第24話 日常
ノックの音が、応接室の静けさをやわらかく破った。
「どうぞ」
マティアスの穏やかな声が返ると、扉が静かに開かれる。入ってきたのは、小柄で明るい雰囲気の女性――ルチアだった。
「ルチア君、彼に食堂へ案内をお願いできるかな。食事の後は、マチルダ君の所へ」
「はい、了解です」
ルチアは軽やかに頷き、にっこりと笑ってみせた。その笑顔は、この場所の空気を少しだけ柔らかくする。
「吉野君、何か困ったことがあれば、遠慮なく私を訪ねてきたまえ」
マティアスはそう言って、紅茶のカップをそっと置いた。
「……ありがとうございます」
頭を下げると、ルチアが俺の方を向いて手招きした。
「では吉野さん、行きましょうか」
俺は立ち上がり、彼女のあとに続く。
廊下を歩いていると、ルチアが明るい声で話しかけてきた。
「ここの食事、おいしいんですよー。気を抜くと、つい食べ過ぎちゃうくらい」
「……そうなんだ」
「特にパンが絶品で、バターと合わせたらもう最高なんです。あ、でも私は太りやすい体質だから、
毎回“今日は控えよう”って思って……まあ、控えられた試しはないんですけど」
彼女の口調があまりにも自然で、つい口元がゆるんでしまう。
(このテンション、ちょっと元気すぎる……でも、嫌じゃないが)
石畳の小道を抜けると、森の中に溶け込むような平屋の建物が現れる。
大きなガラス窓からは、木漏れ日が差し込み、外観からも落ち着いた空気が漂っていた。
「ここが食堂、あ、こっちね」
ルチアがぱたぱたと先を歩き、俺を振り返って笑う。
食堂の扉をくぐると、ふわりと温かい優しい匂いが鼻をくすぐった。
パンの焼けた香ばしさ、香草の香りがほんのり立ち上るスープ、グリルされた肉や野菜の芳ばしさ……胃が思わず反応する。
「セルフサービスだけど、わからないことがあったら聞いてくださいね」
ルチアに案内され、料理が並ぶビュッフェコーナーへ向かう。
スープ、サラダ、肉料理にパスタ、そして数種類のパン。見た目も華やかで、思わず目移りしてしまう。
「うわ……思ってたより、ずっと充実してるな」
「ふふっ、でしょ? 実はここ、栄養士さんが常駐してるんです。戦う人たちの体調管理って大事ですからね」
ルチアはトレイを取り、手際よく料理を選んでいく。俺もなんとか後を追い、スープとパン、そして肉料理を皿に載せた。
「こっちにしましょ」
ルチアが示した窓際の席に向かう。
木のフレームで囲われた大きなガラス窓からは、深い緑の森が望めた。
光が静かに差し込み、まるで時間がゆっくりと流れているように感じられる。
席につき、ひと息ついた瞬間――
「改めて、ようこそノウシスへ!」とルチアが笑顔で言った。
その何気ない一言に、不思議と肩の力が抜けていく。
「……ありがとう」
自然と出たその言葉に、ルチアは首を傾げながら「どういたしまして」と返す。
この食堂には、静かな安心感があった。
そしてルチアの存在もまた、この“知らない世界”への第一歩を、ほんの少しだけ優しくしてくれている気がした。
「どう? 想像と違った?」
「……もっと、なんていうか、軍隊っぽい雰囲気かと思ってた」
「ふふっ、でしょ? でもここは“皆の居場所”だから、リラックスできる空間も必要なのよ」
そう言って、ルチアは今日のおすすめ――ハーブローストチキンを一口食べる。
「……落ち着くな」
思わず漏れたその言葉に、ルチアが満足げに頷く。
「でしょ? ノウシスの施設って、そういう“静けさ”を大事にしてるの。焦ってばっかりだと、いい判断もできないから」
俺は小さく息を吐いて、スープをひと口すする。優しい味だった。胃が、やっと落ち着いたような気がした。
食事を終えると、マチルダと呼ばれる人物のもとへと案内してもらっている。
「マチルダ先生は凄い美人なのよ、ヴェルコール・ステッドのマドンナなんだから」
食事を終え、トレイを返却すると、ルチアが元気よく立ち上がった。
「じゃあ次は、マチルダ先生のところね!」
