第81話 酒呑童子①
社の前に、再び静寂が訪れていた。
ただし、それは恐怖のせいだ。
酒呑童子の瞳が、六人を一つずつ確かめるように舐め回す。
一歩――音もなく踏み出すたび、大気が軋んだ。
「……冗談じゃねぇな」
神谷が鎖をゆっくりと肩から外し、正面を見据える。
イレーナも鞭を構え直しつつ、ちらと後方へと目線を送った。
「あんたたちも、文句はないね?」
倉橋は盾を前に出し、やや佐伯との距離をとった。
「……どうやら、決着は後回しってことか」
「……異論はないわ」
佐伯は棍を下ろしつつ、冷静に倉橋の動きと鬼の動きを見極めている。
だが両者とも完全に隙を見せたわけではない――「休戦中の臨戦態勢」。
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姫川は私の隣に腰かけたまま、鬼の方へ顔だけ向けた。
「うっわぁ……アレ、マジでヤバイ、帰りてぇ」
「協力するということでよろしいでしょうか?」
「あんなの相手じゃねぇ……断る理由ねぇでしょ」
姫川が言うと同時に服の締め付けが無くなった。
(……さすがに、今は一人でどうこうできる相手ではない)
♦
イレーナは低く息を吐くと、俺の方へわずかに体を向けた。
「あんた、一つ確認だ」
「なんだ」
「まさかとは思うけど、さっきまでのが全力ってわけじゃないよねぇ?」
「姐さんはどうだ?」
イレーナはふっと鼻を鳴らした。
「手の内は見せたくないけどねぇ……そうも言ってらんないよ」
俺は軽く笑うと
「そういうことだ」
「……よし。じゃあ、背中は預けるぜ」
「好きにしな」
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社の前――張り詰めた空気の中で。
鬼が、ふっと鼻を鳴らした。
「……ほう」
その声は、雷鳴の前触れのような、重く響く低音だった。
「小賢しい虫どもが、よう集まったものよのう」
たった一言が、全身の毛穴を総立ちにさせた。
(人語を話す……)
酒呑童子はゆっくりと、棍棒を肩へ担ぎ上げた。
その仕草に、地面がわずかにひび割れる。
「儂の守るは、“天音の太鼓”……」
金色の双眸が、まっすぐ六人を貫く。
その視線だけで、心臓を掴まれるような圧が襲ってくる。
「人の身にて手を伸ばすか。罪深き者どもよ」
鬼は、口元をわずかに吊り上げた。
だがそれは笑みではない。“処刑”の宣告に近い。
「足掻いてみるがよい」
足を一歩、静かに踏み出す。
――ゴオォン……!
鐘のような重低音が、大地を通して鳴り響いた。
次の瞬間、酒呑童子の巨体が、地を揺らして前傾した。
「……来るッ!」
Sound Scope――音の構造と響きから、対象の動きを“先読み”する能力。
(……重心が右。振り上げ……左回転。範囲、半径七メートル。踏み込み三歩で到達……!)
情報を瞬時に読み解き伝達。
「全員ッ、左に飛べッ!!」
佐伯の声が雷のように響いた。
直後――
ゴゥッ!!
酒呑童子の棍棒が、地を這うように一閃。
しかし――
「ちぃっ!」
「おおっと!」
「危なっ……!」
六人は、佐伯の指示に合わせ、左へ飛び退いた。
わずかでも遅れていれば、巻き込まれていた。
その衝撃だけで、地が割れ、土煙が吹き上がる。
煙の中、佐伯は鋭く息を吐いた。
「……あの棍棒、直撃すれば間違いなく“即死”……しかも攻撃範囲が、広い」
地に伏せながら問いかける。
「佐伯はそのまま情報を共有!神楽は八尾へ連絡、救援要請」
「了解」「わかりました」
神谷さんの指示に即座に反応する。
「クラ、あんたは囮! ユウは後ろから援護、絶対に下手打たないこと!」
「へい」「はいよ」
イレーネの指示に二人も従う。
「クラ右へ飛んで!」
佐伯の声に倉橋がとっさに右に飛ぶ。
「その音の読み……信じるぜ」
倉橋の言葉に佐伯は無言で頷き距離を取る。
「あの方、脚と肩を負傷しておられるようですが大丈夫なのですか?」
私は隣にいる姫川に話しかけた。
「兄貴にしたらかすり傷、動きに影響はないでさぁ」
煙が晴れた先――酒呑童子は、楽しげに喉を鳴らしていた。
「ははは……避けるか。では、次はもう少しだけ……速く行こうかの?」
その言葉と共に、再び鬼の巨体がうねり始めた。
――空気が鳴る。重圧が、迫る。
「来る……っ! 今度は、縦だ!」
佐伯の声と同時、全員が散開する。
ドォオンッ!!
