第5話 絶望
「処分って……?」
ゆっくりと後ずさりしながら、俺は問いかけた。
声は震えていた。口の中が乾いて、言葉が舌に引っかかる。
シゲルは鼻で笑い、冷ややかに言い放つ。
「仲間に誘おうかと思ったんですが……センスなさすぎで、がっかりですよ」
その一言で、空気の色が変わった。
岩屋が、下卑た笑みを浮かべながら付け加える。
「わざわざ、お膳立てしてやったのに、腹立つっすねぇ」
俺の背中に、冷たいものが走る。
不自然な静寂の中、手元を見て凍りついた。
——包丁がない。
ゴブリンに倒されたときに落としたのか。
(マズイ……!)
思わず心の中で呟く。
あのとき感じた“仲間に会えた安堵感”は、一瞬で粉々になった。
肌を刺す冷気のような恐怖が、胸の奥からせり上がってくる。
「……ひとつ、いいこと教えてあげますね」
シゲルが楽しげに言った。
その笑顔が、氷のように冷たい。
「さっき話した“寿命の話”、嘘なんですよ」
……え?
頭が真っ白になった。
シゲルの瞳が冷たく光る。
「じゅ〜みょ〜う、0になると……死んじゃいます」
——雷に打たれたかのような衝撃。
体が固まり、思考が追いつかない。
「ちなみに“エクスヴェイド”すると、寿命が消費するのは本当です。5年なくなっちゃいます。
残念ですね、英斗さん、1回使ってましたよね。だから、残り……何年ですかね?」
心臓が、喉元までせり上がる。
突き動かされるように、俺は叫びながらシゲルに殴りかかった。
だが――
「っ……!?」
シゲルは、避けようともしなかった。
俺の拳を片手で軽く受け止め、そのまま無表情で俺を持ち上げる。
次の瞬間――視界が、跳ね上がった。
空が見える。
飛ばされた……人間の力じゃない!!
浮遊感。
続いて――
ドンッ!!
「ぐぁっ!!」
地面に叩きつけられた衝撃が、全身を突き抜けた。
息が詰まり、痛みが脳を焼く。
もがこうにも、体に力が入らない。
シゲルが、にこりと笑いながら近づいてくる。
「じゃあ、残ってる寿命、もらいますね」
(……なにを言ってる? 寿命を、もらう?)
シゲルが、俺の胸に手をかざす。
「俺も、分けてほしいっす!」
間髪入れず、岩屋が声を上げた。
シゲルは笑みを浮かべたまま、軽く頷く。
「僕は3年。残りはあげるよ」
「ヴェルギス!」
シゲルがそう叫んだ瞬間――
白い光が、俺の体から吸い上げられていく。
それはふわりと宙を漂い、シゲルの手の中へと吸い込まれて消えた。
「やっぱり、バトルするまでもなく奪えますね」
満足げに、シゲルが微笑む。
俺は、地面に伏したまま、拳を握りしめた。
何が起きているのか――まだ、理解しきれていない。
だが、それでも。
悔しさだけは、はっきりと胸の奥にこびりついていた。
涙が、こぼれ落ちる。
情けなくて、腹立たしくて、止めようがなかった。
「次、俺の番っス」
岩屋が、俺に手をかざす。
「取り過ぎて殺すなよ」
シゲルが、軽く釘を刺すように言った。
「分かってるっスよ」
岩屋はニヤリと笑い、短くそう呟いた。
「ヴェルギス!」
まただ。
胸の奥から白い光が吸い上げられ、岩屋の手の中へと消えていく。
「英斗さん、ごちそうさま」
シゲルが、静かに立ち上がった。
「岩屋君、始末は任せるよ。直接殺さないように気をつけるんだよ」
直接……殺さない?
