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第23話 マティアス





 誰かがドアをノックする音が聞こえた。ジャンが来たのだろうと立ち上がったその瞬間――


「おはようございます!」


 扉が開き、軽やかな声と共に、小柄な女性が姿を現した。


「ジャンさん、急用が入っちゃって。今日は私が代わりに案内しますね」


 明るく笑うその女性に、一瞬言葉が出なかった。ジャンじゃない。誰だ、この人は。

挿絵(By みてみん)

 固まっている俺をよそに、彼女はくるりと踵を返すと、手を振りながら言った。


「それじゃ、行きましょ〜!」


 置いていかれまいと慌てて後を追う。


 途中で彼女の名前を聞いた。ルチア・リナルディ。ノウシス本部に勤務する職員で、

 イタリアでスカウトされたらしい。とにかくよく喋る。明るくて、元気で、ちょっと自由すぎる。


「えーっとね、今日はラッキーだよ。なんと、ボスがお時間くださるって!緊張する? しない? 大丈夫、怖くない人だから!」


 彼女にそう言われても、内心は落ち着かない。組織のトップ? そんな偉い人に会うだなんて、いったい何を話せばいいんだ。


 歩きながら、やがて本部の建物が見えてきた。


 外観は森と調和するような穏やかなデザインで、

 近代的なのにどこか柔らかい。中へ入ってみると、その印象はさらに強まった。


 広々とした廊下に、木の質感を活かした温もりある内装。

 すれ違う職員たちの表情もどこか柔らかい。


 以前勤めていた会社とは真逆だった。あの頃は、いつも時間に追われ、誰もがギスギスしていた。

 ここには、そういった刺々しさがない。空気まで違って感じる。


 やがて一室の前でルチアが立ち止まる。


 ドアを軽くノックすると、中から落ち着いた男性の声が返ってきた。


「どうぞ」


 ルチアが扉を開け、俺を中へ促す。


「吉野英斗さんをお連れしました」


 部屋の奥にいた男が軽く微笑んで「ありがとう」と言うと、

 ルチアは静かに頭を下げて、扉を閉めて去っていった。


 中は、木目の映える応接室だった。壁には控えめな装飾。

 窓からはやわらかい朝の光が差し込み、落ち着いた空間をつくり出している。


「はじめまして。私はマティアス・リーベ。このノウシスの代表を務めている。長旅大変だったね。」


 男――マティアスはそう言いながら、俺に椅子をすすめた。


 見た目は六十代前半といったところか。胸元まである長い髪に、ところどころ白髪が混じっている。

 眼鏡越しの瞳は柔らかく、それでいて深く、何かを見透かすような眼差しだった。

挿絵(By みてみん)

