第48話 Urna Malefica(ウルナ・マレフィカ)
スキュラとの死闘から、数時間が経過していた。
波の上に広がる夜――
その静けさはまるで、嵐のすべてを飲み込み、押し黙ったかのようだった。
戦いを終えた船の甲板は、どこか“欠けた”ような空気に満ちていた。
誰もがそれを感じ取っていた。
けれど、その正体を言葉にする者はいなかった。
焦げた鉄の匂い。
海に染み込んだ、血と硝煙の余韻。
そこに確かにいた“何か”の存在感が、空間だけに残っていた。
船内では、乗組員たちがぽつぽつと声を交わしていた。
「あいつ……落ちてったの、見たか?」
「いや……たしか、波に呑まれて……」
「でも救助されたのは、一人だけだったよな?」
その声はひどく曖昧で、不安定で、どこか確信が持てない響きをしていた。
そして――
「……あれは“事故”だったんだ。たまたま波が荒れて、数人が転落して……戻ってこなかっただけだ」
誰もが、同じように語っていた。
まるでそれが“本当の記憶”であるかのように。
――そう、記憶は書き換えられていたのだ。
ライブラの記憶改ざん機能が、またしても静かに発動していた。
彼らの脳から魔物は消え、仲間の死までもが“事故”という形に変えられていた。
◇
夜。
俺たち四人は、船室に戻っていた。
冷え切った空気が船内を満たし、わずかに軋む床の振動が、今日の疲れを静かに思い出させる。
けれど誰も、ベッドに倒れ込もうとはしなかった。
身体は疲れている。
なのに、心だけが、妙に冴えていた。
「……なんとかなったな」
俺はふと、呟いた。
その声が、ぴんと張った空気に波紋のように広がる。
咲耶は、椅子に腰掛けたまま、背筋を伸ばし、膝の上に両手を揃えて置いていた。
その指先が、かすかに震えていた。
「……被害は、出てしまいましたが」
絞るような声だった。
咲耶は、自分を責めているようにも見えた。
「気にせんでええ」
隼人が、壁に背を預けながら低く言う。
「出来ることはやったんや。全員にバケモンでるから“逃げろ”言うても、誰も信じよらん。咲耶ちゃんかて、それ分かっとるやろ?」
「俺は仲間が無事なら、それでええ……」
重い言葉だった。
「でも……うん」
咲耶は、何かを言いかけたが、そのまま言葉を飲み込んだ。
部屋の空気が、また少し静かになる。
「……それにしても」
隼人が天井を見上げながら言葉を継いだ。
「なんでや? 移動中にミッションが発生するなんて、今まで聞いたことない。飛行機に続いて、これで2回目やで……おかしいやろ」
そう言って、ゆっくりと皆の顔を見回す。
「僕も……ずっと考えていたんだ」
雨宮が、小さく呟くように言った。
液タブを抱えたまま、伏し目がちに続ける。
「……思い当たることが、一つだけある」
その言葉に、咲耶が顔を上げ、隼人がゆっくりと目を細めた。
室内の空気が、音もなく、重く沈んでいった。雨宮はベッドに腰掛けながら考えるように話し出した。
「思い当たること?」
俺は、雨宮に問い返した。
彼は軽く頷くと、いつも通りの淡々とした口調で話し始めた。
「うん。実は、ヴェルコールを出発する前に――マティアスさんから“壺”を預かったんだ」
「壺?」
「レオンさんが、ミッションの報酬として手に入れたものらしい。日本に行くついでに、それをルパートさんに届けてほしいって頼まれたんだ」
「彼は学者でもあり、古代の品や儀式道具のコレクターでもあるからね。保管の意味でも価値の面でも適任だと判断したんだと思う」
雨宮がそっと指を動かす。
「……カプサ」
その一言と共に、空気がかすかに揺らいだ。
空間の一角がわずかに波紋のように揺れ、そこから壺が現れる。
重厚な黒土の質感、禍々しさを帯びた文様――
それを見た瞬間、部屋の空気がほんの少しだけ、重くなった気がした。
誰も何も言わない。
けれど、確かに“何か”がそこにあると、全員が直感していた。
「……これだよ。アイテム名は、《ウルナ・マレフィカ》」
「では雨宮先生は、その壺が……敵を引き寄せていると、そう仰りたいのでしょうか?」
咲耶が、いつになく低い声で静かに尋ねた。
「ライブラの説明文には“高価な壺”としか書いてないけど、ライブラの説明は当てにならないからね」
「せやな。『強欲の石』も、“奇麗な石”だけやったしな。いろいろ効果あるのにな」
隼人が肩をすくめる。
「じゃあ、日本に帰るまでに――またミッションが発生する可能性もあるってことか?」
俺の問いに、雨宮は目を伏せ、静かに頷いた。
「……可能性は高いと思う。だから、備えておくべきだと思ってる」
「けど……そのルパートって人に渡して大丈夫なのか?」
「正直、分からない。でも彼は“プレイヤー”じゃない。
ミッションが発生するのは、あくまで所持している“プレイヤー”に対してだけ。
もしこの壺が引き金になってるなら、僕らが持つよりは、彼に預けたほうが安全かもしれない」
しばし沈黙が落ちる。
静かに、隼人が口を開いた。
「それでや……台湾に着いたら、どないする? 正直、もう飛行機は勘弁してほしいんやけど。飛べば3〜4時間で日本やろ?」
「……うん。時間が短い分、ミッションに巻き込まれる確率は低いと思う」