嫌な予感がする。
岩屋が俺の腕を掴んだ。
「ちょうどいい崖があるから、それを利用するっす!」
——やめろ。
俺は痛みをこらえ、必死にもがく。
だが、岩屋の手は鋼のように固く、ビクともしない。
——崖の前に立つ。
「やめろ!! やめろ!! やめろ!!!」
俺の願いなど意に介さず、岩屋は無言のまま、俺の体を持ち上げた。
――落ちる!!
思わず目をぎゅっと閉じる。
……だが、落ちない。
ゆっくりと、恐る恐る目を開ける。
――岩屋が、俺の手を掴んでいた。
下を見れば、地面は遥か下。
俺は、宙吊りの状態でぶら下がっている。
なにをしている……?
助けようとしているのか?
いや――弄んでいるのか?
岩屋はゆっくりと、俺の手を崖際へと近づけていった。
まるで——**「しがみつけ」**とでも言うように。
戸惑いながらも、俺は必死に崖の縁にしがみついていた。
指にかかる自重が、じわじわと肉を裂くように重い。
「あ〜面倒。処理班、連れてくりゃよかったっスねぇ」
岩屋が気だるげに呟いた、その瞬間。
——ドンッ!!
地面が鳴動し、崖全体が震えた。
直後、凄まじい衝撃が腕に伝わり指が離れそうになる。
ドンッ!!
岩が軋み、縁に亀裂が走る。
音が、悲鳴のように耳を貫いた。
崩れる——そう、まさに“崩されようとしている”のだ。
脳裏に、シゲルの声がよみがえる。
『直接殺すな』
……そうか。
事故に見せかけるつもりか——!
指が、一つ、また一つと力を失っていく。
崖が崩れるのが先か。
それとも、俺の握力が尽きるのが先か——。
(死にたくない!!)
全身が叫んでいた。
脳が、心臓が、骨が、筋肉が、血液が、神経が。
肉体のすべてが、全力で生を渇望していた。
「生きたい!!!」
声にならない絶叫が喉を突き破る。
その時だった。
遠くから、大地を震わせるような音が響く。
ドン……ドン…… まるで太鼓のような重い音。
間隔が短くなるにつれ、地面の振動も強くなっていく。
岩屋が動きを止め、周囲を見渡す。
轟音。振動。空気が震える。
——何かが来る。
木々が揺れる。次の瞬間、それは見えた。
巨大な影。
黒い塊が、地を蹴り、木々をなぎ倒しながら駆け下りてくる。速い。ありえないほど速い。
まるで、山がそのまま襲いかかってくるように。
シゲルの声が聞こえる。「岩屋!装備しろ!」
その声と同時に、それは表れた。
獣の咆哮が大地を揺るがす。
岩屋が呟く。
「アバドニス……なんで、こんなとこに」
3メートルはあるか。いや、それ以上かもしれない。
その巨体は、闇の中でも異様な存在感を放っていた。
頭部は獣。だが、ライオンなどではない。
もっと原始的で、禍々しい何か——牙は刃のように鋭く、口の奥からは低いうなり声が響く。
腕は丸太のごとき太さ。それが動くたび、
骨と筋肉が軋む音が聞こえるようだった。
そして、その肩から肘にかけて、黒い炎のように揺らめく痣が刻まれている。
皮膚の上を這うそれは、まるで内側から漏れ出す呪いのように、微かに光を孕んでいた。
指先には、黒く光る爪。いや、爪というよりも、
それは殺すための鉤。肉を裂き、骨を砕くために生まれた凶器。
尾は鞭を思わせるが、より禍々しく、地を叩けば土煙が舞うほどの重量感。
そして——目。
その瞳は、ただの赤ではなかった。燃えていた。まるで地獄の業火を宿したような、濁りなき炎。
そいつは、2本足で立っていた。
まるで、地獄から這い出てきた化け物のように——。
いつの間にか、シゲルは騎士の姿になっていた。
「戦うな……に」
——次の瞬間、シゲルの身体が、掻き消えた。
否——違う。
消えたのではない。
——弾けたのだ。
「……!?」
どこからか、ぬるりとした音が聞こえた。
視線を向ける。
そこにあったのは、異様な光景だった。
下半身だけが、ぽつんと残されている。
まだ立ったまま、主人を失ったことに気づけずにいるかのように。
——それが、ゆっくりと、膝から崩れ落ちた。
何が起きた?
