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第43話 現れた少女

 救助されてから、三日が経った。


 真夜中の海に放り出され、救命具にすがりついていたあの瞬間が、今では幻のように思える。


 俺の身体は、到着時にほぼ全身を骨折していたが、二日で完治した。


 雨宮は、脳に残ったダメージのせいで、ベッドに身を横たえたまま静かに目を閉じていた。


 あのとき、病院に運ばれた雨宮は集中治療室にいた。

 点滴と管に囲まれていたが――ダメージが残るとはいえ、退院してホテルにいるのだからすごいものだ。


 この回復力にライブラに感謝するべきなのだろうか?

 そもそも拾わなければこんなことに巻き込まれなかったのだから、

 感謝すべきなのか、恨むべきなのか……まだ自分でも答えが出せない。


 ホテルの一室。

 窓の外では、雨がゆっくりとベランダを濡らしている。

 熱帯の湿った空気が、カーテンの隙間からほんのりと室内に入り込んでいた。


 アンナさんや機長たちは、昨日の朝、先に現地を発った。


 機体は回収され、別ルートで帰還するよう手配されたとのことだった。


 別れの直前――あのときの“戦友たち”と、短くも、確かな時間を交わした。


 病院の玄関前。車のドアが開き、荷物を積み込む手が止まる。


 アンナさんが最後に、こちらを振り返った。


「……お二人とも、本当に、ありがとうございました」


 あのときの冷静さそのままに、けれど少しだけ柔らかい声音だった。


「俺のほうこそ……感謝してます。アンナさんがいなければ、機体はもたなかった」


 英斗はまっすぐに頭を下げた。


 その横で、葛西も帽子を取って、少し照れたように笑った。


「ほんまですわ……カッコええところ見せてもうて、惚れてまうやろ」


「ふふ……じゃあ今度お酒でもご一緒に」


「え、マジですか?」


「冗談です」


 あっさりと返されて、葛西が「ぬぅ……」と唸る。


 そのやりとりに、小さな笑いがこぼれた。


「……でも、本当にありがとうございました」


 アンナは言った。


「……あなたがいたから、生きてここに立っていられる。俺たちは忘れません」


 俺の声は静かだったが、胸の奥から出たものだった。


 アンナは微笑んで、ほんの一瞬、目を伏せた。


「また、どこかで」


「必ず」


 最後に交わした握手は、ほんの短いものだったが――あの夜の記憶を、確かに繋ぎ止めていた。


 車が走り去ったあと、葛西がぽつりと呟いた。


「ええ女やなぁ……ホンマに惚れてまいそうやわ」


「まあ、分かるけどな」


「でも俺ら、あんだけ死にかけてんで? 次はもうちょい、穏やかな旅がええわ」


「……俺も、そう願うよ」


 英斗は空を見上げる。あの夜の暗さとは違い、朝の光がまっすぐに降り注いでいた。


 ♦


「なーなー“翼”も本調子ちゃうし、もうちょいゆっくりしていこうや」


 隼人が、ベッド脇の窓際でイスにもたれながら言う。カーテンの隙間からは、南国の光がやわらかく差し込んでいた。


「雨宮は仕事があるんじゃなかった?」


 俺がそう問いかけると、ベッドに横たわっていた雨宮が、ゆっくりとまぶたを開けた。


 あれから、雨宮本人から「“君”は付けなくていい」と言われていた。

 葛西も、俺のことを「隼人と呼べ」と、少し照れたように呟いていたのを思い出す。


「急ぎじゃないから大丈夫。スキルは使えないけど……動けるよ」


 まだどこか顔色は薄いが、それでも雨宮は淡々とした口調で言う。


「よっしゃー! 決まりや!」


 隼人が勢いよく立ち上がると、スマホの画面をこちらに向けてくる。


「フィリピン初めてやねん。ジンベエザメおるねんて、知ってる? ジンベエザメ!

