第29話 2日目
次の日の午前は、エイリクによる座学だった。
テーマは――モンスターに関する注意事項。
実戦で生き延びるために、知識こそが最大の武器だという。
なかでも、エイリクが何度も口を酸っぱくして繰り返したのが、スライムについてだった。
「比較的よく出会うモンスターで注意せねばならんのが、スライムじゃ」
エイリクは腕を組んで唸るように言った。
「やつらはな、叩いても斬っても効かん。まるでダメージを受けんのじゃ」
「じゃあ、どうやって?」
「焦るでない。まずは恐ろしさを知ることじゃ」
エイリクは真剣な口調で続けた。
「もし、やつらが顔に張り付いてきたら――終わりじゃと思え」
「……終わり?」
「お主水の中で溺れたことがあるか? そのとき、苦しいからといって、顔の周りから水を手で払い除けられるか?」
「いや……無理」
「それが、スライムちゅうもんじゃ」
その場に少し緊張が走った。
「じゃあ捕まったら……もうダメなんですか?」
「スライム自体はの、耐久力はそう高くない。だから爆発系のスキルを持っておる奴がおれば――張り付かれた本人ごと爆破して、運が良ければ助かる」
「本人ごと!?」
「張り付かれる前に処理するのが理想じゃ。凍らせて砕くか、炎で蒸発させるか、爆風で飛ばすのが定石じゃ」
エイリクは真剣な表情で言い切った。
「ただし、もたもたしておると、やつらは酸を浴びせてくる。つまり――有効打がないなら、逃げ一択じゃ」
「スライムって……そんなに厄介だったのか……」
つい、口をついて出た言葉だった。
建物の中に入ろうとして、あのぬるりとした化け物を見たときのことを思い出す。
もしもあのとき、ほんの少しでも判断が遅れていたら――
俺は今、ここにいなかったかもしれない。
背筋が、ぞわりと冷えた。
スライムなんて、ゲームでは最弱の象徴のような存在だと思っていた。
それが現実では、“張り付かれたら最後”だなんて。
「……なんか、俺の知ってるスライムと違うな」
ぼそっと呟いた俺に、エイリクは頷いた。
「うむ、大体は主のイメージした通りのものじゃがの。たまに――予想を覆すやつがおる」
「とくに“初めて見る魔物”には注意せい。油断が命取りになる」
その言葉が落ちきる前に、甲高い警報音が訓練場に響き渡った。
反射的に立ち上がり、エイリクの方を見た。だが彼はどこか落ち着き払った表情で、椅子に腰を落ち着けたままだ。
「お主は、まだ行かんでええ」
その一言で、俺の緊張が少し緩む。
「毎日持ち回りでな、当番が決まっておるのじゃ」
「当番制にすることで、抜くときは抜く、締めるときは締める。そうやって無理なく回しておる」
ゆっくりとした口調ながらも、そこには組織としての知恵と経験がにじんでいた。
命が関わる現場だからこそ、冷静で持続可能な運用が求められる――
ノウシスはそれを理解している。
「それに主は、実戦にはまだ早すぎるわい。いまは訓練に専念するがよい」
言い聞かせるように、けれどどこか優しさを滲ませる口ぶりだった。
命を懸ける戦いを、決して軽んじていないからこそ――
彼の言葉は、妙に心に響いた。
俺は小さく頷き、再び椅子に腰を下ろす。
そのあとは、エイリクと一緒に昼食を取り、午後に入ってすぐ、マティアスさんから呼び出しがかかった。
本部棟の一角――静かな廊下を進み、重厚な扉の前に立つ。
手を伸ばし、ノックの音を響かせた。
コン、コン――
数秒後、扉の向こうから穏やかな声が返ってくる。
「どうぞ」
その声だけで、胸の奥がわずかに引き締まった。
俺は深呼吸をひとつしてから、ドアノブに手をかけた。
ドアを開けると、そこは静かな書斎のような空間だった。
壁一面の本棚にぎっしりと並ぶ本と資料、そして高窓から差し込む柔らかな自然光が、木の家具をやわらかく照らしている。
その中央、整然としたデスクの前に立っていたのは――マティアス・リーベ。
その立ち姿には、品と静謐<せいひつ>さが自然に宿っていた。
彼は俺に気づくと、ふわりと穏やかな微笑みを浮かべた。
「吉野君、座ってくれていいよ。呼び出してしまって申し訳ない」
「いえ……」
促されるまま椅子に腰を下ろすと、マティアスもゆっくりと対面の椅子に腰を下ろした。
「何か困っていることや、不便はないかい?」
ルチアの“自由すぎる導き”が一瞬頭をよぎるが……今は胸の奥にしまっておくことにした。“今回は”
「いえ、皆さん本当によくしてくれて……助かってます。あと、滞在費までいただいて……ありがたいです」
