第82話 酒呑童子②
姫川のフードの下の目に、わずかな光が灯っている。
「みんな、あいつが崩れたら――全力でぶち込むんだよ!」
イレーナの言葉に反応する間もなく、姫川は素早く地に片手をつく。
「Mud Max!」
スキルが発動された瞬間、酒呑童子の足元の大地が変質する。
乾いた地面が、ぐずりと音を立てて濃い泥へと沈んだ。
「……っ!」
鬼の巨体がぐらりと揺れ、足を取られる。
その場で踏みとどまろうとしたが、重すぎる質量が裏目に出る。
ドシャアッ――!
酒呑童子が、仰向けに豪快に転倒した。
大地が震え、土砂と共に風が吹き上がる。
「今でさぁ!!」
姫川が叫ぶと、全員の動きが一斉に重なった。
隙を逃さず、スキルが連続して叩き込まれる。
「Serpent Fang!」
イレーナの鞭が、蛇の牙のように鬼の喉元を狙い――
「Meteor Fang!」
神谷の鎖が熱を帯び、流星のように軌道を描いて振り下ろされ――
「Shine Dart!」
佐伯の掌から放たれた無数の光弾が、鬼の胸元に集中して突き刺さる。
「神箭・白鳳!」
咲耶が放った一矢が、閃光を纏い、一直線に鬼の額へと向かって走る。
「重戦車!!」
倉橋が怒号と共に突進し、鬼の腹部に重盾ごと体当たりを叩き込む。
六つの力が、同時に鬼を襲った。
泥に沈んだ巨体をめがけ、すべての火力が集約される。
爆発のような衝撃と轟音が止んだあと、社の前には再び、緊迫した静寂が訪れていた。
土煙の中、ぬうっと何かが動いた。
――酒呑童子だった。
泥と埃にまみれた巨体が、のそりと上半身を起こす。
胸元にくっきりと攻撃の痕が刻まれ、肩口の一部は裂け、黒い血がにじんでいた。
それでも、鬼は――笑っていた。
「ハハハハハ……良いな。良いぞ。人間……やはり、侮れぬわ……!」
その声は、心底楽しそうで、むしろ昂揚しているかのようだった。
目が爛々と輝き、笑いの奥に潜む狂気が、周囲の空気を一層張りつめさせる。
(まだ立ち上がる気か……!)
咲耶が息をのむ。
その瞬間――
「甘く見るんじゃないよッ!!」
イレーナの鞭が、火を引くように空を裂いた。
「Crimson Bind!」
赤黒く輝く鞭が、生き物のようにうねりながら、酒呑童子の右腕と胴を巻き込んだ。
まるで血管が浮き上がったかのように、拘束線が食い込み、筋肉に絡みつく。
イレーナの叫びとほぼ同時に、神谷の鎖がしなった。
「Chain Bind!」
鎖が音を立てて回転し、左腕から背中にかけてがっちりと巻きつく。
鉄の束縛が、鬼の動きを封じるように固く絡み合った。
「ぬぅ……!」
酒呑童子の体が一瞬、揺れる。
左右の腕と胴を縛られたことで、上半身が半ば持ち上がった状態で固定される。
「あたしのCrimson Bindは
ただの拘束じゃないさね!血の最後の一滴まで絞り出してやるのさ!」
「鬼さんよ、動けねぇってんなら――あとはこっちの番だ!」
神谷の目が鋭く光った。
「面倒な相手には、これくらいがちょうどいいさね!」
イレーナも笑みを浮かべながら、鞭をさらに締め上げた。
鞭はまるで意思を宿したかのように蠢き、酒呑童子の筋肉に深く食い込んでいた。
――今、この瞬間だけは、酒呑童子の動きが封じられた。
空気が、張り詰める。
咲耶の額から、静かに汗が流れる。
(今しかない――もう一手、もう一撃で……!)