酒呑童子の棍棒が真上から振り下ろされ、大地が爆ぜた。
砕けた石が宙を舞い、土煙が広がる。
「こいつ……さっきより速いぞ!」
神谷が吐き捨てるように言いながら、鎖を構え直す。
だが攻撃の圧に押され、足を止めることすら難しい。
「位置、変えるッ! 次、咲耶は右へ展開して!」
「了解――!」
全員が呼吸を乱しながらも、佐伯の声に合わせて動く。
だが――攻撃を“避ける”ので精一杯だった。
おとり役の神谷さん、倉橋も関係なしに攻撃を繰り出してきていた。
振り下ろし、薙ぎ払い、叩き潰し、踏み込み……
どの一撃も“音”によってかろうじて先読みしているから回避できている。
だが、それだけだ。
反撃の余地がない。
「チッ……このままじゃ、削られる!」
神谷が鎖の端で牽制するも、棍棒の圧力に遮られ踏み込めない。
そのとき――
姫川が片手を挙げ、指を鳴らした。
姫川のスキル”スリップ”を発動させる。
足元の地面がわずかに揺らぎ、**“滑らせるスキルの膜”**が酒呑童子の足元に広がる。
(踏み込みのタイミングに合わせた……!)
しかし――
「……無意味だ」
咲耶が低く呟くと同時に、酒呑童子の足はまったく滑らず、地を踏みしめたままだった。
ズン――!
逆に、地がたわみ、スキルの膜ごと地面が沈む。
「うっわ、マジか……効かないとか、マジ勘弁っスよ」
姫川がわずかに後退しながら苦笑する。
「……あれだけの体躯。重さでスキルごと踏み潰している」
佑月さんが冷静に分析するが、額には汗がにじむ。
(攻撃は予測できる……でも、誰も踏み込めない。こっちが届かない……!)
私もかわすのが精一杯で、矢も打つ隙がない、倉橋の剣も振れない。
神谷も鎖を振るう距離に踏み込めず、イレーナの鞭もかすめるのみ。
姫川は支援スキルが通用せず、佐伯の先読みも守りに徹するだけ。
援護が到着するには一時間。
だが、それまで持ち堪えられるかは、正直言って――怪しい。
地が再び揺れた。
ズズ……ッ!
酒呑童子の足が、ゆっくりと半歩、前に出る。
それだけで空気が押しつぶされるように圧迫され、胸が苦しくなる。
咲耶は矢をつがえかけて……だが、放つことはできなかった。
「咲耶!」
佑月さんの声にかろうじて身体が反応し、棍棒が頬をかすめる。
(射つことすらできない)
鬼は人間の動きを観察している――そう感じた。
脅威ではなく、**“遊び相手”**を見るような視線で。
「……お前たち、手も足も出ぬか」
酒呑童子の唇が、わずかに吊り上がる。
その声音は、まるで地の底から這い出てきたように低く唸っていた。
だが不思議なことに、どこか朗らかさすら漂わせる――それが、かえって恐ろしい。
「避けるはよい。だが、それだけでは飽きるわ……」
細めた瞳が、まるで嗜むように全員を見渡す。その視線には“選別”の色が宿っていた。
まるで狩人が、獲物のどこを裂くかを品定めしているような目つきだった。
息を飲む六人の間を、緊張が突き刺すように走る。
その刹那――
「姐さん! とっておき、いきやすよ!」
絶望が支配する空気を、まるで叩き割るように――姫川の声が、鋭く響き渡った。