第42話 高度1万メートル③
雨宮がシールドを張り続けて、10分が過ぎたころ異変の気配が走った。
「お前鼻血でとるやんけ」
コクピットから戻ると葛西が言った。
雨宮に目をやると、確かに鼻から血が垂れていた。
連続使用は脳に負荷をかける――マチルダ先生の言葉が脳裏をよぎる。
気がつけば、雨宮は肩で荒く息をしていた。
「雨宮君それ以上は……」
「いいから……敵をおびき寄せるんだ」
「君たちでは無理だ、僕のシールドじゃないと防ぎきれない」
「あと15分死んでも耐えて見せる!だからあとは任せたよ……」
「吉野君!貨物室の方に一体向かったよ!」
雨宮の声が少しかすれて聞こえた。
「了解!」
返事をした瞬間、俺の体は勝手に動いていた。
飛び出すように立ち上がり、ふらつく足を壁に預けながら前へ進む。
足元はすでにぐらつき始めていた。
空気はどこか薄く、機内は無数の傷を抱えていた。
全体がきしむように、“限界”という言葉が目の前に迫っていた。
――残り、十五分。
その十五分は、時の流れが止まりかけているように長く感じられた。
「右上に!……あと、左下にも!」
雨宮の指示が、追い立てるように飛んでくる。俺は何度も駆け、何度も腕を突き出し、シールドを張り続けた。
バチィ!と音が鳴るたび、命が削られているような感覚がした。
「雨宮君、もう喋らんでええ!」
葛西が振り返り、顔をしかめて叫ぶ。
「あとは俺と吉野でなんとかする!」
だが、雨宮は首を横に振る。
「ダメだ……見えない敵は、君たちじゃ防げない……」
彼の額に冷や汗が滲み、唇がわずかに青白くなっていた。それでも――目だけは、鋭く、前を見据えていた。
(限界が……近い)
そのとき、再び金属の軋む音が機体全体に響いた。
「またかッ――!」
今度は、後方のキャビン。エンジンの近く、補助座席付近の内壁が、ほんのわずかに割れ始めていた。
「私が行きます!」
アンナがすぐに動いた。
風が流れ込み、シートがガタガタと揺れる中、
彼女はまたも備品ケースからシーリングパッドを抜き出し、迷いなく壁へと向かう。
(この人……どこまで強いんだ)
しっかりと足を踏ん張り、裂け目へ手を伸ばす。
「……この程度、まだ大丈夫です」
冷静な声。パッドが貼られると、またしても音が一瞬で収まり、機内に静けさが戻った。
その直後――
《ピーピーピー……現在、高度2000メートル》
警告音とは違う、機体のモニターからの音声が響いた。
「高度……下がってきたな」葛西が呟く。
「あと……あと、五分くらいか……?」
俺の胸が高鳴る。着水は目前。けれど敵の動きも、焦るように速さを増していた。
雨宮はもう正面を見ていない。壁の向こうにいる敵を追い続ける。
「右前! また来るよ、同時に三体!」
「三体っ……!」
「英斗、後ろのシールド俺がやる! お前は前を頼む!」
葛西の声が風のように背中から届く。
「了解!」
俺と葛西が真逆の方向に駆ける。
雨宮の指示に従い、左右へシールドを展開。
バチィィンッ!と金属を叩くような音と、目に見えない“敵の気配”がぶつかり合う。
「耐えろ……!耐えてくれッ!」
葛西の声が張り詰める機内に響く。
残り、三分――。
「アンナさん!……着水はどうなってる!?」
俺の叫びに、アンナが後方から応える。
「コース、安定しています!海面接触まで、あと二分三十秒!」
二分三十秒――それだけなのに、まるで永遠のように遠い。
葛西が歯を食いしばって叫ぶ。
「落ち着け……あとちょっとや……もうちょっとだけ、頑張ってくれ……!」
雨宮はもう、返事をしなかった。
目や耳からも血が流れている。俺たちの唯一の“盾”だった。
(あと、少し……!)
