第7話 名前は?
残り――28日。
その朝、俺の体に“異変”が起きた。
枕元でトン、と軽い音がした。
「英斗さん、ここ置いときますよ?」
声とともに、トレーがベッドサイドに置かれる。
サンドイッチに、湯気の立つコーヒー。
「ありがとう」
寝起きの声でそう返しながら、ゆっくりと体を起こす。
その瞬間だった。
――痛みがない。
一瞬、時間が止まったように思えた。
(……え?)
まさかと思い、腕を軽く曲げてみる。
肩を回す。
脚を伸ばす。
全部、何の引っかかりもなく動いた。
Aが「何やってんだ?」という顔でこちらを見ている。
「……痛くない」
無意識に、言葉がこぼれた。
ゆっくりと、上体を完全に起こし、両足を床に下ろす。
立ち上がってみる。
体が――驚くほど軽い。
まるで霧が晴れたように、全身が“自分のもの”になった感覚だった。
「やせ我慢じゃないんすか?」
Aがジト目で睨んでくる。
だが、そんな軽口も、どこか現実味を帯びない。
左腕のギプスを見下ろす。
本来なら固定されて動かないはずの腕――なのに、違和感がまるでない。
(なんで……)
確かめるように、その場で軽くジャンプしてみた。
Aの表情が固まる。
次の瞬間――彼は慌てて部屋を飛び出していった。
「兄ぃーーーっ!」
廊下に響く叫び声。
数秒後、AがBを引き連れて戻ってくる。
ドアを開けた2人は、目を見開いたまま、俺を見つめていた。
まるで、幽霊でも見たかのように。
「……ギプス、外してもらっていいか?」
言葉を発すると、空気がわずかに動いた。
Bがゆっくりと頷き、慎重な足取りで近づいてくる。
「本当に……大丈夫なんだな?」
その声には戸惑の響きがあった。
「ああ」
俺は短く答える。
ギプスを外していくあいだ、Aはじっと俺の左腕を見つめたまま動かない。
ギプスがゆっくりと開かれていく。
中から現れたのは――
何の傷もない、普通の俺の左腕だった。
肌の色も均一で、痣ひとつない。
信じられないほど、綺麗だった。
試しに手を握る。
指は問題なく動く。
肘を曲げる。
するすると滑らかに曲がり、引っかかりもない。
「……治ってる……」
俺がぽつりと呟くと、Bの手が止まり、視線が合う。
その目には、驚きと困惑がみてとれた。
ギプスのあとの包帯も、次々と外していく。
肩。腹部。足――
どこにも、打撲も、擦り傷も、何もなかった。
静かな部屋の中、ただ2人の呼吸だけが聞こえる。
AとBは、呆然としたまま立ち尽くしていた。
「……ありえねぇ……」
ようやく、小さく漏らすように呟いた。
俺はしばらく黙って、2人の顔を交互に見た。
驚きと困惑がにじむその表情が、少しずつ現実を受け入れはじめているのが分かる。
そして――
ニカッと、笑ってみせた。
「思ったより早く証明できたみたいだな」
◇
朝食を済ませたあと――
俺は、椅子に座ったまま、Aに髪を切ってもらっていた。
小さなハサミの音が、リズムを刻むように耳に響く。
チョキ、チョキと音を立てながら、Aは手先が意外と器用だった。
「……これで、だいぶスッキリしましたよ」
鏡代わりの窓に映った自分の姿は、どこかさっぱりとしていた。
何か月ぶりかに髪を切っただけなのに、心の奥まで軽くなった気がする。
前髪が邪魔そうだった俺の様子を見て、Aが「切りましょうか?」と声をかけてくれたのが始まりだった。
朝食を作ってくれたのもAだ。手際の良さに、なんだか感心する。
刃先の感覚に少し緊張しながら、俺は切り出した。
「……レベル上げって言っても、どうすればいい?」
すかさずAが口を開いた。
「そのへんの奴を、ぶ――」
バシッ。
鋭い音が響いた。
ほぼ同時に、「痛っ」というAの声。
もう見慣れたやりとりに、俺は思わず小さく笑う。
