第6話 AとB
全身、傷だらけだった。
足を引きずり、どこをどう歩いてきたのか、自分でもよく分からない。
途中、山道でフード付きの服が落ちていた。
迷う暇もなく、それを拾って羽織る。血の滲んだシャツが見えなくなっただけでも、少しだけ安心できた。
フードを目深にかぶると、外の空気が急に遠くなった気がした。
病院か実家に行くことも考えたが、説明する時間が勿体ない。
なにより、本当のことを話しても――きっと誰も信じてはくれない。
あれだけの目にあって、手に入れた情報は、
寿命が尽きれば死ぬということ。
化け物がいたこと、
ライブラには俺の知らない機能がある。
レベルは、2のままで、失った寿命に対して、見返りはあまりにも小さすぎた。
気がつけば、電車に乗っていた。
車内は薄暗く、乗客もまばらだ。
ほとんどの人がスマホを見つめているか、眠りこけていた。
窓の外を流れる景色も、まともに目に入ってこない。
意識が、何度も途切れそうになる。
ようやく、俺の住む町に着いた。改札を抜けると、冷たい夜風が頬を撫でた。
体が重い。足も、手も、思うように動かない。
気を抜いたら、きっとその場で倒れてしまうだろう。
(あと少し……)
ふらつく視界の先に、いつもの牛丼屋の看板が見えた。
そのときだった。
「ドンッ」と、誰かと肩がぶつかった。
(マズい)――そう思った瞬間にはもう遅い。
視界が、にじんで、ゆっくりと暗転していく。
そして、俺は意識を失った。
♦
――目を覚ますと見慣れない景色。
(……どこだ、ここは?)
重たいまぶたの隙間から、ぼんやりとした天井が見えた。
天井灯の明かりがまぶしい。けれど、起き上がる体力はない。
俺は体を動かさず、目だけで周囲の様子を探った。
すぐ隣――誰かが椅子に座っている。
近い。ほんの数歩、いや、腕を伸ばせば届く距離。
ゆっくりと視線を上げる。
すると、こちらをじっと見ていた人物と、目が合った。
「おっ、兄ぃ、目ぇ覚ましました!」
がばっと立ち上がりながら、男は向こう側にいる誰かに声をかける。
その声に応じて、やがてもう一人が姿を現す。
体格のいい男だ。サングラスをかけていて、雰囲気はどう見ても街で絡まれたあの時の――
「あ! チンピラAとB!」
思わず声に出ていた。
「だれがチンピラやねん!」
2人から同時に、盛大なツッコミが飛んできた。
「命の恩人に、いきなりチンピラ呼ばわりとは兄さん、いい度胸だな」
ベッドの脇に立っていたチンピラBが、俺の顔をのぞき込むように身を屈めた。
サングラス越しでも、その目が笑っているのが分かる。
後ろでチンピラAがぼそりと呟く。
「だからほっとこうって言ったのに……」
俺はゆっくりと体を起こし、全身を見下ろした。
包帯が巻かれ、服の下にも何かしらの処置が施されているようだった。
体はまだ重いが、痛みは和らいでいる。
「……助けてくれたのか?」
「見たらわかるじゃん」
Aがふてぶてしく言い放つ。
小声のつもりだったんだろうが、しっかり聞こえていた。
(元気になったら、絶対に一発殴る)
心の中でそう誓いつつ、もう一度問いかける。
「……どうして助けてくれた? 前にトラブルもあったのに」
チンピラBは肩をすくめ、壁に軽く寄りかかる。
「あんな状態で、病院にも行かずにフラついてるなんて――余程の訳ありだろ?
そういうやつ、俺の周りには五万といる。今さら一人増えたくらい、なんてことねぇよ」
その語り口は軽いのに、妙に説得力があった。
「それにな、話を聞いてみたら――迷惑かけたの、こいつだったみたいだしな」
Bが軽く拳を振り上げ、Aの頭を小突く。
「痛てっ!」
Aが頭をさすりながら、むくれたように口を尖らせた。
「これで貸し借り無しってことで、どうだい?」
Bが俺に視線を向ける。
その目は笑っていたが――冗談には見えなかった。
真剣さの奥に、どこか温かさのようなものが滲んでいる。
「兄ぃがいつも金ねぇって言うから、ちょっと借りようとしただけじゃん」
チンピラAが、いつもの調子で口を挟んだ瞬間。
「馬鹿野郎!」
鈍い音が響いた。
Aがうめき声をあげながら、後頭部を押さえてしゃがみ込む。
「だからおめぇはいつまでたっても駄目なんだ」
Bがため息を吐き、頭を振りながらこちらに向き直る。
「……それで? 何があった?」
部屋の空気が、ふっと静まり返る。
2人の視線が、俺の口元をじっと見つめていた。
何を言えばいい?
どこから話せばいい?
いや、そもそも――話して、どうなる?
