第37話 送別会
拠点へ戻ると、マティアスさんからの呼び出しがあった。
俺はレオンたちと別れ、本部棟へと足を向ける。
ノウシス本部の中枢――木の香りがかすかに漂う廊下を進むたびに、空気が少しずつ変わっていくのがわかる。
喧騒から切り離されたような静けさが、身体の芯へと染み込んでくる。
まるで、心の奥まで見透かされるような、凛とした場所だった。
ドアを軽くノックする。
コン、コン……
「どうぞ」
穏やかで澄んだ声が、すぐに返ってきた。
扉を開けると、そこにはマティアスさんの姿があった。
差し込む陽光のもと、彼は静かに書類を読み込んでいた。
「急な呼び出しをして悪かったね」
視線をこちらへ向けると、マティアスさんは微笑みながら椅子を勧めてくれる。
俺は軽く会釈して、深呼吸をひとつ置いてから腰を下ろした。
ほんの少し、沈黙が流れた。
「いえ、全然問題ないです」
そう答えると、彼はうなずき、ゆっくりと言葉を続けた。
「実はね、雨宮君が急遽、日本に行くことになってね」
「……雨宮さんが?」
「日本支部がどんな場所か、君が見るにはちょうど良い機会だと思っているんだ」
「つまり……同行、ですか?」
「そうだ。一緒に行ってみたらどうかと思ってね」
「それは……俺にとってもありがたい話です。それで……いつ?」
一拍の間を置いて、マティアスさんは少しだけ口元をゆがめた。
「それが明日……でね」
「……えっ」
あまりにも急だった。
思わず素の声が出る。
「彼から連絡が来たのは、ほんの数時間前なんだよ。雨宮君はね、報・連・相が……少し苦手な子なんだ」
肩をすくめるその様子に、思わず苦笑が漏れた。
「明日、日本支部から迎えの者が来るように手配してある。急な話だから、無理にとは言わないが……どうする?」
俺は少しだけ考えた。
ヴェルコールは居心地がいい。仲間もいて、訓練も充実している。
けれど、成長のために別の場所を見ることも、きっと必要だ。
「ヴェルコールには、正直このままいたいくらい居心地がいいです。……でも、日本支部も見てみたいです」
「……ぜひ、行かせてください」
マティアスさんは静かに微笑んだ。
「わかった。明日、旅立てるように準備をしておいてくれ。……話は以上だよ」
♦
――その日の夜、食堂に足を踏み入れた瞬間――空気が、どこかいつもと違っていた。
普段より照明がわずかに落とされ、テーブルの上には彩り豊かな料理がずらりと並んでいる。
その中には、明らかに手作りと思われる品も多く混じっていた。
厨房の奥では、ルチアが皿を抱えて忙しそうに動いている。
その姿から、彼女が今日の“主催者”なのだとすぐに分かった。
「おぉーい、主役登場じゃあ!」
エイリクの豪快な声が食堂に響く。
戸口で立ち尽くす俺の背を、ハーコンが無言でぽんと押した。
「何しておる。席に座るである」
「えっ……な、なにこれ?」
「なにって、決まってるでしょ」
ルチアが皿を抱えたまま振り返る。
「“お別れ会”だよ!」
「……わ、別れ……?」
困惑が声に滲む。
ジャンが穏やかな笑みを浮かべながら近づいてくる。
「聞いたよ。日本支部へ行くって……てっきり、ヴェルコールに残るんだと思ってたよ」
(……あっ)
思わず口が開いたまま固まる。
そうか――そういうことか。
皆が“完全帰国”だと、そう勘違いしていたのか。
「……あの、帰るっていうか、支部がどんなとこか……」
事情を説明しようと口を開きかけた、そのとき。
「日本に帰っても元気でね……」
ルチアの声がかぶった。
視線をそらした横顔には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「守りの神髄を伝えきっておらんのである」
「まったくじゃわい、まだまだ基礎しか教えとらんというに」
――それを聞いた瞬間、胸の内にずしりと罪悪感が沈んだ。
気がつけば、皆に導かれるように席に座らされ、
目の前には山盛りのごちそうが並んでいた。
「これ、ぜーんぶエイトさんのためだからね!」笑顔がとてもまぶしい。
言わなければ、罪悪感がすごい。
ルチアが頬を赤らめながら、ちらりと目を合わせてくる。
「みんなで話し合ってさ、エイトさんが好きなものってなんだろうって……
でも分かんなかったから、とりあえず全部詰め込んだ!」
明るく笑ってはいるけれど、どこか声が震えていた。
「あ……ありがとう」
その一言を絞り出すのが、精一杯だった。
背中にひんやりと汗がにじむ。
食事が始まれば、食堂はいつものような賑わいを取り戻した。
けれど、そこには確かに――別れの空気があった。
エイリクが酒を片手に昔話を語り、
ハーコンは無言で料理を取り分けてくれる。
ジャンは各テーブルを丁寧に回りながら、皆に気を配っていた。
料理の中には日本食もある。
気合を入れて作ってくれたのだろう、本当に美味しかった。
だが何故だろう、食堂は涼しいのに汗が止まらない。
「顔色が悪いのう?」
エイリクが呟くと皆が俺に注目する。
「たしかに……顔色が悪そうだね?それに酷い汗だ……熱でもあるのかい?」
ないよ!まったくない!声に出して言おうと試みるも緊張して掠れた声しか出ない。
「声も枯れているようなのである」
違う!そうじゃないんだ!
「もしかして体調が悪いのに無理して食べてくれたの?」
ルチアの目の端に涙が浮かぶ。
まずい!これはまずい!
俺は意を決して言おうとした。
「じ……」
すると、俺の言葉を遮るように声が割って入る。
「なんだか豪勢な料理ね。……誰かの誕生日かしら?」
声の方に視線を動かすとマチルダ先生が立っていた。
にこやかに言いながら、皆の様子を見渡す。
「知らないんですか? マチルダ先生、エイトさん明日、日本に帰っちゃうんです」
ルチアが涙をぬぐいながら言った。
先生は一瞬だけ目を瞬かせてから、口元に指をあてた。
「……あら? たしか“日本支部の見学”じゃなかったかしら?」
食堂の空気がピタリと止まり、
全員の視線が、まっすぐに俺へ向いた。
俺は全てを諦めた。
「テヘッ」
「早く言えぇぇぇえ!!」
四方八方から、怒涛のツッコミが飛んできた。
「酒じゃー酒持ってこーい」
「テヘッじゃないですよ!エイトさんサイテー!」
「ひどいじゃないか、僕もルチア君のお手伝いしたんだよ」
怒号、苦情、そして笑い声。
一斉に飛んでくる言葉に、俺はただ肩をすくめるしかなかった。
(……俺か? 俺が悪いのか……?)
そんな空気の中、マチルダ先生は「あらあら」と言いながら静かにその場を離れていった。
お騒がせな一夜。
けれど――胸が少しだけ温もりを感じていた。