ふぅとため息をつきながらBが言った。
「俺の知り合いに、道場をやってる奴がいる。……そこの門下生から、適当に見繕えばいい」
いつも通りの口調だが、頼りになる男だと、改めて思う。
俺は思わず心の中で"兄ぃ"と呼んでしまった。
♦
道場に向かう前に、向井さんに電話をかけた。
胸の奥がざわつく。
呼び出し音が妙に長く感じられる。
やがて、聞き慣れた声が電話越しに響いた。
「もしもし、吉野くん?」
俺は深く頭を下げるような気持ちで、切り出した。
「……すみません。いろいろあって、バイト、辞めさせてください」
急な報告に、向井さんは戸惑っていた。
でも、俺の言葉をさえぎらず、最後まで聞いてくれた。
「……そっか。何かあったんだね。……身体に気をつけてね」
その声は、優しくて――余計に、胸が苦しかった。
電話を切ったあと、しばらくスマホを見つめたまま動けなかった。
罪悪感が、静かに胸を締めつける。
けれど、約一ヶ月後には、俺は――
この世界にいないかもしれない。
こうしておく方が後々迷惑を掛けないと思ったんだ。
道場へは車で向かう。
移動時間は、だいたい三十分ほど。
Aが運転席でハンドルを握り、Bが助手席。
俺は後部座席に座っていた。
てっきりイカツイ外車かと思っていたが、実際には、街乗りにぴったりの小さな軽自動車だった。
ころんとしたフォルムが、どこか可愛らしい。
助手席から、BとAの他愛ないやり取りが聞こえてくる。
それをぼんやり聞きながら、俺は窓の外に流れる街並みを見ていた。
足元には、鞄が置かれている。
中には、あの“ライブラ”が入ったままだ。
崖から落ちたあの日――ズボンのポケットが破けかけていたから、あれ以来、鞄から取り出していなかった。
道場に着くと、建物の前に一人の男が立っていた。
姿勢は真っ直ぐで、無駄のない立ち姿。
30代前半だろうか。引き締まった筋肉と静かな威圧感をまとっている。
「お久しぶりです」
男は、Bに対して深々と頭を下げた。
「急ですまねぇな」
Bが軽く頭をかきながら応えると、三島と呼ばれたその男は微笑んでうなずく。
俺たちはそのまま中へと入った。
中には、ほのかな畳の匂いが漂っていた。
正面の鏡の前に、すでに数人の男たちが立っている。
「さっき話した通りだが、いいのいるか?」
Bの問いに、三島は一角を指さす。
「あっちにいる3人がそうです。うちの部下です。遠慮なくやってください」
言われた3人の若者たちは、無言で「へい」とうなずく。
顔に笑みはなく、黙々とした空気が場を支配していた。
「英斗、頑張ってな」
そう言ってBが肩を軽く押してくる。
格闘経験が浅い相手を選んでくれているらしい。
……けれど、目の前に立つと圧がすごい。
軽く気圧されそうになる。
でも、やるしかない。
俺は心に喝を入れて一番弱そうな人を選んだ。
3人の中で一番小柄な男だ。
「よろしくお願いします」
軽く頭を下げ、両手を胸元に上げる。
構えは――見よう見まねだが、気持ちだけは込めた。
男は「田中です」とだけ名乗ると、一歩、こちらへ踏み出してきた。
いけるかもしれない――と一瞬思ったが、甘かった。
俺が踏み込んで放った右ストレートは、軽く手でいなされる。
(速い……)
経験が浅いとは言っていたが、やはり俺より数段上だった。
田中が前に出てくるのが見えた。
反射的に俺も前へ出る。
次の瞬間――
「っ……!」
腹に、重たい一撃。
右のボディをもらった。
内臓が震える感覚に、思わず声が漏れる。
けれど、俺は引かなかった。
顔を上げたまま、全力で――相手の腹を殴る。
避けられないなら、受けても構わない。
“肉を切らせて骨を断つ”
その覚悟だけで放った一撃。
拳が腹に沈む手応え。
田中が、ふらりと後ろに下がり――膝から崩れ落ちた。
