第45話 船旅
船がマニラ港を離れて半日ほど――
海は穏やかだが、空はやや霞み、波はゆっくりとうねるように続いている。
俺は甲板のベンチに腰を下ろし、潮風を感じながら、仲間たちの様子を見ていた。
「うっ……うぅ……」
微かな呻き声が背後から聞こえてくる。
振り返ると、咲耶がデッキチェアにうずくまっていた。
普段なら背筋をぴんと伸ばし、凛とした雰囲気を漂わせる彼女が、今はぐったりと力なく毛布にくるまっている。
肩にかけた白いタオルがずり落ちているのも気づかず、唇がかすかに震えていた。
「……吉野さん……どうして……地面が……動いているんですか……」
うつむきながら、途切れ途切れ声を絞り出す。
「えーっと……それはたぶん、船だからだな……」
咲耶は、じわりと片目だけを開けた。
いつもの鋭さはまるでなく、目元がやたらに潤んでいる。
「こ、これほどとは……おそるべし、船……」
タオルをぎゅっと握りしめ、今にも「もう帰る」と言い出しそうな表情だ。
(……人間はな陸におるべきやねん……)
隼人は柵にぐったりともたれかかっていた。
その隣では、唯一いつも通りの男がいた。
「二人の表情……いいね……」
そう呟きながら、雨宮は静かに液タブを走らせていた。
レーダーのように観察を繰り返し、苦しむ二人の表情をスケッチしている。
机の代わりに膝の上に板を置き、姿勢はいつも通り。どこか周囲のことが目に入っていないようにも見える。
「……さすがだな」
思わず、そう呟いた。
「……はやく陸地に戻りたい……」
咲耶がタオルに顔をうずめながら、くぐもった声でつぶやく。
普段とのギャップが、思わず笑みを誘った。
「あと一晩耐えれば、明日には高雄港だよ」
俺がそう声をかけると、咲耶は布団の中からほんの少しだけ親指を立てた。
「……善処します……」
まるで言葉にならない返事だったが、それが今の彼女の全力だったのだろう。
――なんだかんだで、こうして少しずつ、“仲間”って感じになってきたのかもしれない。
俺は空を見上げた。
夕暮れに染まりかけた水平線が、今日という一日を穏やかに閉じようとしていた。
ライブラが警報音を響かせた
雨宮が呟くように言った。
「移動中にまた?こんなのありえない……」
それぞれミッションを確認する。
【ミッション】
討伐依頼
ランク:C
人数:4
期限:3日
場所:地図を表示する
地図を開くと、船の進行方向に赤いピンが刺さっていた。
それは、数時間後に到達しそうな位置。
まるで、船の“行き先”そのものが狙われているように見えた。
「飛行機の時みたいに強制参加じゃない……なら、ミッションを無視するって選択もアリじゃないか?」
俺が問いかけると、雨宮が静かに口を開いた。
「……たしかに。強制じゃない。拒否も、できる」
彼の目は、どこか沈んでいた。
「でも……」
そこに割って入るように、葛西が声を上げた。
「ほな教えたるわ、ミッションを放置してどうなるか」
ゆっくりと視線を船の進行方向に向けたまま、低く呟く。
「期限切れに残されたバケモンはな……全身から毒を撒き散らす。
しかも、広範囲に、エグイ速度でや、聞いた話やけどな」
雨宮が補足するように続ける。
「ノウシスの研究所があった無人島がね……たった一体のゴブリンで、あっという間に“死の島”になったんだ」
「空気、土、植物、すべてが死んだって」
「プレイヤーは毒にある程度の耐性があったみたいで、なんとか倒せたらしいけど……もし放置してたら、汚染はもっと広がってたって」
葛西が俺の顔を真っすぐ見据える。
「つまりな、応援を待っとったら遅い。海がどれだけ汚染されるか想像もつかん」
「……正義感で言うてるわけやない。
毒が広がれば、いずれ俺らにも回ってくる。
ほっといたら、結局“自分の首”を絞めることになるんや」
俺は思い出した。
あの山で見た化け物のことを。
「でも……前に俺が山で見た化け物は、そんな毒を撒いてるようには見えなかった。
違うんじゃないか?」
その問いに、隼人は一拍置いてから答えた。
