第40話 高度1万メートル①
「まだ、着かんのかいな……」
葛西がシートに背中を投げ出し、天井を仰いでぼやいた。
「寝て起きても、まだ飛んどるやん……地球どんだけ広いねん」
時計を見ると、フライトはすでに十時間を越えていた。
「映画、何本観たことか……一本目のラスト覚えてないな」
シートモニターには、再生中の映画が止まったままになっている。おそらく途中で寝落ちしたのだろう。
「……雨宮君は?」
視線を横に向けると、彼はまだ描いていた。
雨宮は体をわずかに傾け、肘掛けに肘を乗せた姿勢のまま、相も変わらず液タブとにらめっこをしている。
肩は微動だにせず、ペン先だけが淡々と動き続けていた。
(集中力……すごすぎる)
葛西も呆れたように目を細め、肩をすくめた。
「まだ描いてるやん……」
ちょうどそのとき、通路の先から軽やかな足音が近づいてきた。
現れたのは、キャビンアテンダントのアンナだった。
整った制服に身を包み、落ち着いた笑みを浮かべたまま、三人の様子を見にきたようだった。
「お飲み物、お持ちしましょうか?」
やわらかな声とともに、ふわりと微笑む。
「アンナさん、コーヒーください」
葛西が手を上げ、朗らかに答える。
「あ、俺も」
「僕も……」
軽く会釈を返すと、アンナは静かに機内のサービスエリアへと戻っていった。
数分後、トレイを手に再び現れた彼女が、温かいコーヒーを一人ひとりに丁寧に配っていく。
「お待たせしました。どうぞ」
白い紙カップからは、香ばしい香りが立ち上り、機内の空気をわずかに和らげていく。
「ありがとうございます」
「助かりますわ、ほんま……」
葛西はカップを両手で包み込み、ふぅっと息を吐いた。
「……長いフライト、大変ですよね」
アンナが笑みを湛えながら、隣の座席の背にもたれるようにして言った。
「フランスから日本は、こんなにも遠いんですね」
苦笑いを浮かべながら返す。
「わかります。私も慣れるまでは大変でしたよ」
「そない乗ってないから、まだ慣れないですわ」
葛西の言葉に、アンナは控えめに微笑んだ。
「では、しばらくしたらお食事をお持ちしますね。何かあれば、遠慮なく呼んでください」
「ありがとうな、アンナさん。ええ対応やわ」
「……本当に、癒されました」
二人の言葉に丁寧な一礼を返すと、アンナは再び通路を静かに歩いていった。
「……ええ人やな」
葛西がぽそりと呟く。
「うん……」
英斗もカップを口に運びながら、小さく頷いた。
「そういえば、長時間の移動でミッションが発生したりしないのか?」
「ないない、そんなんあったら怖いやん」
「乗り物での移動中では聞いたことないな」
「そんな事例あってみ? 絶対乗らへんで」
葛西が苦笑いを浮かべる。
「それもそうか」
肩をすくめた――その時だった。
「……ん?」
機体が、ごくわずかに揺れた。
俺と葛西が同時に顔を上げた。
「……今、揺れたか?」
「ちょっと、気のせいちゃう?」
葛西が首をかしげた直後、アナウンスが入る。
『ただいま、軽度の揺れを感知しました。飛行に影響はありませんので、ご安心ください』
「……よかった」
「まぁ、空やし多少はな……って言いながら、揺れたあとのコーヒーめっちゃ怖いねんけど!」
葛西が大事そうにカップを抱えながら言う。
「吉野君が余計なフラグ……」
——そのときだった。
鋭い警報音が、機内の空気を切り裂いた。
全員の思考が一瞬止まったように感じた。誰も動かず、誰も声を出さない。
あの雨宮でさえも、ペンを止めて顔を上げる。
静寂を破ったのは、葛西の低い声だった。
「そんなアホな……ありえへん」
俺はライブラを確認した。
【ミッション】
迎撃依頼
ランク:C
人数:3
期限:12時間
場所:現在地
強制開始まで 3分前
「開始まで3分!」
その叫びを皮切りに、葛西の声が飛ぶ。
「雨宮君は機長の近くで待機や!」
雨宮は再びペンを動かし始める
「雨宮!雨宮!」
動く様子が無い
「……もうええ! 吉野君、代わりに行ってくれ!」
「俺はここで見張る!」
足早にコックピットへ向かう途中、アンナがこちらに気づき、ただならぬ様子にすぐ理解を示した。「吉野さん……まさか――」
「はい。ミッションが出ました。場所は“現在地”。……つまり、ここです。コックピットにも出現の可能性があります」
一瞬だけ、アンナの目が見開かれたが、すぐに冷静さを取り戻し、頷いた。
「分かりました。機長に伝えます。」
そう言うと、アンナはドア横のインターホンに手を伸ばし、機長席と交信を始めた。口調は丁寧だが、言葉にははっきりと緊張が乗っていた。
「機長、こちらアンナ。“現在地でのミッション”が発生。そちらにも出現するかもしれません――」
受信側からも応答があり、彼女は頷いた。
「機長も事態を把握しました。緊急モードに切り替えます。……お願いです、気を付けてください」
その声に英斗も小さく頷き、装備が展開されるのを感じた。
鎧と刀が現れた、ミッションが開始されたようだ。
機内は揺れている。誰かが不穏な気配を察知しているかのように、遠くで誰かの足音が響いた。静かな空の旅は、もう終わりを告げていた。
葛西の姿が見える。軽装のアーマーが光を受けて、鈍く鈍色に反射していた。
目が合う。互いに声は出さなかった。ただ頷き合うだけで、状況は共有できていた。
(どこだ……どこにいる……)
視線を巡らせる。客席、天井、足元、すべてが疑わしい。 まるで「いつ出てくる?」と問いかけてくるような空間の圧が、皮膚を伝ってくる。
アンナから声がとぶ
「コクピットには異常ありません!」
「近くに反応はある!なんで見えへんねん!」
葛西の声。いつもの調子は消えていた。
突如、機体がぐらりと大きく傾いた。
思わずよろめく
それまで淡々と続いていた振動が、突如として重たく軋むようなものへと変わる。
座席がきしみ、天井の照明が不規則に明滅する。耳の奥で、異音のような風切り音が唸った。
直後――
轟音と共に、右側のエンジンが火を噴いた。
「っ……!」
機体の外、窓の向こうで火花がはじけるのが見えた。細く、だが確かに尾を引く光の線。
警報音が機内を引き裂くように鳴り響く。
「右エンジン、損傷確認!」
アンナの声が鋭く響き、即座にインターホンへ手を伸ばす。
その目には明らかな緊張が宿っていたが、声は訓練された者らしい冷静さを保っていた。
「コックピット、こちらキャビン。右エンジンに火災、損傷確認。緊急プロトコルに切り替えます――!」
何が起きたのか――誰も言葉にできず、ただその場に立ち尽くしていた。
そんな中、葛西がふと動く。
彼の視線の先には、ひたすら液タブにペンを走らせていた雨宮の姿があった。
雨宮は窓の外をじっと見つめたまま、狂いのない線を描き続けていた。
葛西がその視線を追う。窓の外――ちょうど、火を吹いたエンジンのあたりだ。
「嘘やろ……外に、おんのか……?」
呟くその声には、信じられないという色が濃かった。