 水族館では見たことあんねんけどな? 一緒に泳げんねんで! すごない?」


「さっきから何か調べてると思ったら……観光する気だったのかよ」


 呆れたように言うと、葛西は両手を振って否定した。


「違うやん、違うやん! みんな頑張ったやろ? 癒しがいると思うねん、癒しが!」


 ベッドに横たわっていた雨宮も、苦笑しながら上半身をゆっくりと起こした。

 白いシーツがしずかに落ち、窓から差し込む柔らかな陽光が彼の頬を照らす。


「……まだ泳ぐのは、ちょっと」

 声に微かな疲れが残っている。


「じゃあ……あれやな、マカティとかは? カフェとか、なんかオシャレなとこ。そっちは大丈夫やろ? 歩くくらいなら」

 隼人がスマホ片手に、画面をこちらへチラッと見せる。


「……観光コース、ばっちり決めてたんだな」


 そう言うと、雨宮が眉を上げる。

 隼人の目が泳ぐ。妙にそわそわしている。


「まぁ……1〜2日くらいええやん? せっかくやし、癒しも必要やで」


 気のせいか、隼人の言葉にはちょっと必死さが混じっていた。

 その姿に、ふと笑いがこぼれる。


 窓の外では、南国特有の厚い雲が空を流れていた。

 ゆっくりと、どこかへ向かうように、穏やかに。


 嵐のような夜を越えて、ようやく訪れた静かであたたかな時間だった。


 ♦


 ――それから一週間後。俺たちはまだフィリピンにいた。


 俺たちは今、ホテルに併設された屋外プールに浮かんでいる。

 空は快晴。強い日差しが水面にきらめき、青と白が交差する。

 どこからか音楽が聞こえ、ヤシの木がゆったりと風に揺れていた。


「……もうここに住もかな」


 隼人の声は冗談半分、本気半分――いや、たぶん本気だ。

 浮き輪に揺られながら、空を見上げて目を細めていた。


「シマラ教会……よかったな」

 雨宮がぽつりと漏らす。


 目を閉じ、水に揺られながら、どこか遠くを見るような声だった。


 ――まぁ、俺もまんざらではないのだが。


 ゆっくりとした時間が流れていたが、突如静寂は破られた。


 勢いよく扉が開けられた瞬間、差し込んだ逆光の中から――ひとりの少女が姿を現した。


 ――空気が変わった。

 トロピカルな風が一瞬だけ止まり、静まり返ったプールサイドに、鋭く乾いた足音が響いた。

 振り向いた俺の視界に飛び込んできたのは、まるで古い絵巻から抜け出してきたような少女だった。

挿絵(By みてみん)

「関西君、こんなところで何をなさっているのですか?」


 静かなホテルのプールに、ひときわ凛とした声が響く。


 俺と雨宮は顔を上げ、隼人は浮き輪ごとビクッと揺れた。


 まっすぐにこちらへ歩いてくるその姿に、思わず俺は息を呑んだ。


 まだ十代だろうか?あどけなさが残る。


 陽射しを受けたその姿は、ひときわ目を引いた。

 長く艶やかな黒髪、背筋をまっすぐ伸ばして立つ姿はまるで一枚の絵のようだった。


 服装は、和の要素を感じさせつつも現代的にアレンジされた落ち着いたワンピース。

 派手ではないのに、自然と視線を引き寄せられる品の良さがあった。


 そして何より――その瞳だ。 まっすぐな黒い瞳が、まるで心の奥を射抜くような鋭さを持っていた。

 見下ろす視線には怒りよりも、静かな――しかし圧のある問いが込められている。


「あっ……咲耶ちゃん……咲耶さん、どないしてここに……」


 隼人の声が裏返っている。 普段の軽さが一瞬で吹き飛ぶのがわかった。


「本部から連絡を受けて、迎えに来ました。……それが任務でなければ、私がここに来る理由などありません」


 表情は柔らかく整っているのに、言葉の一つ一つが鋭利だ。 この人に本気で怒らせたら、きっと言葉だけで人を黙らせるだろう。


 俺はごくりと唾を飲んだ。


 初対面のはずなのに――気づけば、自然と背筋が伸びていた。


「それにしても……あなた方、なぜプールに浮いていらっしゃるのです?」


 静かに問いかける咲耶に、隼人は目を泳がせた。


「ち、ちゃうねん咲耶さん! これはその……療養というか、回復トレーニングの一環でな?」


「回復トレーニング?」


 彼女の眉が、ほんのわずかに動いた。


「3日もあれば治るでしょう?」


 咲耶と呼ばれた少女は冷徹に言う


「……そろそろ帰国の準備、いたしましょうか」


 口調は穏やか。でも、逆らえない圧。


「まだジンベイザメ見てな……」


 彼女はまるで汚物を見るように隼人を見た。


「なんでもありません……」


 うなだれる隼人をしり目に、俺と雨宮はそっと浮き輪を外した。


 咲耶の登場で、俺たちの南国リゾートは――どうやら、終わりを迎えたようだった。


 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


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