「そいつは……また別のヤツや。今のミッションが片付いたら、話したるわ」
雨宮は黙ったまま、液タブを閉じていた。
俺は拳をぎゅっと握る。
「……つまり、やるしかないってことか」
咲耶が静かに端末を操作していた。
液晶に映るマップには、赤いピンが点滅している。
「あと……10分ほどで……ミッションポイントの近くを通過致します。」
青白い顔をしながら息も絶え絶えに言う。
「そのタイミング逃したらミッションに参加できひんちゅうことやな」
隼人が額を押さえる。顔にはまだ若干の船酔いの色が残っている。
「問題は海の魔物の可能性が高いことだね」
雨宮が冷静にいう。
「大体の魔物は人間を直接狙います。……落ちない限りは、海中での戦闘は無いかと」
咲耶がゆっくり立ち上がり、夕陽に照らされたその顔には、決意が浮かんでいる。
「覚悟を決めてください。もう少し進めば、戦場です」
「了解や」
「……準備はできてるよ」
「飛行機の時ほど絶望的じゃない」
「「「武装展開!」」」
装備が展開され、鎧の重みが肩にのしかかる。
背筋に冷たい気配が走る。
この“船の上”という極限の環境で、俺たちは再び――生き延びるために、剣を握った。
その時だった。
……風が、変わった。
潮の流れとは違う、どこか温度の違う風が頬を撫でる。
同時に、海のどこかから、かすかに“声”が流れてきた。
言葉……ではなかった。
旋律のようで、溜息のようで、
胸の奥をきゅっと締めつけてくる――美しい声。
波間に、何かが揺れる。
「……歌?」
咲耶が眉を寄せ、耳を澄ませる。
「聞こえる……なんだ、この声……」
俺も、思わず手を止めていた。
甲板にいた船員たちも、次々と異変に気づき始めていた。
人が集まり、ざわつきが広がる。
「おい……あそこに誰かいるぞ!」
誰かが指差した。
船の前方――夕陽を背に、海の上に“人影”が浮かんでいた。
白く、淡く、光をまとった姿。
波間に浮かび、上半身だけを静かにこちらへ向けている。
風になびく長い髪。
その唇は、確かに“歌”っていた。
「あんなところで何故歌っているんだ?」
異様な空気に船員たちも驚きを隠せない
「セイレーン……?」
咲耶が小さく呟く。
「……人魚かもしれない」
雨宮も、どこか戸惑ったように言った。
「おいおい! セイレーンって、歌聞いたらヤバいんちゃうんか!?」
隼人が警戒を強める。
だが、その直後だった。
「船を寄せろ、救助するぞ!」
船員の一人が声を張り上げ、救命ボートのロープに手をかける。
「駄目! 近づかないでッ!!」
咲耶の声が響いた。
普段の彼女からは想像できないほど大きく、鋭く、必死な叫び。
それと同時に。
――ドンッ!
水面が、爆ぜた。
地獄のような轟音。
何かが、海面を割って跳び出し、救命ロープを掴んだ船員を一瞬で巻き上げる。
「ぐああああああああっ!」
絶叫が空を裂いた。
そのまま、男の身体は海の中へと引きずり込まれていった――。
そして――沈黙。
だが、終わりではなかった。
ぬるり、と。
海の色が変わる。
血ではない。影でもない。
それは、粘度を持った“肉”の塊だった。
波を割って浮かび上がってきたそれは、人間の胴体の倍はあろうかという巨大な軟体の影。
触手――いや、触手の先端には、牙をむいた“犬の頭部”がいくつも揺れていた。
獰猛な顔。赤く輝く目。
唸るような咆哮。
ぐちゅ、ぐちゅ……と、濡れた肉が擦れ合うような音が、甲板まで届いてくる。
海中に沈んだ下半身は見えない――だが、分かる。
これは“化け物”のほんの一部にすぎない。
ほんの一部で、これだ。
黒い皮膚には海藻が絡み、
所々に溶けかけたような赤い眼球が浮かびあがっている。
その目がひとつ、またひとつと“瞬き”をして――こっちを見た。
背筋がぞわりと凍る。
「違う……あれ、セイレーンやない……っ!」
隼人の声が震えた。
あの歌声も、おそらく擬態だった。
人間の耳と心を惑わせ、誘い出し、喰らう。
――“救わせる”ための罠。
「スキュラや……!」
海の上、静寂と恐怖を引き裂くように、戦いが始まった――。