彼女の足取りは軽く、こちらの緊張とは裏腹にどこかウキウキしているようにも見える。
「マチルダ……先生?」
「うん、ヴェルコール・ステッドの“保険医”っていうか、なんていうのかな……お医者さんみたいな存在!」
そう言いながら、ルチアは指を立てて小さくクルクル回す。
「それにね――めっちゃ美人なのよ。スタイル抜群で優しいの。
まさに“マドンナ”って感じ! たぶん本部の中で、密かにファンクラブとかあるんじゃないかなぁ」
「……先生って、そんな立ち位置なのか?」
「ふふっ。まあ見ればわかるよ」
廊下を歩くうちに、空気が少しひんやりしてくる。
さっきまでの食堂のぬくもりが夢だったかのように、足音だけが控えめに響く。
「マチルダ先生、すっごく優しいけど、ちょっとだけ怖いとこもあるの」
「怖い?」
「うん。怒らせると顔は笑顔なのに無言の圧が凄いのよね」
冗談めかしてルチアは笑うが、どこかリアルなニュアンスが混じっている。
「でも大丈夫、吉野さんが変なことしなければ平気よ」
「……変なことはしない...と思う」
「思う、って何!」とルチアが楽しげに笑う。
歩きながらの会話は自然と肩の力を抜いてくれていた。廊下の先には、
外来受付のようなシンプルなカウンターがあり、その奥に、医務室らしきプレートが掲げられた扉が見える。
「ここがマチルダ先生のいる医療棟。といっても、病院ってほど堅苦しくないから安心してね」
ルチアが軽くノックをし、「先生、吉野さんをお連れしましたー」と声をかける。
扉の奥から返ってきたのは、落ち着いた女性の声だった。
「どうぞ」
ルチアがドアを開けて中に入るよう促す。
「さあ、マドンナのお出ましよ。……がんばってね」
少しだけ茶化すようにウインクをして、ルチアは小声でそう言った。
そして俺は、静かにその扉をくぐった。
目に飛び込んできた女性を見た瞬間、ルチアの言っていたことを思い出す。
(……ああ、これは確かに“マドンナ”だな)
美しいブロンドの長い髪、白衣の袖からはすらりとした指先が覗く。
歳は――三十代後半くらいか。だが、彼女から感じるのは“年齢”ではなく、圧倒的な落ち着きと静かな気品だった。
思わず背筋が伸びる。
俺はすぐに一礼し、名乗った。
「吉野英斗です」
「マチルダ・グレーベです」
彼女は優しく微笑みながらそう名乗り、手元に置かれたタブレットを閉じて立ち上がる。
「マティから話は聞いています。今日は、ライブラについて基礎的な知識を少し――」
言葉を続けながら、椅子を指して座るよう促してくれる。
俺は頷いて椅子に腰を下ろしたが、まだどこか緊張が抜けきらない。
マチルダはそんな俺の様子を察したのか、ふっと微笑を深める。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。今日は戦うわけではありませんから」
その声はまるで、深い森の中に差し込む陽だまりのようだった。
「大事なことですので、しっかりと学んで行ってくださいね」
やわらかく、それでいて芯のある口調。
彼女の声を聞いているだけで癒される。
幸せな気分に浸っていた。
だが、その静寂はあっさりと破られた。
「……ん?」
腰のあたりに、妙な違和感。
視線を落とすと、俺の脇腹を肘でツンツンとつついている人物がいた。
「……って、おい」
横を見ると、ルチアが隣にちゃっかりと座っている。
にやにやと、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべながら、俺の反応を楽しんでいるようだった。
「なんでルチアも座ってるんだ?」
思わず声を低めに問いかけると、彼女はまったく悪びれずに肩をすくめた。
「誰も“帰る”なんて言ってませんけど?」
得意げに眉を上げ、どうだと言わんばかりの目でこちらを見る。
(まったく……)
俺は大きくため息を吐いた。
けれど、その溜息の中には、どこかほんの少しだけ――笑みが混じっていたかもしれない。