理解が追いつかない。
だが——うっすらと、視界の端に見えた。
化け物の爪先から、ゆっくりと滴る紅い雫。
——それだけが、無言に事実を語っていた。
岩屋は、思い出したように突然走り出した。
だが——
数歩。たった数歩しか進まぬうちに、目の前に“それ”がいた。
——いつ動いた?
いや、そもそも動いたのか?
あまりにも速すぎて、移動したという認識すらできなかった。
ただ、次の瞬間には、そこに“化け物”がいたのだ。
「う、あ……っ!」
岩屋の喉から、潰れた悲鳴が漏れた。
その瞬間、獣じみた腕が天を裂くように振り上げられる。
それは斬撃ではない。殴打でもない。純粋な“破壊”だった。
化け物は、一切の迷いもなく、ただ——振り下ろした。
空気が悲鳴を上げる。
地面が割れ、轟音が爆ぜる。
——死ぬ。
そう理解するよりも速く、衝撃が岩屋を襲った。
衝撃が大地を走った。
否——それはまるで大地そのものが悲鳴を上げたかのようだった。
俺が掴んでいた崖が、裂ける。
「——ッ!!」
指先に伝わる感触が、砂のように崩れ落ちていく。
俺の身体は、支えを失い、重力に飲み込まれた。
視界が回転する。その端に——
化け物の巨大な腕が、ゆっくりと引かれていくのが見えた。
——その先には、何もなかった。
誰もいなかった。
最初から、誰も存在しなかったかのように——
崖下へと落ちながら、意識が遠のいていく——
♦
——次に目覚めたのは、死の世界ではなく、痛みの中だった。
どれほどの時間が経ったのか分からない。
全身が鉛のように重い。肺が圧迫されているのか、呼吸が浅くしかできない。
目を開くと、真上に崖が見えた。
生きている。なぜだ……?
ゆっくりと、確かめるように指先を動かす。次に腕、右腕は無事...左腕を動かすと脳に衝撃が走る
——折れている。嫌な汗がにじむ。
そして脚。激痛が走るが、折れてはいないようだ。
俺は確かに崖から落ちた。普通なら助からない高さだった。
——そのとき、周囲を見回して気づく。
崖に生い茂る木々。その枝があちこちで折れ、血の跡を残している。
どうやら、落下中に何度も枝にぶつかりながら落ちたらしい。
それだけではない。地面の下草や柔らかい土が、衝撃を吸収したのだろう。
もし岩肌の上に直撃していたら、確実に死んでいた。
起き上がれるか……?
体をわずかに動かしただけで、鋭い痛みが走り、苦悶の声が漏れた。
それでも、俺は膝をつきながら、ゆっくりと、ぐらつく足で立ち上がる。
あの“化け物”は——
いったい何だったのか。
それは、死。
それは、破壊。
それは、暴力。
人智では捉えきれない“何か”が、形を持ってこの世に現れたような存在だった。
ただそこに在るだけで、世界を圧倒し、空気すら凍らせる“災厄”。
圧倒的な、存在。
その“死”を、間近で見たとき——
俺は、生を感じた。
命の灯が風前の灯となる、その一瞬。
極限まで追い詰められたそのときに、俺の中に確かにあったのは、
燃えるような感覚だった。
俺は、まだ——
死んでいない。
ポケットから、手のひらに収まる“それ”を取り出す。
ライブラが、静かに光を放つ。
浮かび上がる数字が示すのは——
『寿命:30日』
俺は、まだ——
生きている。
息を吸い込む。
痛みと熱が、胸の奥から押し寄せてくる。
それでも、俺は思う。
まだ、”生きられるんだ”と……