第50話 穢れ
部屋へ戻ると、出港後のわずかな揺れが足元に伝わってきた。
柔らかく波打つようなその感覚が、再び海の上にいることを思い出させてくる。
俺たちは、それぞれの荷物をベッド脇に置き、一息つく。
沈黙のなかで自然と会話が生まれた。
「……もう海にも慣れたな」
俺はベッドに背を預け、天井を見上げながら呟いた。
「慣れたっていうか、もう開き直ったって感じやな」
隼人は笑いながら、インスタントコーヒーの入ったカップを軽くすする。
「次は……那覇、でしたよね」
咲耶が手元のスケジュール表を確認しながら、静かに言った。
「うん。明後日には那覇港に入る予定」
雨宮が端末をのぞき込んだまま頷く。
「日本に入るって聞くだけで、なんかホッとするな」
俺は目を閉じたまま、ぽつりと続けた。
「帰ったら、何する?」
その問いに、一番に反応したのは隼人だった。
「温泉やろ。日本帰ったら温泉。旅館で風呂入って、浴衣でごろごろして、布団で爆睡。それが最高や」
想像しただけでとろけそうな顔をして、隼人はうっとりと笑う。
「……悪くないですね」
咲耶が珍しく、くすりと笑った。
「じゃあ、無事に帰ったら――温泉、行くか」
俺は笑いながらそう言った。
「そのためにも、あと数日、気を抜かずにいこう」
窓の外では、朝日が水面を照らしていた。
船は静かにエンジンを響かせながら、青く深い海を滑っていく。
しばらくの間、船室に静けさが戻った。
「そういえば隼人。俺が山で見た、あの化け物の話……」
沈黙を破ったのは俺だった。
「ああ……教える言うてたな」
隼人が身体を起こして、真顔になる。
「英斗が山で見たバケモンな……あれ、人間や」
「にん……げん?」
咄嗟に聞き返す俺に、隼人は言葉を選びながら続けた。
「……俺らは“穢れ人”って呼んどる」
「プレイヤーが人を殺してしもたらな……徐々にバケモンになってくねん」
その声はいつになく低く、重かった。
「まるで呪いだな……」
背筋がぞくりとした。
「罪で穢れる……だからその名がついたんだ」
雨宮が補足するように話す。
脳裏に浮かんだのは――崖の上で、シゲルが言っていた言葉だった。
“直接殺すな”。
あれはただの残虐な遊びではなく、穢れ人になるのを避けようとしていたのか。
岩屋も処理班を連れてくればと言っていた……
プレイヤー以外に始末させれば穢れ人にならないということか。
「彼らは……姿は変わってもプレイヤーなんだ」
雨宮は続ける。
「寿命を稼ぐために、ミッションに参加してくることもあるよ」
「自我は残ってるのか?」
「残っている者もいれば、ない者もいるね」
「自我がない奴も参加するのか?」
「本能……みたいなものなかもしれないね、自我の無い穢れ人は人間、モンスター関係なく襲うんだ。」
「因みにモンスターと間違えて穢れ人を殺してしまうと、そのプレイヤーもまた穢れ人になる……」
「……見分ける方法はあるのか?」
俺の問いに、咲耶が静かに答える。
「肩から胸にかけて、独特の痣が浮かんでいます。それで判断するしかありません」
パリの魔人、山で出会ったあの魔獣。
確かに……痣があった。
連れ去られたリザードマンは見えなかったが、あれも――。
「厄介だな……」
「それだけやないで」
隼人の声が重なる。
「スキルも変わらず使えるし、見た目通り身体能力も跳ね上がる」
「山でテミス?だったか?黒手袋の連中がリザードマンみたいな、
穢れ人を連れ去るのを見たんだけどあれは?」
「僕たちノウシスにも、穢れ人はいるよ」
「意識のある者は説得するけど、自我が無いものは、
そのままにはしておけないから、捕まえて連れ帰るようにしているんだ」
「元に戻す方法がないか、研究していてね」
