第68話 決意×代償×願い③
吉野の胸が動いていない――その異変に、すぐに気づいた。
「……心拍、停止!」
瞳から光が失われていく。
誰かがそう告げた瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「吉野さん!? いやぁぁぁ!!」
咲耶の絶叫が耳をつんざく。俺は、その声に動じる暇もなく膝をつき、英斗の胸に手を置いた。
「心臓マッサージに入る! 神谷、AEDは!?」
「ここだ!」
神谷がすかさず携帯型のAEDを取り出し、電源を入れる。
「シャツを切れ!」
ナイフを手にした職員が、ためらいなく胸元を裂いた。
「貼る!」
「パッド装着完了!……心電リズム確認中です!」
電子音が機械的に鳴る。
《心室細動を確認。電気ショックが必要です。離れてください》
「全員、手を離せ!」
声を上げると、誰もが息を飲み、瞬時に後退した。
《ショックを与えます。三、二、一……ショック!》
吉野の身体がビクンと跳ねた。
「……っ!」
胸を打つ重みと、喉元にわずかに浮かぶ動きに目を凝らす。
「再度、心臓マッサージ再開!」
すぐに別の職員が胸骨圧迫を引き継ぎ、強いリズムで圧をかけ始めた。
“戻れ……吉野”
俺は喉奥で呟くように願う。
「呼吸、戻らず……血圧ゼロ、SpO₂<血中の酸素飽和度>低下中」
絶望的な数値。だが、まだ終わらせるわけにはいかない。
その横で、咲耶の小さな手が震えているのが見えた。
「お願い……目を開けて……お願いします……!」
涙がぽろぽろと落ちて、吉野の頬に染みていく。
――吉野の身体から、粒子が昇り始めた。
まるで天へと帰るかのように。
それは、命の輪郭がほどけていくようだった。
俺たちプレイヤーはモンスター同様、死体すら残らない。
「英斗!戻りなさい!ここで終わっては駄目よ!消えないで!」
佐伯も叫んだ。まるで、離れ行く魂を呼び戻すかのように。
「心電リズム、再度確認!」
《ショックが必要です。離れてください》
「再ショック……行くぞ! 三、二、一……ショック!」
再び、英斗の体が跳ねた。
――静寂。
「反応なし……心拍、依然ゼロ!」
「再度、胸骨圧迫!」
俺が即座に胸に手を戻す。無心で押し込むたび、骨の軋む感触が手のひらに伝わる。何度も何度も――ただひたすらに命を叩き返すため。
「戻れ、吉野……消えるんじゃない!消えるな!吉野!」
俺も叫び続けた。
「呼吸、戻らず!」
「吉野さん……ライブラの記憶にならないで……お願い」
咲耶が吉野にしがみついた。粒子を逃がさないように。
「心電リズム、再確認!」
《ショックが必要です。離れてください》
「神楽、離れるんだ!」
「再ショック、行くぞ。三、二、一……ショック!」
俺は、喉がひりつくほどの緊張の中、モニターを睨みつける。
「お願い、戻って」「戻れ吉野!」「帰ってきて英斗!」
「……っ、反応あり! 心拍、復帰!」
「呼吸も微弱ながら再開! 意識レベル、反応は……」
まぶたが、かすかに動いた。
「吉野!? 聞こえるか!」
思わず声を荒げる。こんなにも誰かの名前を叫びたくなったのは、久しぶりだった。
「……あ、え……」
かすれた声が、吉野の喉から漏れる。それだけで、胸の奥に熱いものがこみ上げてくる。
「……吉野さん……!」
咲耶が泣きながら、崩れるように吉野の顔にすがりついた。
「よかった……よかった……!」
その言葉が震えていた。だが、確かに届いていた。
伊庭はゆっくりと立ち上がり、空を仰いで大きく息を吐く。
「命は……つないだ」
けれどまだ終わっていない。すぐさま、現実に思考を戻す。
ヘリの音が近づいて来る。
「油断はできん。すぐにヘリで病院へ搬送する。全員、準備を急げ!」