言葉が、喉の奥でひっかかる。
沈黙が落ち、壁にかかった時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。
「……言えねぇ、か?」
Bが問いかける声は、あくまで優しかった。
「言いたくねぇのなら、それでもいい」
「全身打撲に腕の骨折。当面、動けるようにはならねぇ。……まともに動けるようになるまで、ここにいていい」
そう言い残し、Bは一度背を向けて、ドアのほうへ歩き出す。
その背中を見ながら、俺は思わず口を開いた。
「……いや、ただ……どうにもならない。言ったところで、どうにもならないんだ……」
Bの足が止まった。
そして、ゆっくりと振り返る。
「たしかに、俺に言われても何もできん。いつだってそうだ」
「――でも聞くだけなら、なんだって聞いてやるよ」
Bの声が、ぐっと胸の奥に響いた。
俺は、ベッドの端に手をついて、ゆっくりと上体を起こす。
そして、息を整えるようにひとつ間を置いてから――これまでのことを話し始めた。
魔物のこと。ライブラのこと。
寿命が削られるという、理不尽なゲームの仕組み。
話している間、2人は一言も発さなかった。
まるで呼吸すら止めたように、じっとこちらを見ている。
「……」
沈黙を破ったのは、意外にもAだった。
「それ……なんのアニメ?」
心の中で、深いため息が出た。
(お前はそういう奴だよ。知ってたよ、うん)
「まぁ、なんだ、あれだ」
Bが口を開くが、続く言葉は見つからない様子だった。
それはそうだろう。俺だって、信じるまでに時間がかかったんだ。
「てことはよ、今聞いた話、そのうち忘れるってことか?」
「……だと、思う」
「兄ぃ、やっぱこいつ、今からでも捨ててきましょうよ?」
「おめぇは黙ってろ」
軽く制されたAは、肩を落として縮こまる。
それがあまりに素直で、ちょっと可哀想になってきた。
「その大家? どれくらいで忘れたんだ?」
大屋さんとのやり取りを思い出す。
「たしか……1時間くらいだったと思う」
Bは時計をちらりと見たあと、深く息をついた。
「……そうか。なら、1時間後だ。おめぇは寝ときな」
短くそう言って、Bは立ち上がる。
Aも無言でそれに続き、2人は静かに部屋を出ていった。
気づけば、ひとりになっていた。
誰もいない部屋は、どこか温かくも感じた。
あの2人が、ふざけながらも俺の言葉を最後まで聞いてくれたこと。
信じられたかどうかはともかく、それだけで――なんだか救われた気がした。
ベッドに体を沈めると、Bの言葉に従い目を閉じた。
思考がゆっくりと遠のいていく。
◆
「さん……兄さん」
「死んだんじゃないっすか?」
バシッ――乾いた音が耳に飛び込んでくる。
すぐ後に、「痛っ!」という短い声。
ゆっくりと目を開けると、ぼやけた視界の中に、2人の顔があった。
部屋の中は静まり返っていた。
ほんの数秒の沈黙が、やけに長く感じられる。
(……やっぱり、覚えていないのか)
分かっていたつもりだった。
それでも――実際にその現実が訪れると、胸の奥に冷たい何かが沈んでいった。
「兄さん、2時間くらい経ったぞ……」
「やっぱコイツ、ホラ吹いてるんですよ?」
2人の声が重なり、目がじっと俺に注がれる。
「……さっきの話、覚えてるぞ」
Bの低く、静かな声が空気を揺らした。
俺は、思わず息を呑む。
目の奥がじわりと熱くなった。
「……!!」
何かを言おうとしたが、喉が詰まり、声にならなかった。
喉の奥が焼けつくように熱い。
心臓が、胸を突き破る勢いで跳ね続ける。
それでも――言葉は出ない。
代わりに、涙が一筋、頬をつたった。
(どうして……本当に?)
信じられない。
けれど、嬉しかった。
胸の奥から、熱いものが溢れて止まらなかった。
「兄さんの話は突拍子もなさすぎて、すぐには信じられねぇ。
でも――話を忘れねぇってことは、確かだ」
「忘れねぇってんならよ、嘘かどうか証明することができるんじゃねぇのか?」
Bがぽつりとつぶやく。
その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいた。
「だったら次は、俺たちを信じさせてみろ」
「まったく兄ぃは……」
Aが肩をすくめ、深いため息をつく。
「……信じさせるって言ったって、どうやって……」
俺は、答えの見えない問いを呟きながら、Bを見つめる。
視線がぶつかる。
Bの眼差しはまっすぐだった。
「兄さんの話を聞いてて、気になったことがある」
Bがゆっくりと言葉を継ぐ。
低く、けれどはっきりとした声。
「コイツと喧嘩したとき、レベルってのが上がったんだろ? それでどうなるんだ? 強くなるんだよな?」
俺はうなずく。
「化け物みてぇに強くなるんだろ? だったら、それで証明できるんじゃねぇか?」
Bは身を乗り出すように言う。
「それにな、兄さんの言うライブラ? 他にも持ってる奴がいるんだろ?
でも、誰も信用できねぇんだよな?」
Bの言葉に、心がざらついたように反応する。図星だった。
「だったら、何とかしてミッションってやつをやるしかねぇんじゃねぇのか?
攻略できれば、何か情報が得られるかもしれねぇ」
言葉の勢いが熱を帯びていく。
Aも黙って耳を傾けている。
「レベルを上げて、ミッションを攻略する。それしかねぇじゃねぇか」
Bの視線が、真っ直ぐに俺を貫いた。
「あと何日か知らねぇが――足掻くだけ足掻いてみようや?」
俺は無言のまま、Bの目を見つめ返す。
体はボロボロだ。
腕の痛みも、頭の鈍さも、まだ残っている。
けれど――その言葉に、確かに火がともった。
何もしなくても、どうせ死ぬ。
だったら、最後まで足掻いてやる。
世の中、何があるか本当に分からない。
俺に勇気をくれたのは、2人のチンピラだった。