「……テミスも似たようなことをしてる、ってことか?」
「かもしれない」雨宮は遠くを見るような目で続けた。
「でも――目的は、きっと違う」
遠くを見つめぽつりと呟いた。
「寿命を奪い、記憶を改ざんさせ、化け物になる……ライブラって……なんなんだよ」
「吉野君だけじゃなく……それは皆が知りたいこと……だよ」
雨宮の声は静かだった。
「分かってることは寿命のために、ミッション報酬を得るしかない……それだけや」
隼人がつぶやくように言ったその言葉に、全員がただ、静かに頷いた。
「……まあ、話してたら腹減ってきたな」
その言葉に、全員がただ、静かに頷いた。
隼人のぽつりとした一言に、ゆるく張り詰めていた空気がふっと解ける。
誰からともなく立ち上がる気配が生まれた。
「そろそろ夕食の時間ですね」
咲耶が手元の時計を確認する。
「二人とも船酔いは大丈夫なのか?」
「酔い止めって最高やな!人生で初めて飲んだわ」
隼人がケロッとした顔で笑う。
「波が穏やかなこともあるかもしれませんが……私も薬が効いているみたいです」
咲耶が控えめに頷いた。
食堂へと向かうと、すでに数名の乗員たちが静かに夕食をとっていた。
カウンターに並ぶ料理は見た目も良く、意外にも食欲をそそる。
「臭豆腐はないみたいだな?」
俺が冗談めかして言うと、隼人と雨宮が同時にジト目を向けてきた。
「ちょっと、味濃くないですか?」
咲耶がスープを口にしながら、眉をひそめる。
「塩分補給のために濃い目にしてるんだよ」
雨宮が説明する。
「……なるほど」
咲耶は感心したように頷いた。
夕食を終えたあと、俺たちはそれぞれの部屋へと戻る。
長旅の疲労と、穏やかな波の揺れが体を包み込み、自然と眠気が押し寄せてくる。
「……寝るわ」
隼人はベッドに倒れ込むなり、ものの数秒で寝息を立て始めた。
「今夜は波も穏やかだね」
雨宮が端末を閉じ、毛布を整える。
俺もライトを消し、ゆっくりと目を閉じた。
船の振動と遠くの波音が、意識を静かに引き込んでいく――
◇
ピピ――ッ、ピピ――ッ!
電子音が唐突に闇を裂いた。
「……っ!?」
目を見開くと、室内にライブラの警報音が響いていた。
寝ぼけた頭が一気に冷水で叩き起こされたように覚醒する。
【警告:ミッション発生】
「……マジかよ……」
ベッドから飛び起き、ライブラの画面を確認する。
【ミッション】
討伐依頼
ランク:C
人数:4
期限:12時間以内
場所:現在位置周辺(地図を表示)
「吉野君……」
隣で目を覚ました雨宮が、寝癖のついた髪をかきながらこちらを見る。
「っ……また……ですか」
咲耶の声が、すでに扉の外から聞こえてきた。
どうやら彼女はすでに準備を整えているらしい。
「マジで?」
寝起きの隼人が顔を上げる。
ミッションのピンは――“船のすぐ近く”。
俺たちは、再び夜の船内へと駆け出した。
「ある意味ラッキーかも。今なら乗員のほとんどは寝てるだろうし」
走りながら呟くと隼人が答える
「せやな。船内に侵入されんように立ち回らんとな」
「皆、準備はいいか?」
全員がうなずいた瞬間――
「武装展開!」
掛け声と同時に、俺たちの身体に装備が展開される。
金属が重なるような音が小さく響いた。
――その瞬間。
船が、ぐらりと大きく傾いた。
「なんや……!?」
思わず壁に手をつく。
「……何かが見える……」
雨宮が静かに言い、指を指した。
俺たちは甲板へと駆け上がり、彼の指す先へと目を向ける。
闇の中――
波間に、ゆっくりと渦が広がっていた。
それは明らかに自然ではなかった。
不気味に、確実に、何かが“こちら”に向かってきている。
静まり返った夜の海で、再び――戦いの幕が上がろうとしていた。