マティアスは目を細め、柔らかく頷いた。
「問題がないのなら何よりだ」
「昨日、契約のときに聞いたかと思うが、ノウシスでは所属メンバーに月ごとの給料を支給している。安心して生活できるようにね」
少し迷ってから、俺はおそるおそる口を開いた。
「あの……聞いていいのか、わからないんですが……」
「なんだい?言ってごらん」
「このお金って……いったい、どこから?」
マティアスは少しだけ目を細め、どこか懐かしむような表情で答えた。
「ノウシスに出資してくれている人物がいてね。私の古い友人だよ。安心してくれていい」
「それに、我々自身も企業として事業を展開している。資金面は心配しなくてもいいんだ」
「……すごいですね。失礼なこと聞いてすいません……」
俺は視線を落とし、思わず謝ってしまう。
だがマティアスは、静かに首を振って言った。
「謝らなくていい、気にして当然のことだよ」
その言葉は、問いを否定するのではなく、真摯に受け止めた上で包み込むようだった。
「ここに来るまでは……楽な道のりではなかったよ」
ふっと、マティアスは小さく笑う。
その笑みには、年月を積み重ねた者だけが持つ、深い静けさと優しさが宿っていた。
険しい道を越えてきた男の、揺るぎない強さと、誰かの痛みを知るがゆえの温もり。
この人が、この組織を支えている――そのことが、不思議と誇らしく思えた。
「でも、苦労した甲斐はあった。多くの友人と出会うことができたからね」
そして、まっすぐな眼差しで俺を見つめて言った。
「君もその一人だ」
言葉が胸の奥に沁みこんでくる。
まだ何も成し遂げていない。けれど、ここにいてもいいと、そう思わせてくれる言葉があった。
ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいだなんて――。
「焦らなくていい。君がどうしたいのか、ゆっくり決めればいい」
「日本の支部に行くのもいい、別の支部を選んでもいい。もちろん、ここに留まることもできる」
「君の考えが決まったら、教えてほしい」
優しく背中を押してくれるその声に、俺は静かにうなずいた。
部屋を出て、木漏れ日が踊る中庭をゆっくりと歩いていく。
澄んだ空気が肺に満ちて、少しずつ、身体の奥に残っていた重たさが抜けていくのを感じた。
午後は、盾の達人――ハーコン・ビョルクマンとの訓練だ。
俺は今、訓練用の装備庫に立ち、使用する鎧を選んでいた。
並んでいるのは、重厚なプレートアーマーから、軽量なレザージャケット、
布製のコートタイプまで、さまざまな種類。すべて実戦仕様で、見た目より遥かに機能的らしい。
(どれを選ぶべきなんだ……)
正直、どれが正解なのか分からない。
重ければ動きづらくなりそうだし、軽すぎれば不安になる。
そんな俺の様子を見ていたハーコンが、無言で一歩、前に出た。
「吉野。お主は速さより、まずは“耐える”ことに慣れるのである」
そう言って、棚の中段から金属と布を組み合わせた中量級のチェストプレートを手に取る。
「これは軽すぎず、重すぎず。初期訓練には丁度いい。動きの練習と防御の感覚、両方に適しているのである」
そう言って手渡された装備は、思ったよりも重い。
「ありがとうござ……」
「礼は、実戦で返すのである」
ハーコンの言葉は相変わらずぶっきらぼうだが、不思議と冷たさはない。
装備を身に着けると、自然と背筋が伸びた気がした。
(……よし)
午後の訓練は、まだ始まったばかりだ。
無駄のない動作、緻密なカウンター、そして何より“構える意志”の大切さを、身体に叩き込まれていく。
一見地味だが、一つひとつの所作に意味があり、奥深く、ただただ集中する時間が流れた。
やがて訓練が終わるころ――。
「どうじゃ吉野、頑張っておるか!」
どこからともなく聞き覚えのある声が飛んできた。振り向けば、案の定エイリクが仁王立ちしていた。
「うむ、なかなか筋が良いのである」
ハーコンが腕を組んで、いつもの調子でうなずく。
「そうか、なら酒じゃな!」
「であるな」
がははははは、と二人揃って豪快に笑う。
「めでたいのう」
「である」
俺は汗を拭きながら、ため息交じりに呟く。
「……飲めたら理由は何でもいいんだな」
笑い声と木漏れ日の中、バイキング二人の背中を見送りながら、
今日という一日がまた、かけがえのない一日として胸に刻まれていくのを感じた。
がははははは、と二人の笑い声がどこまでも響いていた。




