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第44話 出航

 俺はプールサイドからタオルを手に取りながら、彼女の前に立った。


「吉野英斗です」


 姿勢を正して名乗ると、彼女はわずかに頷いた。


「この子は俺と同じ日本支部の子やねん」

 隼人が紹介をしようとするが――


「関西君は黙っていてください」

 ぴしゃりと、凛とした声が返ってくる。


「すんません」

 どこか悲しげに隼人がつぶやく。


 彼女は気にも留めず、すっと視線を横に移した。


神楽咲耶かぐらさくやと申します。……そちらの方は?」


「雨宮……翼です」

 雨宮が静かに名乗る。


 その瞬間、神楽のまなざしがわずかに揺れた。


「雨宮……」

 一拍置き――その瞳が見開かれる。


「魔物の森の雨宮先生ですか!?」


「えっと、はい……そうです……」


 予想外の反応に、雨宮が少しだけたじろぐ。


「……あのシリーズ、私、大好きです。デフォルメ、天才的でした」


「え、ありがとうございます……」

 普段は無表情に近い雨宮が、目を瞬かせた。


「え、なに? なに? そんな人気なん?」

 隼人が首を伸ばして口を挟む。


「“そんな”ではありません。いまや世界的に大人気です」


 咲耶の真顔に、隼人が言葉を飲み込む。


 その一方で、雨宮は照れくさそうに眉を寄せながら、


「……あの、よかったら、さっき新キャラ書き終わったから見る?」

 と、ぼそりと呟いた。


 神楽は一瞬だけ驚いたように目を見開き――


「お願いいたします」


「これなんだけど」

 雨宮が液タブを取り出し咲耶に見せる


「スカイフィッシュの”スカッシュ”だよ」


「飲みもんみたいにすんなや!」

 隼人がすかさず突っ込みを入れる


「関西君、邪魔しないでください」

 神楽にバッサリと切られた。


「関西ちゃうで、葛西やで、関西出身やけどな……」

 すっかり影が薄くなった隼人が、小声でぶつぶつと抗議している。

 その声はたぶん神楽には届いてないだろう。


 それにしてもだ


(……これが、あのスカイフィッシュ?)


