第69話 決意×代償×願い④
集中治療室の前に並ぶソファに、俺は無言で座っていた。
背中には、いつも以上の重さがのしかかっている。
一日が過ぎたはずなのに――二人の回復を感じ取れる兆しはなかった。
それほどまでに深く、重いダメージだった。
吉野と葛西。
今なお意識を取り戻さず、白く静かな部屋の中で、ただ機械の音だけが命の証を刻んでいる。
その音さえ、いつ止まってもおかしくない。
薄氷の上に置かれた命。そんな緊張感が、ずっと胸を締めつけていた。
榊原、佐伯、神楽、雨宮――誰ひとり眠ろうとせず、交代もなく二人を見守り続けていた。
「……伊庭君」
その声が、廊下の奥から静かに響いた。
一瞬、時間の流れが止まったような錯覚が走る。
二人が倒れてから、初めてだ。
全員の顔に、ほっとした笑顔が浮かぶ。
白衣の裾をたなびかせ、長いブロンドの髪を優雅に揺らしながら、
マチルダ・グレーベが、まっすぐにこちらへ歩いてくる。
彼女の力で、どれほどの命が救われてきたか――
それを知る者なら、この足音の意味を理解できるだろう。
ヴェルコールからはほぼ二十時間にも及ぶはずだ。
それでも彼女は疲労をまるで見せず、ただまっすぐ俺の前に立った。
「遅くなってごめんなさい」
その声には、わずかに滲む悔しさがあった。
「いえ。間に合ってます。遠くから……本当に……」
マチルダ先生は微笑むと、ふと皆の方へ視線を移す。
「みんな、よく頑張ったわ。……伊庭君、あなたもね」
その声を聞くだけで、胸の奥に熱いものがこみ上げる。
先生の顔を見て安堵した。これで二人は救われる……
彼女の視線が、ガラス越しに集中治療室の奥へと注がれる。
吉野英斗。葛西隼人。
まだ目を開けぬ二人が、そこにいる。
「彼らの状態は?」
「吉野は三肢を喪失。蘇生は奇跡だったが、血流と脳波は維持できている。
葛西は……全神経と筋繊維が崩壊。自発呼吸も不可能です……」
言葉にするたび、胸の奥が痛んだ。
マチルダ先生はゆっくりと、俺の隣に腰を下ろし、目を閉じて胸元で指を組む。
「ここまで、命を抱えてきてくれてありがとう。……でも、これからは私の番ね」
その声音は穏やかで、確信に満ちていた。
一切の迷いがなかった。
彼女の言葉には、「治せるかどうか」ではなく、「私が治す」という決意しかなかった。
「私のスキルでも完治には時間が掛かります。貴方たちは少し眠りなさい……みんな疲れた顔をしてるわ」
優しい声に、誰もが戸惑うように顔を伏せる。けれど、誰一人うなずこうとしなかった。
「もし今、ミッションが発生したらどうするの……伊庭君?
しっかりなさい。……それとも私では不安かしら?」
俺の頭にそっと手を添える。
まるで幼子を安心させるように、力強く、温かく。
「私に任せなさい」
……この人には、本当に敵わない。
「はい……二人を、お願いします」
そう言って深く頭を下げた。
その言葉に続くように、榊原も、佐伯も、神楽も静かに頭を垂れる。
白衣の裾が揺れ、マチルダ先生が集中治療室の扉を開けた。
「あの……」
咲耶の呼び止める声に先生が振り返る。
「私の……せいなんです……二人が……」
絞り出すように声をだす。
「伝えたいことがあるなら、直接二人に伝えなさい。
必ず……伝えさせてあげるから。ね?」
マチルダ先生の言葉に、咲耶はもう一度深く頭を下げる。
そして先生は、静かに扉を閉じた。
「支部へ帰ろう……」
俺がぽつりとそう呟いたとき、誰も反論はしなかった。
振り返れば、淡く灯る光が、まるで二人を包み込むように病室に差し込んでいる。
プレイヤーの死者が減ったのは、偶然じゃない。
マティアスさんがその“土台”を作り、マチルダ先生が命の“支柱”を担っている。
そう、誰もが知っている。
(吉野……葛西……お前たちは、まだ終わっていない)
その言葉を胸に刻み、俺は立ち上がった。
俺たちは一度、病室をあとにした――。
だが心は、あの場所からまだ離れていなかった。
♦
「無茶ばかりして……」
病室の中、二人の顔にそっと触れてみる。
私がこうして誰かの傍に立つときは、決まって重症のときだ。
当然のことだけれど――やはり、心が痛む。
なぜこの子たちが傷つかなければならないのか……
「吉野君は……二度目ね。こんな短期間に、また大怪我するなんて……」
声が届かないのは分かってる。
それでも、語りかけずにはいられなかった。
「みんな、あなたたちを待っているのよ……。
だから、ね――さあ……戻ってきなさい」
二人を包む光がさらに強く輝きだす。
彼女の祈りにも似た言葉が、静かな夜に優しく響いた――。
♦
朝の陽が、静かに山の稜線を照らしはじめる。
昨夜、ようやく皆を支部へ戻し、少しだけ仮眠を取った。眠ったというより、気を失うように意識を落としたという方が近い。
――それでも、夢は見なかった。
枕元に置いていた端末が小さく震える。
ディスプレイに表示された名前を見て、すぐに背筋を伸ばした。
「マチルダ・グレーベ」
通話ボタンを押す。
「伊庭君、朝早くにごめんなさい」
「いえ……先生、何か――」
一瞬、言葉が喉で詰まる。
「ええ。まずは伝えたくて」
先生の声は、静かで澄んでいた。
「二人の治癒完了しました。二人とも大丈夫よ」
……思わず、心の奥がじんわりと熱くなる。
「ありがとうございます……本当に」
「ただ、目を覚ますのは……もう少し時間がかかるかもしれないわ」
「……意識障害、ですか?」
「ええ、どちらも体が限界を超えていたから。とくに吉野君は心肺停止からの蘇生もあったでしょう?
神経と脳が、自発的に“回復モード”に入っているの。無理に覚醒させるのは危険だから――今は、静かに待ちましょう」
「……わかりました」
電話越しの沈黙のあと、先生がぽつりと付け加える。
「本当に強い子たち……すぐに目を覚ますわ」
俺はその言葉に、ふっと微笑んだ。
「先生がそう言うなら、信じます」
通話を終え、立ち上がると、支部の窓の外には朝の光が差し込んでいた。
霧が少しだけ晴れ、遠くの稜線が柔らかく浮かび上がっている。
吉野。葛西。
お前たちは、まだ帰ってきていない。
でも――もう迷子じゃない。
ここには“待っている人間”がいる。
お前たちの居場所は、ちゃんとここにある。
俺は静かに、端末を胸ポケットにしまった。
さぁ皆に伝えに行こう。二人は無事だと。
仲間の安堵する顔が目に浮かぶ、それから二人を迎えに行こう。
彼らの家はここなのだから……