第78話 鞍馬山①
鞍馬山の空は、雲ひとつない澄んだ青。
けれど、私の胸の中は重苦しかった。
剣呑な空気が辺り一帯にじわりと広がっていく――そんな気がした。
「……あそこだ」
柚月さんが、低い声で言った。
木々の間を抜けた先、広がる小さな平地。
そこに、**“天音の太鼓”**があるとライブラが示している社があった。
「待って……足音が聞こえる……1……いや、3人」
柚月さんは私たちが来た反対側を見つめていた。
そして――私たちの視界に先客が現れる。
艶やかな黒革をまとった女が、一歩、静かに前へ出た。
その背後には、坊主頭で屈強な男と、気怠げな長身の青年が控えている。
「……あんたたち、来たわけね」
女が、片目を隠す白金の髪をかき上げながら、ふん、と鼻で笑った。
その声と視線は、こちらを見下ろすように冷たかった。
(……誰……?)
私たちは動かない。相手の正体も意図も不明だが、同じもの――天音の太鼓を狙っているのは間違いない。
「姐さん、どうします?」
坊主頭の屈強な男が言った。だが女はゆるりと肩を揺らしただけだった。
「クラ。あたしたちの任務、忘れたわけじゃないだろう?」
(“姐さん”……リーダー格)
その時、気怠げな青年が口を開いた。
「姐さん帰りましょうよ~、面倒ごとはごめんですぜ……」
その言葉にも女は眉を上げ、語気を強めた。
「いいかげんにしな! ここで帰るような腰抜け、うちにはいないはずだよ?」
「はぁ~、やっぱそうなりますぅ……」
(緊張感のない会話だ……)
次の瞬間、女は腰から鞭を抜き、ひと振りした。
ピシャッ! と乾いた音が社の空気を裂いた。
「……あたしはイレーナ・クルーゲ。冥土の土産に覚えときな!」
神谷さんの鎖が微かに音を立てた。
「全員、黒手袋……テミスか、気合入れろよガキども!」
「了解」
柚月さんが冷静に応える。私は弓に指をかけた。
「さぁ、クラ、ユウ――あんたたち、やっておしまい!」
その号令とともに、テミスの三人が踏み込んできた。
神谷さんが前に出る。
「……よっしゃ、暴れてやんぜ」
「援護に入ります」
柚月さんが音もなく動き、私は――
(あの青年……私を狙っている)
ユウと呼ばれた男が、ふっと私の正面に現れた。
「さてさて、姉さんに任されたからには……俺、姫川 結生はきっちり仕事しますぜぇ?」
その気だるげな声が耳に入るより早く、私は矢を番えていた。
(惑わされない――心を澄ませ)
静かに、矢を引き絞る。
こうして、戦端は静かに開かれた。
♦
私は一歩、姫川との距離を測るように後退した。
彼はフードの影から薄く笑みを見せる。
「おお……怖い怖い。そんなに睨まんでもええじゃないですか、巫女さんよ」
(……軽い。けれど目が、笑っていない)
やる気を感じない、それに隙だらけ、得体の知れない相手。
だが、私も――迷いはない。
「……あなたの挑発には乗りません。参ります」
静かに告げると、私は矢を放った。
ヒュンッと甲高い音を響かせながら、矢は音速で姫川に迫る。
が――
「っと……危ないよ!」
わずかに肩を傾けただけで、彼は矢をかわした。
動きが流れるように滑らかだ。
(反応が速い……見切った?)
ならば!私は瞬時に弓と薙刀を入れ替え距離を詰める。
「これなら」
薙刀を振り上げ斬りかかる。
姫川がひょいと片手を挙げ、指を鳴らした。
すると、利き足が滑り体勢を崩す。
「……!?」
「だから危ないよ!当たったらどうすんの!」
相変わらずひょうひょうとつかみどころがない。
見た目より厄介な相手かもしれない。
♦
クラと呼ばれた男の巨体が、ゆっくりと一歩、私たちに向けて踏み出した。
足元が低く沈むほどの重み。盾を構えたその姿は、まさに“壁”そのものだった。
「……姐さん、こっちは倉橋に任せてもらいますぜ」
低く唸るような声が響く。
「神谷さん……私が行きます」
私はそう告げると、一歩、クラの正面へと出た。
「ふぅ……これまた硬そうな相手……」
盾の奥から見える倉橋の目は鋭く、隙がない。
「姐さんの邪魔だけは、させねえ」
ドン、と地を踏みしめる音とともに、倉橋の構えが変わった。
盾が低く構えられ、腰を落とす――突進の予兆。
(来る……!)
「Sound Scope (サウンド・スコープ)」聴覚を異常発達させる。
空気の中に、筋肉の収縮音、関節のきしみ、呼吸音が鮮明に聞こえる。
(右足に力が……突っ込んでくる!)
「行くぜ!」
クラが吼えると同時に、凄まじい勢いで地を蹴った。
盾と剣を前に構え、一直線に私へと突進してくる。
「……遅い」
私は冷静にその動きを読み、一瞬で横へ跳びすれ違いざまにナイフを投げる。
鈴付きのナイフが甲高く音を立て、盾に弾かれて宙を舞った。
素早く体勢を立て直す。見た目以上に無駄がない。
(見た目は粗暴そうなのに、動きは丁寧ね)
私は距離を取って棍を構える。
「姐さんの壁、この倉橋はその程度では崩せん」
ガハハと倉橋は笑うと、ドシっと構えを取る。
(まったく……ハーコンと気が合いそうね)
どうでもいい考えが思考をよぎる。
♦
イレーナ・クルーゲは、鞭を軽く振り上げたまま、戦場を見下ろしていた。
その視線は冷たく、支配者のものだ。
「ふん……あたしの相手は、あんたってわけだね?」
艶やかな声が響く。
俺は真正面に立ち、ニカッと笑った。
鎖を肩に担ぎ、余裕のある姿勢。
「へぇ……テミスの姐さんかい。ま、名前は聞いとくよ――神谷 大地、だ。」
鎖がジャリ、と音を立てて滑る。
肩の力を抜いたまま、ゆっくりと構えを取った。
「他は別として――あんたは、楽しめそうだな?」
その挑発に、イレーナの唇が吊り上がる。
片目を覆う白金の髪が揺れた。
「……いいじゃないさ、その減らず口……すぐに、いい声で鳴かせてあげるよ!」
ピシャッ!
鞭が空を裂いた直後――イレーナは間髪入れずに一歩踏み込んでくる。
俺は余裕の笑みを浮かべたまま、鎖を肩から下ろし、右手でゆるく握った。
(この姐さん……速えな)
イレーナの動きは予想より遥かに速かった。
鞭はただ音を鳴らして威圧するだけではない。しなる軌跡の中に鋭利な意図がある。
再び、ピシィッ――!
今度は低い弧を描き膝下を狙う。