「高度、300メートル!」
アンナの声が、機体に残された全員の心をつなぎ止める。
だがそのとき、機体の天井――照明の隙間から、キィィン……と金属を削るような音が響いた。
「また来たか……!」
音もなく、だが確かに空間が“切り裂かれる”。その瞬間、
シート脇のパネルに細い亀裂が走る。空気がヒュウッと抜け、機内に再び緊張が走った。
「アンナさん、後ろッ!」
「……分かっています!」
アンナは既に動いていた。風で髪が乱れる中、それでもブレない動きで工具とシーリングパッドを取り出す。
先程よりも大きな亀裂――けれど、彼女は迷わなかった。
「これで……終わりにしましょう」
ガンッ、と金属を叩く音と同時にパッドが貼り付けられ、また一つ、崩壊の危機が食い止められる。
「……女神やで、ほんま」葛西が呆れと感嘆をまぜたように、ぽつりとつぶやく。
「高度100メートル!」
俺の心臓が、喉元で跳ねた。
「着水します!」
コックピットから、機長の低く落ち着いた声が響く。
――来る!
俺たちは座席に戻り、ベルトを締めた。雨宮だけは、その場にしゃがみ込むようにして身を抱えていた。
(お願いだ、耐えてくれ……!)
「みんな、しっかりつかまって!!」
アンナが叫ぶと同時に――
ドォォォンッ!!
鈍く、重たい音が機体を貫いた。
着水。
海面との衝突は衝撃というより、全身を押しつぶされるような圧力だった。
天井が軋み、カップが宙を舞い、シートが悲鳴のような音を立てる。
俺は視界が白く飛ぶ中で、ただベルトと葛西の叫び声を感じていた。
「うおおおおッ!」
機体が海を滑るように前進し、ようやく――ゆるやかに、止まった。
波の音が、かすかに耳に届く。
……生きていた。
全員が、生きていた。
雨宮は、がくりと項垂れていたが、肩が小さく上下している。意識はある。
「……止まった、よな……?」葛西が言った。
俺は黙って頷いた。あの空を――地獄のような十五分を――俺たちは生き延びた。
だが、その安堵はすぐに掻き消える。
「アンナさん、雨み……“翼”を頼んます!」
葛西の叫びに、アンナはすぐさま応える。
「15分、あと約十五分で沈みます!」
彼女は素早くシートベルトを外し、座席下から救命具を取り出して雨宮の胸元へ押し付けるように装着を始める。
「屋根の上に上がるで、吉野君!」
「わかった!」
すでに葛西は通路を駆け、非常用ハッチの方へと向かっていた。
俺も後に続く。膝がまだ震えていたが、迷っている暇はなかった。
ゴウン――と機体がかすかに傾いた。沈み始めている。
潮の流れか、機体の一部がギィィ……ときしむ音を立てている。
「こっちや!こっから上に出られる!」
葛西が非常ハッチを開け、金属のラダー(折り畳み式の梯子)を蹴り出すように展開する。
「先、行け!」
「ありがとう!」
俺はラダーに足をかけ、狭い通路を一気に駆け上がった。
頭上の丸い開口部から吹き込む温かい空気が、顔を撫でる。
開口部から身を乗り出した瞬間、世界が一変した。
そこは……黒の海。
「くっ……」
葛西が後ろで眉をひそめるのがわかった。
機体の上部に出ると、そこは別世界だった。
月明かりだけが頼りの空間。
真っ黒な海が広がり、わずかに光る波と、立ちのぼる蒸気と煙――
俺たちは、沈みゆく機体の上に立っていた。
「見えへん……何も見えへんやんけ……」
「でも……来る」
耳を澄ませると、かすかな風切り音が近づいてくる。
何かが空を裂いて、こちらへ向かっている音――
次の瞬間、数か所に衝撃が走った。
――ビシュッ!
