……。この手で、叩き潰した……!」
しかし、応える声はない。
代わりに、ぐぐっ……と引き絞られる鞭と鎖の音が響く。
酒呑童子の巨体が、再び泥へと沈み、動きを封じられていく。
この異変は何なのか。
死者たちの復活か、それとも――何者かの“介入”か。
鬼の思考を嘲笑うように、さらに――飛び込む影。
「……あたしの奥手はどう?」
静かな声とともに、佐伯 柚月が、割れた岩の陰から姿を現した。
聴力を奪い、閃光弾で視力を奪う、佐伯の必勝パターンだった。
その足取りは確かで、地を踏みしめている。
裂けたはずの四肢に、一片の損傷もない。
鋭い双眸が、じっと酒呑童子を射抜く。
その隣、倉橋 彰吾が盾を担ぎ、肩で笑った。
「姐さんのおかげで命拾いしたな……はっはっは」
その瞳にも、恐れは微塵もなかった。
正真正銘の、生者の気配だった。
倒したはずの人間の気配を感じる。
「バカな……何をした、人間……。あの一撃を受けて、生きているはずが……!」
酒呑童子の声に、わずかに焦燥がにじむ。
初めて――
酒呑童子の心に、“畏れ”の影が落ちた。
「Shine Dart (シャインダート)!」
佐伯の鋭い声とともに、掌から光の槍が放たれた。
それは、直線的に――だが一切の揺らぎなく鬼の胸元へ突き刺さる。
「ぐ……っ」
音のない閃光が、酒呑童子の巨体を一瞬だけ硬直させる。
すかさず、次の声が、震える空気を揺らした。
「……悪いが、俺も限界までいかせてもらうぜ」
倉橋の姿が、鬼の正面へと出る。
背中の盾を地に捨て、ゆっくりと両手を構える。
そして――低く、唸るように叫んだ。
「Ironclad (アイアンクラッド)!!」
その瞬間、倉橋の全身が、重厚な金属音と共に黒鉄に包まれていく。
皮膚は鋼に、筋肉は鎧に、魂は砲弾に変わったかのような圧倒的存在感。
目の色すら、金属のように冷たく光る。
「これが――俺の、本気だ……!!」
大地をえぐり、風を引き裂き、獣のごとき踏み込みで走り出す。
「Heavy Tank (ヘビータンク)!!」
《Ironclad》によって強化されたその突進は、もはや“戦車”ではない。
砦が動いているとさえ思える、質量と速度を兼ね備えた破壊の塊。
その軌道の先には、泥に沈む酒呑童子――
もはや避けることも、防ぐことも、できない。
「くらええええええええッッ!!」
倉橋の《Ironclad》強化を纏った《Heavy Tank》が、酒呑童子の胸を真正面から撃ち抜いた。
重金属が衝突するような轟音。鬼の巨体が仰け反り、泥を巻き上げて半身が浮く。
酒吞童子の胸が大きく陥没する。
「この程度で……」
鎖と鞭を引きちぎらんと、全身に力を込めて筋肉を膨張させる。
その刹那――
風が吹いた。
やわらかな、白き衣が、社の方角から揺れていた。
その中心に立つのは、一人の少女。
地に伏していたはずのその姿は、
穢れなき白衣に身を包み、神域の風を纏って、ただ一人――立っていた。
長い髪が風に舞い、まっすぐな瞳が鬼を捉える。
その眼差しには怒りも悲しみもない。ただ、清廉なる意思が宿っていた。
鬼の目にわずかながら視力が戻る。
「……神楽咲耶……だと……?」
鬼の声が震える。
「お前も、確かに……わしが……!」
咲耶は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
その気配は、静かにして崇高。
まるで、神域から舞い降りた巫女のように。
「――そこまでです」
澄んだ、鋭利な声。
――神楽咲耶が、酒呑童子の目の前に現れた。
姿勢は低く、薙刀を逆手に構え、鬼の首筋を正確に捉えている。
刹那、空気が鋭く裂ける音が響いた。
「天耀断 (てんようだん)――!」
「ま、」
鬼が言葉を発するまもなく、白き光を引き裂くような一閃。
神の名を冠した一撃が、酒呑童子の喉元を寸分の迷いもなく断ち切った。
ズバッ!!
返り血と共に、鬼の頸部が斜めに裂け――
致命の感触が、咲耶の腕を伝って跳ね返った。
「ぐあ……ぁぁああ……!!」
酒呑童子の呻きが、血と共に噴き出す。
身体から力が抜けていく。
だが、それすらも――終わりの始まりだった。
「逃がさないよ、鬼さん」
イレーナの艶やかな声が、今度は凶器となる。
「Crimson Bind (クリムゾン・バインド)!」
「Chain Bind (チェイン・バインド)!!」
左右から、赤い鞭と黒い鎖が勢いを増し、傷ついた鬼の四肢と胴を捩じ切るように締め上げる。
ギチギチギチギチ――!!
骨が砕け、筋肉が捻じれ、血と肉が爆ぜていく。
「……人間が存在する限り……我らは蘇る……」
酒呑童子の声はもはや朽ちた獣の呻き。
最後の瞬間、わずかに笑って見えたその口元が、鎖と鞭の圧力によって砕け散る――
「また会おうぞ!」
ズブゥッ!!
グチャアアッ!!
圧壊。
かつて“酒呑童子”と呼ばれた災厄は、
見る影もなく――赤黒い肉塊と化した。
そこに立つ者たちは、ただ黙ってその消滅を見届けた。