だが――
次の瞬間、酒呑童子の瞳がギラリと輝いた。
「……良い。実に良い……!」
獣のような声が喉奥から漏れる。
巨体が、ゆっくりと不穏にうねった。まるで、呼吸する巨岩のように。
イレーナの鞭と神谷の鎖が絡みついた胴。
だが――そのどれもが、今や警鐘のように震えていた。
「……なに?」
咲耶の目が細められる。刹那、酒呑童子の全身から、**異様な“脈動”**が走った。
ゴウン……ゴウン……
その音は、まるで巨大な心臓の鼓動のように、足元から響き出す。
「ぬゥうぅゥん……!」
次の瞬間、筋肉が膨張した。
見る見るうちに、朱の皮膚が盛り上がり、血管が浮き出す。
「……おい、嘘だろ」
神谷が低く呟くと同時に――
バキィィッ!!!
まず、チェイン・バインドの鎖が引きちぎられた。
直後に、クリムゾン・バインドの鞭が音を立てて弾かれる。
鋼を捻じ曲げるような、凄まじい破壊音が社前に響き渡たった。
「離れな!!」
イレーナが咄嗟に叫び、後方へ跳ね退る。
神谷も鎖を引き戻しながら後退、みんながそれに続く。
「くっ……まさか、力技で……!」
咲耶の薙刀がかすかに震える。
その前で、酒呑童子は――
ゆっくりと、立ち上がっていた。
全身から立ち昇る湯気。
裂けた縄の切れ端が、風に舞う。
「いやァ……面白いぞ、愉しいぞ……!」
その顔には、狂気とも取れる笑みが浮かんでいた。
「ならば今度は――こちらの番といこうか……!」
再び巨体が、唸りを上げて前傾する。
次の一撃――確実に殺しにくる。
酒呑童子の喉奥から、低くうねるような音が漏れた。
それは笑い声だった――だが、理性を欠いた猛獣の咆哮にも似ていた。
「次は――一人潰してみようかの」
その瞬間。
(来る――!)
佐伯の瞳が鋭く細まる。
《Sound Scope》――発動。
音の流れ、筋肉の収縮、関節のわずかな軋み、空気の揺れ。
すべてを読み取り、次の動きを――
(重心、右足。肘、内旋――来るッ、狙いは――)
だが――間に合わなかった。
「……ッ!!」
佐伯が口を開くよりも先に、酒呑童子の棍棒が消えた。
否――視界から、消えたのだ。
ゴッ――!!
耳をつんざく風圧の後――
姫川がいた場所に、巨大な棍棒が突き刺さっていた。
「っ……が……!」
爆風と共に姫川の身体が宙を舞い、折れ曲がり、地面へと叩きつけられる。
空気そのものが、凍りついた。全員の鼓動が、一瞬だけ止まったようだった。
「……姫……川……?」
倉橋の震える声が漏れた。
佐伯は咄嗟に駆け出そうとするも、酒呑童子がすでに次の動作へと移っていることに気づき――立ち止まる。
「……早い……!」
その呟きは、震えていた。
《Sound Scope》が、間に合わない。
予兆を捉えても、反応できる速度ではない。
「マジ……かよ……」
神谷が唇を噛み、鎖を強く握り直す。
姫川は、倒れたまま動かない。
生死を確かめるまでもない――即死だ。
「……ユウ」
イレーナが鞭を巻き戻しながら、唇を噛みしめた。
次に狙われるのは――誰だ?
空気が張り詰める。
地面が軋み、体内を巡る血さえ、凍りつくような重さで押し潰されていく。
「これで……もう足元をすくわれることはなかろう」
笑みを浮かべながら、鬼が一歩、前へと踏み出す。
その足音は、まるで死の鐘のように響いた。
「――さて。次は、誰が良いかのう」
その巨影がわずかに揺れただけで、全身の毛穴が総毛立つ。
理性の奥底が告げていた。
――ここから先は、本当に“死ぬ”と。
誰も――動けない。誰も――声を出せない。この場にあるのは、圧倒的な「死の気配」
殺戮が、いま始まった。