現場には、張り詰めた空気と安堵が交錯していた。
命の灯火は、一度消えかけた。
だが確かに、皆の手で――引き戻された。
“生きろ”
その願いが、彼に届いたと信じている。
♦
搬送用ヘリの重いプロペラ音が遠ざかり、病院の屋上に静寂が戻る。
吉野英斗と葛西隼人、二人のプレイヤーは、それぞれの命を賭して仲間を守った。
そして今――二人とも、集中治療室のベッドの上で静かに眠っている。
深夜の無影灯が、ぼんやりと白く灯るガラス越しのICU室。
ガラスの向こうで機械が規則的な音を立てていた。心電図、人工呼吸器、輸液ポンプ――命の代わりに動いている器械たち。
吉野は三肢を失い、咲耶を庇って石化の光を受けた。
葛西は、吉野を救うためスキルを異常発動させ、身体の限界を超えて山を駆けた。
その代償はあまりに大きい。
神経は焼け、筋繊維は断裂し、自発呼吸すらできない。人工呼吸器が肺を押し広げるたびに、かすかな音が鳴る。
葛西も生きているのが不思議なくらいだった。
ガラス越しに、伊庭は二人を見つめていた。
榊原、佐伯、そして咲耶も、その背後に立ち尽くしている。
「……持ち直したとはいえ、いつ容体が急変してもおかしくない」
榊原の低い声が、静けさを壊さぬように落とされた。
「体は限界を超えている。どちらも、まともに動けるようになるには時間がかかるだろうな」
「二人とも心臓も、脳波も、奇跡的に保たれているそうだ」
俺の言葉に、榊原はゆっくりと頷いた。
「あれで意識が戻るなら……吉野も葛西も“芯”は、想像以上に強い」
佐伯は隣で腕を組みながらも、その手は小刻みに震えていた。
「……彼の体は、今も限界を超えた状態にあるわ。
あれだけの損傷を受けて、蘇生までして――それでも、生きている」
それが、どれほど恐ろしく、そして希望でもあるか。
彼女の目の奥に宿る光が、言葉よりも雄弁に語っていた。
ベッドの脇に据えられた点滴やチューブの数々。
失われた両腕と片足の代わりに、包帯が幾重にも巻かれた断端部。
「吉野……お前は……」
言いかけた声を途中で飲み込む。
そこまでして、何を守ろうとしたのか。
いや、もう分かっている。咲耶だ。――あの娘を、ただ守ろうとしただけだ。
「私が付いていながら……」
佐伯は目線を下げ唇を嚙みしめる。
俺は彼女の肩に手を置いた。
「俺たちの回復力なら、一日持ちこたえればなんとか……」
咲耶は、ただガラス越しに二人の姿を見つめていた。
目の焦点は合っていない。ぽたり、ぽたりと涙が頬を伝っても、彼女は拭おうとしなかった。
その指には、乾ききった血が残っている。
「咲耶」
俺は静かに彼女へ声をかけた。咲耶はぴくりと肩を震わせ、顔を上げる。
「……はい」
「君が泣くと、二人はきっと困るぞ」
咲耶はぎゅっと唇を噛み、伊庭に小さく頭を下げた。
榊原は黙ったまま、じっと隼人の方を見ていた。
管に繋がれ、動かないその姿に、かすかに眉が寄る。
「……無茶をしやがって」
その声には叱責と、同じくらいの深い憂いが混じっていた。
「葛西は、自分が死ぬかもしれないと分かっていて走った」
「ええ、彼の目を見れば覚悟が分かりました」
佐伯の声は柔らかく、どこか寂しげだった。
静かに鳴る医療機器の音が、心音のように重なり続けていた。
命の鼓動が、機械の音に代わって響いている。
廊下を走る足音が聞こえる。
「伊庭さん!」
声の主は雨宮だ。
「マチルダ先生がパリを出ました!二人は?」
そういうと治療室にいる二人を見て言葉をなくした。
「先生が来られるまで、なんとしても繋ぐぞ」
これは誰に向けたわけでもない、俺自身に言い聞かせた。
俺はただ、二人の胸の機械的な上下を見つめ続ける。
“生きろ”
その言葉を、何度も心の中で繰り返す。