雨宮が腕を組み、考え込む。
「でも……万が一、また“空”で襲われたら――正直、そう何度もうまくいくとは思えない」
「そやな。空で逃げ場ないのは、やっぱキツいわ」
「……ミッションが発生するとしても、まだ“海”の方がマシ、だな」
俺は、ぼそりと呟くように言った。
船の揺れが、微かに床を軋ませる。
窓の外では、濃紺の海が静かにうねっていた。
♦
次の日
港の風が変わった。
それは、湿った熱気の中に混じる、陸の匂いだった。
「……着いたな」
俺は甲板の手すりに手を置き、遠ざかる海を見つめながら、小さく息を吐いた。
《グロリア・マリーン5号》が、ゆっくりと台湾・高雄港へ接岸する。
船体が軋むたびに、揺れに弱い誰かの呻き声が小さく漏れる。
「ぅぅぅ……はよ降ろしてぇ……」
柵にもたれた隼人が、虚ろな目で空を見ていた。まだ顔色は悪い。
「あと数分で……地上です……がんばってください」
咲耶もまた、手すりに手をかけたまま、白いタオルを首に巻いている。
背筋は辛うじて伸ばしていたが、額にはじっとりと汗が浮かんでいた。
「……思ったより都会だな」
雨宮がぽつりと呟きながら、ゆっくりと液タブの電源を切った。
彼だけが、まるで何事もなかったかのように涼しい顔をしている。
港の出国処理はノウシスの手配でスムーズだった。
すでに咲耶が事前に手配していた車が、埠頭のそばで待っている。
「それでは……ホテルへ、移動しましょう……」
ふらつきながらも、咲耶はドアを開け、全員を車へと案内した。
◇
高雄市内――
チェックインしたのは、中心部にある中規模のビジネスホテルだった。
観光客向けというよりは、静かに過ごすための、落ち着いた雰囲気の場所。
「……あ、あかん。地面が動かへんって……最高や……」
隼人が部屋のドアを開けた瞬間、靴を脱ぐ間もなく床に倒れ込んだ。
まるで陸に感動しているかのように、フローリングに頬を押し付けている。
「関西君……不衛生ですから、やめてください……」
咲耶がため息混じりに言いながら、そっと額を押さえた。
「では、私は隣の部屋にいますので」
「えっ、咲耶ちゃん一人部屋? ずるない?」
隼人は床にへばりついたまま、声だけで抗議した。
「相部屋なんて……死んでも嫌です」
冷たい口調を残し、フラフラとした足取りで隣室へと消えていった。
「……いい景色だね」
雨宮がベッドに腰を下ろし、窓の外へ目をやる。
建物のネオンがガラスに映り、部屋の空気にほんのりと彩りを添えていた。
「とりあえず、落ち着いたな……」
俺も荷物を下ろし、ベッドの端に腰をかける。
しばらくの間、誰も言葉を発さなかった。
ただ、それぞれの呼吸が、ようやく日常に戻っていくような静けさがあった。
「……もう一泊くらいしたいな……」
隼人が床に倒れたまま、天井を見上げてぼそりと呟いた。
「……まあ、静かな街の風景くらいなら……悪くないかもね」
雨宮が微かに笑った。
「……隼人と咲耶がこの様子じゃ、観光は俺と雨宮だけだな」
俺がぽつりと呟いたときだった。
「はぁ!? ふたりだけで行くとか、ずるない!?」
床にへばりついていた隼人が、急に跳ね起きた。
さっきまで瀕死だった人間とは思えない反応速度で俺の肩を掴んでくる。
「ひどない!? ふたりだけ!? ”友達”置いてくとかありえへんて!」
「え、いや、隼人死にかけてたし……」
「いやいやいや、台湾楽しみにしててんで!」
隼人は床に転がっていたタオルを肩にかけ、即座に観光モードに切り替えた。
死にかけていた隼人が部屋を飛び出していった。
ドンドンドン
「咲耶ちゃん、咲耶ちゃん!」
隼人を追いかけると咲耶の泊まっている部屋のドアを叩いていた。
ドンドンドン
「はよせな置いてかれるで!」
するとドアがゆっくりと開かれた。
「行くで! 咲耶ちゃんも準備や準備!」
「……は?」
部屋から顔を出した咲耶が、眉をひそめた。
「無理です。私は寝ます。今すぐ寝ます。おやすみなさい」
そう言って、扉を閉めようとした瞬間――
「いやいやいやいや、咲耶ちゃんも行こ!」
隼人がドアの隙間に滑り込み、手を引こうとする。
「や、やめなさい関西君! 服が……ぐいぐいしないでください!」
「体調回復には外の空気や! ええ景色見て、おいしいもん食べて、笑って、それが一番効くんやで!」
「今の私に必要なのは静養と安静ですっ!」
「大丈夫やって!観光地なんてゆっくり歩くとこばっかやから!」
「ぐ、ぐぬぬぬぬ……!」
隼人が服を引っ張る手を離さない、静かな攻防が繰り広げられる。
――数分後。
咲耶はロビーに姿を見せた。
落ち着いた私服姿で腕を組み、目元にうっすらと不満の影をにじませながら。
「……仕方なく来ただけですからね」
視線を逸らしながらそう言う。
「はいはい、ありがとうな〜!」
隼人は勝ち誇ったように笑みを浮かべ、ダブルピースを決めていた。
「……で、どこ行くの?」
雨宮がぼんやりとした表情で尋ねる。
「夜市! 台湾といえば夜市やろ!」
隼人が即答する。
即答だった。
いつの間にかスマホを握って、地図まで表示している。
こうして俺たちは、
体力ゼロのはずの二人も引き連れて、温かな屋台の光、人々の賑わいの高雄の街へと繰り出すことになった。