第22話 Nosis(ノウシス)
運転席には無口な男が一人。俺の向かいには、例のジャン座っている。
今、俺たちはフランス南東部にあるという「ヴェルコール」へ向かっているらしい。
ノウシスという組織の本部がそこにあるという話だ。とりあえずそこに身を寄せて、今後のことを決める。
ジャンの言葉を信じるなら、そういう流れになる。
ただし問題は——
車に揺られてすでに三時間以上。目的地に着く気配がまったくない。
いい加減、尻の感覚がなくなってきた。クッション性なんて欠片もないこの座席は、まるで拷問だ。
耐えきれずに聞いた。
「なあ……いつ着くんだ?」
ジャン=ピエールは手元の文庫本から視線を外し、ちらりと腕時計を見た。
「あと……四時間くらいかな」
さらっと言って、また本に目を戻す。
「……四時間!?」
思わず声が上ずる。返ってきたのはページをめくる控えめな音だけだった。
黙って座っているのも性に合わない。気になっていたことを口にした。
「……どうして、そんなに日本語が上手いんだ?」
今度はページをめくる手すら止まらないまま、彼は言った。
「話せないよ」
「……は?」
「僕は日本語を“話せている”わけじゃない。君が日本語に聞こえてるだけだよ。便利だね」
ようやく本を閉じ、こちらに微笑を向ける。
「もしかして、それもライブラの影響か?」
「その通り。」
「ただし――文字は別だよ」
そう言って、自分が読んでいた本を差し出してくる。
そのページを覗き込むと、外国語が並んでいた。
「……何が書いてあるか、さっぱり分からないな」
「だろう?」
ジャンは肩をすくめ、くすりと笑う。
「会話はスムーズでも、書き言葉は別。そういう“微妙な仕様”がいかにもライブラらしい」
「他に何か聞きたいことはあるかい?」
「あんた...ジャンはライブラを持っているのか?」
視線を俺に向けた。
「僕はもってないよ」
「なら、ライブラの記憶がなぜあるんだ?……ただ見てないだけじゃ、説明つかないだろ」
俺の問いに、ジャンは口元をわずかに緩めた。
「それはね、ちょっとした“ズル”をしてるからだよ」
「ズル?」
思わず聞き返すと、彼は胸元の身分証を指先でコン、と軽く叩いた。
「正確には……研究成果のひとつ、というべきかな。これさ」
そう言って身を乗り出し、俺に見せてきたのは、一見すると普通の身分証だった。だが——
「よく見て、ここ」
名札の隅を指さす。そこには、硬質な光を放つ小さな赤い結晶が埋め込まれていた。まるで宝石の断面のような、不思議な輝き。
「これは“強欲の石”というものを加工して組み込んだものなんだ。これを身につけていると、ライブラによる記憶の影響を受けずに済む」
「……そんなものが」
視線が石に釘付けになったまま、俺は低く息を吐いた。
「ただ直に石に触ってはいけないよ、研究結果で若干の”精神への影響”が確認されている。
だから直接触れないように、我々職員は身分証にして携帯しているのさ。」
俺はその赤い石から目を離し、少しだけ考え込む。
「じゃあ……その石を持っていれば、消された記憶も戻るのか?」
ジャンはほんの少し眉を下げ、首を振った。
「残念ながら、それはない、何か方法があるかもしれないけれど、まだ記憶をとり戻す方法は見つかってないんだ」
「……そうか」
俺は小さく息を吐いた。
明夫さん、誠、そして村田さん。彼らのことを思い出す。きっと元気だろうが、
それが分かっていても、どこか虚しい。
(俺だけが、知っている)
車は、ゆっくりと山道を登っていく。重く、静かな時間が流れていた。
「パリで誰かに助けられたんだけど、あんたの……ジャンの仲間なのか?」
車内の静けさを破るように、俺はジャンに問いかけた。
「どうだろう、僕たちの仲間も確かにいたけど、
今回は君みたいに世界中から呼ばれたみたいだからね、わからないな」
ジャンは肩をすくめて見せた。
「ジャンは、どうして組織に入ったんだ?」
本を隣の座席においた。
「ヘッドハンティングされたんだ。僕は優秀だからね」
「情報収集、情報分析を専門にしていて、6年くらい前だったかな?」
「この僕が、知らない世界があるんだと興味を持ったんだ」
ジャンは懐かしむように窓の外に視線を動かした。
「今では僕の大事な場所だよ……君もそうなる」
まるで確信があるかのように俺をみつめる。
俺は苦笑し視線をそらした。
♦
「見えてきよ」
ジャンの声に、ぼんやりと外を眺めていた俺は視線を前へ移す。
車窓の向こう、深い森の合間に――
木の温もりを感じさせる、山荘風のゲートが姿を現した。
コンクリートではなく、あえて木材風の意匠で作られているのだろう。
重厚なのに威圧感はなく、自然の中に溶け込むような静けさが漂っていた。
