第62話 おもてなし
俺たちは新幹線に乗り込み、一路、博多駅へと向かう。
隼人はさっそく駅弁を広げ、咲耶は静かに文庫本をめくり、
雨宮はお馴染みの液タブに向かって静かにペンを走らせていた。
それぞれが、自分らしい穏やかな時間を過ごしていた。
「英斗、次の乗り換え、俺についてきたらええからな」
隼人が自信満々に言っていたが、改札を間違えそうになったのは言うまでもない。
それでもなんとか、指定されたローカル線に乗り換え、車窓からのどかな山間の風景を眺めながら、電車はゆっくりと進んでいく。
「……この辺り、本当に静かですね」
咲耶がぽつりと呟いた。
民家の数も徐々に減り、線路の周囲には山の緑と湯気の立つ川が広がっている。
湯布院の駅に着いた頃には、もう午後を回っていた。
構内の空気はどこか温泉地特有のやわらかさがあり、駅前には観光客の姿もまばらに見える。
そんな中、一台の黒いワゴンが静かに停車した。
運転席から降りてきたのは、30代半ばくらいの小柄で短髪の男性――小柄ではあるが
筋肉はしっかりとついており歴戦の戦士感が伝わってくる。俺たちと目が合うと、こちらに軽く会釈する。
「榊原さん、わざわざスンマセン」
隼人が榊原さんに近づいてく、以前、伊庭さんと一緒に救援に来てくれた人物だ。
「気にするな、隼人、神楽、長旅ご苦労だった、君たちも疲れただろう?」
榊原さんはそういうと後部のドアを開けてくれた。
「よろしくお願いします」
俺たちは順に車へ乗り込んだ。
車はゆっくりと坂道を登りはじめる。
市街地を離れると、窓の外はすぐに森と温泉の香りに包まれた。
舗装された道を走りながら、榊原さんが振り返らずに話しかけてくる。
「支部はこの先、本部と同様に一般の観光客が滅多に立ち入らない山の中にあってね」
「山奥って、どれくらいですか……?」
俺が尋ねてみる。
「ここから約20分ほどだ。支部の温泉は源泉かけ流しで、疲れはすぐに取れるだろう、まずは疲れを癒すといい」
そう言って榊原さんが優しい笑みを浮かべた。
「ええやろ!温泉卵作り放題やねん!」
隼人よ……温泉卵に対する情熱はなんだ?
「関西君、日本支部に来てから毎日食べてましたよね?しかも自分で作って……」
ちょっと引き気味の咲耶に全力で隼人は訴える。
「いやいや咲耶ちゃん!温泉卵めっちゃ美味ない?入れてるだけで出来るんやで?凄ない?
しかも地獄蒸しもできるんやで?知ってる地獄蒸し?」
森を抜けると、やがて視界が開ける。
山の斜面に広がる杉の木々の向こうに――木造二階建ての建物が見えてきた。
「……旅館?」
俺は思わず呟いた。
それはまるで昔ながらの高級旅館のような佇まいだった。
玄関には暖簾<のれん>が揺れ、玄関横には手入れの行き届いた庭が広がっている。
「ついたぞ、ノウシス日本支部だ」
榊原さんの声と共に、車がゆっくりと止まった。
俺たちは車から降りて、しばし言葉もなくその建物を見上げた。
空気が、明らかに違った。
湿度はほどよく、木々の香りと土の匂いが混ざり合っている。
どこか懐かしくて、安心感を覚える場所だ。
「ようこそ、ノウシス日本支部へ」
隼人、咲耶が改めてそう言って、建物の方へ歩き出す。
俺たちも静かに続いた。
玄関の引き戸を開けると、木の香りがふわりと鼻をかすめた。
土間から板張りの廊下へと上がり、足元には柔らかく磨かれた木目。
静かな和楽器のBGMがほんのり流れている。
室内は和風を基調としながらも、所々に現代的な設備が組み込まれていて、落ち着いた美しさがあった。
「荷物は後ほど部屋に運ぶとして……まずは案内するよ。ここで暮らすことになるから、場所くらいは把握しておいてくれ」
榊原さんの声に頷き、俺たちは奥へと案内される。
廊下を進んだ先に現れたのは、開けた広間だった。
掘りごたつ式のテーブルが並び、壁際には本棚や新聞、古い囲碁盤なんかも置いてある。
まるで、田舎の大家族の居間みたいだった。