 あの夜、あの空で、俺たちはこいつに殺されかけた。

 けれど今、目の前には――ふよふよ浮かぶ癒しキャラ。

 命懸けの恐怖も、デザインの魔法で丸くなるらしい。


 神楽の瞳が、かすかに揺れた。

 ほんの一瞬、彼女の顔から“任務”という仮面が外れたような気がした。


「……雨宮先生、素晴らしいですっ!」

 それは、あの冷静沈着な少女から飛び出したとは思えない、素直な歓声だった。


 神楽はひと通り感動を伝え終えると、すっとスマホを取り出した。


「では、飛行機の予約を進めます。空港までは――」


「待ってッ!!」

 三人の声が重なった。


「今、飛行機って言った!?」

 聞き逃すわけにはいかなかった。


「いや、無理無理! 絶対無理や! 飛行機とかもうトラウマやねん!」

 隼人も全力で否定している。


「……同感。絶対に、二度と乗らない」

 雨宮もタオルにくるまりながら、珍しく語気を強めて言った。


 神楽は、スマホを片手に小首をかしげる。


「帰国手段の最短ルートですし、安全面でも――」


「いやいやいや、あんなん乗り物ちゃうよ!? あんなんはもう災厄のカプセルやん!」


「……僕たち、生還したのが奇跡だと思ってる」

 雨宮が小さく頷く。


「できれば、船で帰らせてください」

 俺は静かに、しかし切実にお願いした。


 神楽は一同の真剣すぎる表情を見て、しばし沈黙する。


「……分かりました。では、船を手配致します。」


 その一言に、三人がそっと胸をなで下ろした。


「助かった……」

「ほんま、ええ人や……」

「……命の恩人、ふたたび」


 神楽は小さくため息をつきながらスマホをしまった。


「それにしても、皆さん、恐怖耐性が想像以上に繊細なんですね……」

 その呟きに、三人が一斉に、


「そんな問題じゃない!」


 と、全力でツッコんだ。


 神楽はスマホをしまうと、プールサイドのベンチに静かに腰を下ろした。


「……では、港湾ルートを確認します」

 そう言って、再び端末を操作し始める。指先の動きに一切の無駄はなく、画面に表示される情報を素早く読み取っていく。


「近くの港から、日本へ向かう貨物船に便乗できるルートがあります。

 中継地を経由して、帰国まではおよそ七日……長くはなりますが、安全性は確保されているとのことです」


「七日……」

 雨宮が息を吐く。


「……いい。全然いい。七日くらい、飛行機に乗ることを考えたら全然いい!」

 俺は全力で肯定した。


「咲耶ちゃんありがとう!」

 隼人が安心したように言う。


「……貨物船《グロリア・マリーン5号》。日本へ向かう定期輸送便。船主は協力的です。

 予定では三日後、ここを出航。今のうちに準備を整えてください」


「三日後……」

 雨宮がぽつりと呟いた。


「ジンベエザメ見に行けるやん」

 隼人がすでに検索画面を開いていた。


 神楽はため息をついて隼人を見ていた。


 ♦


 灼熱の太陽が降り注ぐ中、俺たちは残りの日数をフィリピンで満喫していた。


 ―1日目。

 初日は、海へ。

 ボートに揺られて、憧れの「ジンベエザメ」とのシュノーケリングに挑戦。


「で、でか……っ!」


 思わず声が出てしまった。

 目の前を悠然と泳ぐジンベエザメの姿に、全員が一瞬言葉を失った。


 雨宮は防水ケースに入れたタブレットで、泳ぐジンベエザメのスケッチを取っていた。

「……デフォルメの参考に」なんてぼそっと言いながら。


 神楽は水に入るのを渋っていたが、隼人に押されて入ったかと思ったが。


 器用に浮輪に正座する少女を目撃することになった。


 ―2日目:歴史と街並みと――買い物?―

 この日はマニラ旧市街・イントラムロスへ。


 石畳の道を歩きながら、咲耶は歴史的建造物を丁寧に観察していた。


「スペイン統治時代の名残が色濃く残っていますね……素敵です」


 雨宮は街角のアートマーケットに釘付け。

 デフォルメされた民族衣装のキャラに目を輝かせていた。


「……この影の付け方、参考になる」


 一方の隼人は屋台に釘付け。


「バロット!?うっそ、これ食えるん?誰か一緒に食べよや!」


「遠慮します」

 神楽の一刀両断に、隼人はそっと卵を戻した。


 神楽は言葉には出さなかったが、撮った写真を見返すような仕草をしていた。

 その横顔は、少しだけ柔らかかった。


 そして次の日――


 早朝、まだ夜の名残が街に残るマニラ港に、俺たちは到着していた。


 港には巨大な貨物船が静かに待機していた。

 鋼鉄の腹を膨らませたその船体は、朝焼けに照らされ、まるで無言の巨人のようだった。


「これは……でかすぎる」

 巨大な船を前に胸が高鳴るのを抑えきれない。


 隼人が口をあんぐりと開けて見上げていた。

「船って、こんなでかかったっけ……家、何軒分やろ……」


「寝起きなのにうるさいです、関西君」

「咲耶ちゃん厳しいなぁ……」

 すっかりいつものやりとりが戻ってきている。


「出航は……六時ちょうど、だそうです」

 神楽がスマホで時刻を確認しながら、港の係員に軽く会釈をする。


 案内されたタラップを登ると、鋼鉄の階段の振動が足裏にじわじわと伝わってきた。

 機械油の匂い、塩の気配、遠くで響くクレーンの稼働音。

 飛行機とはまるで違う、地に足の着いた旅の始まりだった。


 雨宮はというと、スーツケースの代わりに防水ケースを肩から提げ、すでに液タブを起動させていた。


「……波の動き、描いておこう。資料になる」

 早くもモードに入っているらしい。


 船員のひとりが手を振ってくれた。


「ようこそ。台北までの航路、どうぞゆっくり」

 その笑顔に、なんとなく安心する。


「穏やかに頼みますわ、ほんま……波高いとか言わんといてな」

 隼人が手を合わせながら祈るように言う。


「たった二日間です。せめて静かに過ごしてください」

 神楽が冷静に応じるが、どこか表情は和らいでいた。


 船が汽笛を鳴らす。

 ゆっくりと、港の風景が遠ざかっていく。


「……さあ、出航だ!」

 巨大な船、どこまでも続く青い海に思わず叫んでいた。


 朝焼けの空を仰ぎながら、俺は思った。

 ――こんなふうに、誰かと一緒に笑いながら帰る旅があるなんて。


 俺の人生の中では想像もできなかった未来が、広がっていくのを感じていた。


 俺たちを乗せた船は、ゆっくりとマニラ港を後にした。

 目指すは――台湾・高雄。


 まだ“本土”へは遠い。

 でも、確実に帰る旅路が、いま始まった。

 

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