「っ……!」
肩に鋭い衝撃。皮膚を裂かれたような痛み。
目を凝らしても、何も見えない。敵の姿は、風すらも欺いていた。
「葛西君、見えたか!?」
「見えるかい! どんなスピードやねん……!」
さらに、別の箇所にも衝撃が走る。
腹に、何かがぶつかった。皮膚の上から骨にまで振動が走る。
「ぐっ……」
膝が崩れそうになるも、必死に踏みとどまる。
一発一発は致命傷じゃない。けれど確実に削ってくる。
葛西の武器二丁トンファーが空を切る
「かすりもせん……ッ」
機体がゆっくりと沈んでいく。
沈んだら、もう終わりだ。
雨宮の頑張りも、俺たちの希望も、全部無駄になる。
雨宮のシールドに敵が激突した瞬間
瞬きするほどの時間だが敵の姿が見えた……
「葛西君、あとは頼んだ!」
「は? 何する気や!」
盾を構えたまま、無我夢中で刀の柄を機体に叩きつける。
――ガンッ! ガンッ!
金属が悲鳴のような音を響かせる。
「そういうことかい……」葛西の声が低く響く。
直後――ドンッ!
何かが腹部に突き刺さる。
空気が、肺から一気に抜ける。
「が……あ……!」
視界がぶれる。だが足を踏ん張り、盾を構え直す。
――ガンッ! ガンッ!
音を鳴らす。音を、音を、音を――!
ギュルッ!
今度は背中。
背骨の下に鈍器がめり込むような衝撃に膝が砕けそうになる。
血の味が口の中に広がる
(やばい……)
その瞬間――葛西の声が風を裂いた。
「見えた!」
視界の端で跳躍する彼の姿。
「Groove Breaker!(グルーヴ・ブレイカー!)」
身体能力、反応速度、攻撃力が同時に向上する。
トンファーが空を裂く。流れるような動き、的確な連撃。
敵の一体が、舞うように叩き落とされる。
その姿を、朦朧とした視界で見届けながら――
必死で踏みとどまり、音を鳴らし続ける。
――ガンッ!
だが、限界は近づいていた。
ドガンッ!!
左肩。盾ごと吹き飛ぶ衝撃に、身体が仰け反る。
手が痺れ、足元がぐらつく。
「くそっ……まだだ……!」
歯を食いしばる。目を見開き、意地で叫ぶ。
「うぉおぉぉぉぉぉ……!」
――ガンッ!
最後の力を振り絞って、もう一度音を鳴らしたその瞬間――
また一撃が来る。頭に直撃。視界が揺れる。
(……マズイ)
身体が意識が機体の鉄板に吸い込まれていく。――そのとき。
「よう頑張ったな。大したもんやで」
誰かが俺の身体をしっかりと受け止めていた。
「終わった」
葛西の声が、風のように届いた。
その瞬間、俺の全身から力が抜けた。
「翼も……英斗も……恰好つけすぎやで……ほんまに……」
どこか呆れたように言いながらも、彼の手はしっかりと俺の肩を支えてくれていた。
その後、アンナの指示のもと、俺たちは順に救命具を装着し、機体の上部から夜の海へと飛び込んだ。
海は思ったよりも温かかった。沈みかけた機体のまわりで、
俺たちは互いに声をかけ合い、生存を確かめ合った。
俺と雨宮は意識がもうろうとしていたが、彼は必死に液タブだけは抱えていた。
数十分後――
遠くに灯りが見えた。巨大なタンカーが、偶然にも航行ルートを変えていたらしく、SOSを受信してこちらへ向かってきたらしい。
クレーンが下ろされ、ひとりずつ引き上げられる。雨宮、アンナ、葛西、そして俺。
救助された瞬間、全身から力が抜けた。あの安堵は、言葉ではとても言い表せない。
そのまま俺たちは、最寄りの港を持つ国――フィリピンへ。
現地の病院に搬送され、診察や処置を受けるころには、ようやく朝日が昇り始めていた。
高度1万メートルから俺たちは全員生還した。