ゲート前に到着すると、警備服を着た男性が車に近づいてくる。
運転手と数言交わしたのち、ゲートがゆっくりと音もなく開いた。
その瞬間、どこか境界を越えたような――
“俗世から一歩外れた場所”に足を踏み入れる感覚があった。
舗装された細い道を進むにつれて、森の中にいくつかの屋根が見えてくる。
大きな屋敷ではない。むしろ、複数の施設が点在する“村”のような景観だ。
建物はどれもシンプルで落ち着いた造りをしていた。
近代的でありながら無機質ではなく、周囲の自然と調和するように設計されている。
まるで自然保護区の中に、控えめに建てられた研究施設のようだ。
窓を少し開けると、ひんやりとした風が車内に流れ込んだ。
森の空気は澄んでいて、胸いっぱいに吸い込むと妙に頭が冴える。
車はゆっくりと敷地の奥へ進み、やがて静かに停車した。
「ノウシス本部、ヴェルコール・ステッドへようこそ」
ジャンが振り返る。
「ヘリがあれば楽だったんだけど、あいにく今日は出払っててね。ははっ」
車を降りると、長時間の移動で固まった体をほぐすように、思いきり背伸びをした。
肩と背中がバキバキに鳴った。だがその代わりに、肺いっぱいに澄んだ空気が流れ込む。
「疲れただろう。今日はまず宿を使って。話は明日にしよう」
そう言ってジャンが歩き出す。俺もその背を追った。
なんとなく“大きな役所”のような一つの建物を想像していたのだが、
ここはまるで“共同体”のような雰囲気だ。
道の両脇には、植物が自然に生えたままのように見えるが、
よく見ると人の手で丁寧に整備されていることがわかる。
あくまで“人工的すぎない自然”を保っているのだ。
やがて、小ぶりなコテージ風の建物の前に立ち止まった。
「ここだ。ゲスト用の宿泊棟さ」
中へ入ると、木の床が心地よい音を立てた。
シンプルな設えの室内は、整然としていて、清潔感がある。
必要最低限の家具と設備はすべて揃っており、どこか“寮”のような雰囲気すらある。
ジャンはそのまま室内に留まり、小さな冷蔵庫の扉を開けてみせる。
「中に軽食と飲み物がいくつか入ってる。足りなければキッチン棟に行けばいい。夜間でも対応してるよ」
「……なんか、想像してたよりも、ずっと“人の暮らし”があるな。」
ぽつりと呟いた俺の言葉に、ジャンは柔らかく笑った。
「そう思ってもらえるなら、成功だ。ここは要塞でも軍でもない、“生きて帰るための拠点”だからね」
一瞬、彼の言葉の意味を考える。
この場所はただの施設じゃない。誰かが死なないために作られた、避難所であり、訓練の場であり、希望の残滓<ざんし>なのかもしれない。
「思ってた“秘密結社”とは、ずいぶん違う」
ジャンは目を丸くし、冗談を交わすように肩をすくめた。
「秘密にしてるつもりはないよ。……ただ、知ってる人が少ないだけさ」
その言い方が妙にしっくりきて、思わず小さく笑ってしまう。
ジャンはそれを見て、ふっと口元を緩めた。
「ここのベッドの寝心地は硬すぎず柔らかすぎずってところかな。腰に優しいって評判なんだ」
「……それは、ありがたい」
思わず、ふっと笑いが漏れる。重たい緊張が、少しだけ解けた気がした。
「服と靴も用意しておいたよ。いつまでも患者衣のままじゃ落ち着かないだろう?」
言われて、自分の格好に視線を落とす。
(……そういえば俺、靴すら履いてなかったんだっけ)
急な転送、病院、拘束。いろいろありすぎて、服のことなんかすっかり忘れていた。
「寝る前にシャワーも浴びたまえ」
遠回しに匂うと言われていると理解した。
留置所ではシャワーすら浴びれなかったことを思い出す。
ジャンが部屋のドアまで戻りかけ、ふと思い出したように振り返る。
「ああ、そうだ。朝は少し冷えるから、ベッド脇の毛布も使うといいよ。
あと、明日迎えに行く前に施設内を少しだけ散策してもいい。許可は出てる。
警備員に声をかければ案内してくれるよ」
「……わかった」
彼は最後に、やわらかく微笑んで言った。
「おやすみ、吉野君。ここは、思ったより安全な場所だよ。安心して休んでくれ」
そう言い残して、ジャンはウィンク一つ残して、軽やかに去っていった。
◇
部屋の中は、しんと静まりかえっていた。
ごろんとベッドに横になる。天井は木目調のまま、何も飾り気はない。
だが、それが今は妙に落ち着いた。
静かだ……ここまで静かな夜は、いつぶりだろう。
遠く、風に揺れる木々の音が聞こえる。虫の鳴き声すら、心を和ませる。
(……俺は、本当に“拾われた”のかもしれないな)
少しずつ、まぶたが重くなる。
ライブラは、今もポケットに入ったままだった。
眠りに落ちるその寸前、英斗の胸の奥には、どこか小さな“安心”が灯っていた。