第30話 Themis (テミス)
あれから二週間、俺は訓練の日々を積み重ねていた。
午後、医療棟の一角にある小さな講義室。
机の前に座っているのは、俺一人。
向かいには、白衣姿のマチルダ先生が穏やかに微笑んでいた。
「じゃあ今日は、スキルについて少し詳しく教えるわね。」
俺は緊張しつつも、小さくうなずいた。
マチルダ先生は、ホログラムのようなタブレットを空中に展開させながら説明を始める。
「まず、スキルというのは、使えば使うほど成長します。
目に見えるレベルのようなものは存在しないけれど、性能そのものは確実に強化されていくの」
「……つまり、訓練で使い続ければ強くなるってことですか?」
「そういうこと。たとえ初期段階では“地味”だったり“使いづらい”と思っても、
使い続けてみること。意外な形で化けることもあるわ」
先生はゆっくりと椅子にもたれ、やや真剣な口調で続けた。
「ただし、強力なスキルになるほど、消費される“寿命”は増えるの。
これは常に意識しておく必要があるわ」
俺は思わずライブラの寿命欄を思い出す。
あれが、スキルの代償としても削られていくのか。
「さらに注意点をもう一つ。スキルを連続して使いすぎると、
脳に負担がかかるわ。意識を失ったりすることもあるの」
背筋に冷たいものが走る。
「……けっこう、リスキーなんですね」
「ええ。でも、上手に使えば、戦い方の幅がぐっと広がるのもスキルの魅力よ」
マチルダ先生は、にこりと笑って言葉を続けた。
「それと、スキルには大きく分けて二種類あるの。
ひとつはレベルアップやミッションの報酬などで手に入る“通常スキル”。誰でも手に入る可能性があるスキルね」
「そしてもうひとつが……」
「“固有スキル”。これはね、ある日突然、ひとりひとりの個性に応じて覚えるスキルよ。」
「同じスキルを持っている人は、これまで確認されていないの」
「えっ、完全オリジナルってことですか?」
「そう。運命のようなものだと思って。
固有スキルを得たら、それはきっと吉野君にとって大きな武器になる。だから——」
彼女は、俺の目をまっすぐに見据えて言った。
「覚えたときは、ちゃんと向き合って。どう育てるかが、君自身の強さに繋がっていくわ」
先生の言葉に、俺は静かに頷いた。
それはただの知識ではなく、何人もの命を見守ってきた人だからこその言葉に思えた。
ふと、視線が彼女の横顔に向かう。
整った輪郭、知性を湛えた瞳、白衣の袖から覗くしなやかな指先――
(……美しいな)
思わず感慨にふける。
「そろそろ、実践での訓練も始まっていくわ。怪我には気をつけてね」
そう言って微笑むマチルダ先生の声は、どこか母性的で、静かに背中を押してくれるようだった。
もちろん、訓練やミッションで負傷することもある。
ライブラ所持者はたいていの怪我は一日もあれば癒える。
けれど――
「軽傷なら手当て、重症ならスキルで治療」
それが彼女のスタンスだ。
実際、先生のもとには毎日のように”あえて”治療を求めるものたちが押しかけている。
(……俺も、そのうち並ぶ側になるんだろうな)
思わず、仲間たちに心の中で語りかける。
(よろしくな、同志たちよ)
どこか遠くを見るような気持ちで、俺は小さく息を吐いた。
訓練を終え、いつもの食堂で一人静かに食事をしていると、
目の前の椅子が音もなく引かれ、誰かが腰を下ろした。
顔を上げると、落ち着いた笑みを浮かべたジャン・ピエール・ロッシュがそこにいた。
「毎日頑張ってるね、吉野君。鎧の重さには慣れてきたかい?」
口調は穏やかだが、彼の目はいつも周囲をよく見ている。観察力の鋭さは隠しきれない。
「まあ……少しずつ」
俺は少し笑って返す。
実際、初日は立っているだけで足が震えていた。
今でも決して“楽”とは言えないが、それでも前よりは確実に動けるようになっていた。
「ハーコンさんは厳しいからね。でも、彼に認められたら本物だよ」
俺はスプーンでスープをすくいながら尋ねる。
気になっていた、あの存在について。
黒手袋たちのことだ
「……黒手袋のプレイヤーって、ノウシスの人間じゃないよな」
ジャンの表情が、ほんの少しだけ硬くなった。
「彼らは『テミス』という別の組織に所属している。ノウシスと同じく、ライブラを扱うプレイヤーたちの集まりだよ」
少し間を置いて、ジャンは静かに続けた。
「目指しているものは同じなんだ。我々も彼らも――“ライブラの謎を解きたい”。ただ、それだけは共通している」
口調が少しだけ固くなる。
「でもね、彼らにとってライブラは“力”なんだ。だからこそ、適正のない者からは回収し、“選ばれた者たち”だけで管理すべきだと考えている」
ジャンの目が真っ直ぐにこちらを見据える。
「……奪うには、持ち主を殺すしかない。君が襲われたようにね」
その言葉には、抑えた怒りが静かに滲んでいた。
「ノウシスにいる人間は、好きでライブラを手に入れたわけじゃない。生きるために――手放せなくなった人たちなんだ」
少しだけ視線を伏せる。
「中には戦いに向いていない者も多い。だからこそ、助け合っている。孤独な戦いにしないために」
そしてふと顔を上げ、いつもの優しい笑みを浮かべる。
「本当に怖いのは、モンスターよりも……人間なのかもしれないね」
立ち上がりながら、軽く片目を閉じた。
「しっかり学んで強くなるんだよ。自分のためにも――仲間のためにもね」
ウィンクとともに、その背中はゆっくりと食堂の出口へ消えていった。
気づけば、スプーンを持つ手が止まっていた。
あまり意識していなかったが、今思い返すと――
エイリクとハーコンの訓練は、明らかに“対モンスター”ではなく、“対人”を想定したものだった。
間合い、駆け引き、殺気の読み合い。
まるで、いつか人を斬る日が来ることを前提にしているかのように。
(黒手袋……)
あの男たちと、再び向き合う時が来るのだろうか。
胸の奥が、じんわりと重くなる。
体力的な疲労とは違う、もっと根の深い疲れ。
それは、言葉にできない不安や恐れが、少しずつ積もり重なってできた――心の澱〈おり〉のようなものだった。
(戦うのか……本当に)
箸を置き、ため息をひとつ。
それでも、やらなければならないのだ。
これまでは、自分のために強くなろうとしていた。
だが、明日からは――この場所にいる誰かのためにも、強くなろう。
そう、心に誓った。