「ここがみんなの共有スペース。食事もここで取るし、自然と情報交換もこの場で行われる」
榊原さんが静かに語る横で、隼人が小さく口を開いた。
「……なんや、めっちゃ久しぶりに感じる〰」
咲耶も頷く。
「この雰囲気、悪くないね」
雨宮も、どこか目を細めていた。
そのまま建物の奥――一段下がった廊下を進むと、やや湿度のある空気が感じられた。
「こっちは浴場だ。温泉は男女別になっている。葛西が言っていた通り源泉から直接引いている」
そう言って扉を開けて見せてくれたのは、檜造りの広い浴場だった。
湯面からはほんのり湯気が立ち上り、壁の隙間からは山の緑が見える。
「凄いな……ここに毎日入れるなんて……贅沢だな」
俺の目が明らかに輝いていただろう。
アパート風呂狭く浴槽は使わずにシャワーだけだったからだ。
「ここに住むなら入らないと損だ」
榊原さんが少し笑って言う。
そして再び建物内に戻り、それぞれの個室へと案内される。
和室に布団、書き物机、収納棚、窓の向こうには静かな山の景色。
それぞれの部屋は必要十分な広さで、どこか落ち着く空間だった。
一通りの案内が終わった後、榊原さんが最後に言った。
「今日はもう特別な予定はない。荷解きをして、少し休んでくれ。夕食は七時。食堂に集まればいい」
「ありがとうございます」
そう答えると、榊原さんは静かに会釈してその場を後にした。
俺たちは、互いに顔を見合わせる。
どこか張り詰めていた空気が、ようやくほぐれた気がした。
「私……少し荷物整理してきます」
「僕は部屋で絵を書いてるよ」
咲耶と雨宮が部屋をと戻っていく。
「俺も一旦荷物片づけに行くわ、ほな、また後で」
隼人の背中を見送り、俺も一度、自室へと戻ることにした。
ドアを閉め、静まり返った部屋に身を置く。
カバンの中から、そっとライブラを取り出す。
窓から見える静かな山の稜線と、それを照らす西日。
――ここが、新しい日々の始まりだ。
俺は深く息を吸い込んだ。
久々の和室、畳の上に仰向けに寝転がると、い草のいい香りに日本を感じる。
暫くするとノックとともに誰かが入ってきた……隼人だ。小さな籠のようなものを持っている。
「荷物もう片付いたのか?」
「そんななかったからな、それより作ってきたで!」
差し出された籠を覗いてみると卵が一杯入っていた。
「ちょっと小腹空いたやろ?食べりいや、皆も呼んでくるわ」
なるほど皆の分を作ってたのか量が多いと思った。
そういうと部屋から飛んで出ていった。遠くから声が聞こえる。
「さ〰く〰や〰ちゃ〰ん、卵できましたよ〰」
少し間をおいて、
「翼〰温泉卵できたで〰」
隼人が咲耶、雨宮を引き連れて戻ってきた。
「やっぱり初めて来た二人には食べてもらいたいやん?」
雨宮はいつものごとく今も絵を書いている。
「私は初めてではありませんが?」
怪訝そうな顔で咲耶が隼人を見る。
「咲耶ちゃんは久しぶりやろ?そろそろ恋しいやろ?」
「え?うん、まぁ……そう……ですね」
しぶしぶ来た咲耶は押し切られたようだ。
意外にも絵を書いていた雨宮が手を止め卵の殻を剝き始めていた。
「ほら、このお塩使い、これ天然のめっちゃ美味しい塩やねん!うまさ倍増や!」
俺も卵の殻を剥くと隼人の塩を少し付けて食べた。
中は絶妙な半熟で、そして塩がしょっぱすぎず、
角のない丸みのある塩味が素材を引き立てていた。
隼人の言う"美味さ倍増"になっとくだ。
「これ……ほんとに美味しいね」
雨宮が呟くと隼人は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「せやろ!」
「私も美味しいと思いますよ?毎日は……」
隼人の様子に咲耶は言葉を飲み込んだようだ。
どっちが年上かわからなくて、思わず笑ってしまった
「お腹いっぱいに、なったらあかんから地獄蒸しは明日しよ」
これは隼人なりの精一杯の"おもてなし"だった。
卵の黄身が太陽の光に反射して俺の手の中で輝いていた。