「……参りました」
途切れそうな声が、畳の上に落ちる。
静かに、そして確かに聞こえた。
俺は、その場で深く息を吐いた。
立ちくらみのように視界が揺れる。
レベル2とはいえ、“ちから”にポイントを全振りしていたのが、功を奏したようだ。
静まり返った道場の中――
いくら元がひ弱だったとはいえ、大人の男が“ちから”に全振りで能力を底上げされた結果――
殴れば、それなりの威力にはなっていたらしい。
休憩を兼ねて、その後しばらく様子を見たが――
レベルが上がる気配は、ない。
ため息をひとつ吐いてから、俺はもう一度拳を握った。
「行くか……」
気合を入れ直し、残る2人のもとへと向かう。
──数十分後。
なんとか、残りの2人も倒すことができた。
ただし、代償もデカい。
顔のあちこちはパンパンに腫れ、鏡を見れば見事なまでの無惨な姿になっていた。
だが、それでも――レベルアップの兆しはなかった。
首をかしげながら、俺は鞄を開く。
中から、例の“ライブラ”を取り出してステータス画面を表示する。
画面に並んだ数値を目にして、思わず声が漏れた。
「体力……28から6って……」
「瀕死じゃねーか……」
Aが画面をのぞき込む。
「それが……例のゲーム機ですか?」
どこか興味津々な様子で、ライブラをまじまじと見ている。
俺はぶつぶつと悪態をつきながら、ライブラを鞄へ戻した。
「駄目だ、上がらねー……」
ひとまず今日のところはここまでにしよう――ということで、
協力してくれた三島さんたちに礼を述べ、道場をあとにする。
帰り道、車内は不思議な空気に包まれていた。
Aが運転席、Bが助手席。俺は後部座席で、頬の腫れを冷やしながら、ぼんやりと外を眺める。
帰りの車で、なんでレベルが上がらないんだろうと話し合った。
格闘経験のないAを倒してレベルが上がり、格闘経験者3人倒してもレベルが上がらない。
この違いはなんだ?単純に経験値がまだ足りないのか?と全員が小首をかしげる。
しばしの沈黙。
そして、Aが不意にぽつりと口を開いた。
「俺が……〇タルスライムだったんすよ」
「え?」
「ほら、アレっすよ。ゲームとかに出てくる、倒すとやたら経験値くれるやつ」
一瞬の沈黙。
「じゃあ明日から毎日倒すわ」
「冗談シタッスマセン!!」
背筋をピンと伸ばしてハンドルに向き直るA。
そのやりとりに、車内がふっと和む。
しばらく走ったあと、Aが再び真面目な声で言った。
「もしかして……敵意があるかとか……」
静かに、車内の空気が変わった。
Bと俺は、同時に声をあげる。
「それだ!!」
お互いの顔を見合わせ、ハハハと笑った。
◇
それから、俺たちはBの家に戻ってきた。
玄関の鍵がカチャリと音を立てると、Aが「俺、車置いてきますね」と言って、そのまま駐車場へと行った。
俺たちは先に部屋に戻る。
夕方の光が、うっすらとフローリングの床に差し込んでいた。
カーテンがわずかに揺れ、静かな風が室内を通り抜けていく。
ソファに腰を下ろすBの背中を、しばらく俺は黙って見つめていた。
俺は今まで、密かにため込んでいたことを口にする。
「……あの」
Bがこちらを向く。
「名前教えて」
ふっと、時間が止まった気がした。
沈黙。
でも、それは気まずさではなく、どこか温かい、緩やかな間だった。
Bが、ゆっくりと笑って言った。
「……そういや、言ってなかったな」
次の瞬間――
俺たちは、堰<せき>を切ったように吹き出した。
笑いすぎて、腹が痛くなる。
床に手をついて、肩を震わせながら笑った。
涙まで出てきて、息が止まりそうになるほどだった。
こんなに笑ったのは、本当に久しぶりだった。
張り詰めていたものが、少しずつほどけていく――
そんな、夜の入り口だった。