「吉野英斗です。はじめまして」


 緊張しながらも、座って名乗ると、彼は穏やかに頷いた。


 マティアスはゆっくりとティーポットを手に取り、俺のカップに紅茶を注いでくれる。

 立ち上る湯気の中に、淡い香りが広がった。気持ちが少しずつ落ち着いていくのを感じる。


 ――この空間が、彼の雰囲気が、そうさせているのかもしれない。


「こうして会うのは初めてだけど、ジャンから君のことは聞いているよ。少し、疲れた表情をしているね」


「……まあ、いろいろあったんで」


 思わず漏れた言葉に、マティアスは小さく頷いた。


「そうだろうね。突然異国に連れてこられて、知らない組織に案内されて……私が逆の立場なら、きっと同じ顔をしている」


 その言葉に、思わず口元が緩んだ。


「それにしても、紅茶の香り、いいですね」


「ウィーンから取り寄せているんだ。昔、演奏の前によく飲んでいた。落ち着く香りでね」


「演奏……? 音楽、されてたんですか?」


「昔ね。ヴァイオリンを少し。今でもたまに弾くよ、手が覚えていてくれるから」


「……ちょっと意外です」


「はは、よく言われるよ。『組織のリーダー』って肩書きのせいかな?」


 どこか茶目っ気を含んだその言い方に、英斗の肩の力がふっと抜ける。


「……なんか、話しやすい人で、ちょっと安心しました」


「よかった。それが一番大事だからね。ここは君が試される場所ではない。……安心して話してくれていいよ」


 マティアスの眼差しは、まるで長年の友人に向けるような温かさを含んでいた。


「それじゃあ――君の話を、聞かせてもらえるかな。ライブラを拾ってから、今日ここに来るまでのことを」


 ゆっくりとカップを手に取りながら、俺は自然と話し始めていた。


 マティアスは、俺の話のあいだ一度も言葉を挟まず、ただ静かに耳を傾けていた。

 顔色ひとつ変えずに、けれど確かに「聞いてくれている」と分かるような眼差しだった。


 言葉に詰まりながらも、俺は話し終えた。

 どこか不思議と、最初に感じていた緊張は薄れていた。


 部屋には静寂が広がっていた。

 壁際に置かれた古い振り子時計の音が、ゆっくりと時を刻んでいる。


 カップに注がれた紅茶の湯気は、いつの間にかほとんど消え、仄かな香りだけが空気の中に残っていた。


 沈黙ののち、マティアスがゆっくりと口を開く。


「……それだけの体験をして、よく生き残れたね。いや――」

 彼の声は、どこまでも穏やかで、深かった。


「よく……生き残ってくれた」


 その言葉に、胸の奥が少し熱くなった。


「ライブラを手にしたばかりの者は、生存率が極めて低い」

「何も分からないまま、戦いに駆り出され死んでしまう。あるいは、何もしないまま十年を迎えて……静かに命を失う者も」

「たとえ生き延びても、新たな災厄に巻き込まれて、命を落とすことも珍しくない」


 言葉の途中で、マティアスはほんのわずか、目を伏せた。


「……一人では、生き残れない」


 部屋の空気が、少しだけ重たくなったような気がした。

 けれど、その重みすら、どこか温かく思えた。


「だからこそ、私はこの組織を作ったんだ」

「情報を交換し、共に戦い、互いを守り合うために」

「ノウシスは、“生きる”ための拠点であり、学びの場だ」


 マティアスの言葉は淡々としていながらも、どこか祈るような響きがあった。


「君は、もう一人じゃない。ここには、君と同じように“生き残ってきた者たち”がいる」


 俺は、思わず両手の指を組んで俯いた。

 強く握りすぎて、手のひらに爪が食い込んでいたことに今さら気づく。


(俺は、ただ……運が良かっただけだ)


 でも――それでも、誰かがこの命を「よく生き残った」と言ってくれるなら。

 その言葉に、すがってもいいんじゃないかと思えた。


 彼の声が、静かに空間を満たしていく。

 言葉のひとつひとつが、心に染み込んでいった。


「死なないために、学んでほしい」

「これは、多くの犠牲の上に積み上げられた知識だ。きっと、君の助けになる」


 マティアスは、俺の目をまっすぐ見ながら続けた。


「ノウシスに入るかどうかは、君の自由だ。私たちは強制しない」

「ただ……」

 彼は、ふっと微笑む。


「お互いが“生き残る”ために協力しよう。それだけでいいんだ」


 その言葉に、俺はふと問いをこぼしていた。


「……マティアスさんも、ライブラを?」


 思わず口を突いて出た問いに、彼はゆっくりと頷く。


 胸元の内ポケットから、小さな装置を取り出して見せた。

 それは俺が持っているものと、どこか似ていた。けれど、少しだけ違う。風格のようなものを纏っていた。


「私も、プレイヤーだよ」


 淡い光を放つライブラを、手のひらに包み込むように見せながら、彼は静かに言った。


「多くの友人を……失った。彼らの死を、無駄にしたくなかった」


 その横顔には、年齢を超えた重みがあった。

 その眼差しの奥に、いくつもの別れと、後悔と、祈りが宿っているように見えた。


「日本にも支部はあるが……ここ、ヴェルコールは施設が充実している。落ち着いて学ぶには最適の場所だよ」


「……君がすぐに帰りたがるのも分かる。でも、焦らなくていい。まずは休んで、そして準備をするんだ」


 マティアスの声は、まるで音楽のようにやわらかく、俺の緊張をほどいていった。


 この人は、本当に――俺のことを、心から案じてくれている。


 俺の心はすでに決まっていた。

 静けさのなかで、希望の炎が小さく灯るのを感じていた。

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― 新着の感想 ―
生きるために創られた施設 生きるために学ぶための施設 ここで英斗がどんな選択をするのか気になります それにストーリーが重厚でさすがです
拘置所からイケオジとおしゃべり美女がいる謎の施設。 快適なところだが、信用して大丈夫か、と思いつつ次回へ。
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