第21話 現れた男
ベッドに深く背を預けたまま、英斗は天井を見つめていた。
このままここにいれば、運が良ければ日本に送還されるか──
あるいは、入国記録のない“謎の男”として拘束されるかもしれない。
フランスでの不法滞在、事件への巻き込まれ、身元不明。
すべての状況が、俺を“自由の外”へと追いやろうとしている。
だが、それだけは絶対に避けなければならない。
ライブラの画面に、静かに浮かび上がる数字。
【寿命:88日】
寿命を延ばすには、ミッションに参加するしかない。
転送されるような事案が頻繁にあるとは思えない。
つまり、拘束されて動けなくなれば、寿命は減る一方。
何もせずに、死を待つことになる。
今日は取り合えず休もう明日になれば怪我も治るだろう。
逃げるにしても走れないとな...
不安は残るが今日は寝ることにした。
翌日、病室のドアがノックされ、次いで静かな音を立てて開いた。
「失礼するよ」
低く落ち着いた声がそう告げた直後、男が一人、ゆっくりと部屋に入ってきた。
スーツ姿の男。医療関係者ではない。
年の頃は三十代半ば。表情は穏やかだが、その目はどこか底が見えない。
(……誰だ?)
しかもその口から発せられたのは、流暢な日本語。
この病院に来てから、皆が日本語を話す。
もはや不自然ですらないが、やはり引っかかる。
(……ヤバいか?)
身元不明、事件関係者。
当然、こういった男が現れてもおかしくない。
英斗は内心で警鐘を鳴らした。
男は椅子を引き、勝手に腰を下ろす。
「吉野エイト君……だね?」
英斗は警戒を隠しきれないまま、頷いた。
声を出すと喉が乾いているのがわかる。
「昨日、ここの医師に“ゲーム機”を見せたそうだね。僕にも見せてもらえないかな?」
……予想外の言葉だった。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
(ゲーム機……ライブラのことか?)
(ただ情報が欲しくて見せただけだが、昨日の医者、記憶が消えてなかったのか!?)
ライブラの影響は完全ではない?それとも別の何かがあるのか?
男は、まるで全てを見透かしたように、続ける。
「私の知人にもいるんだよ。不思議な“ゲーム機”を持っている人がね」
その言葉に、全身の神経が一気に研ぎ澄まされた。
(こいつ……シゲルの仲間か!?)
疑念が脳裏を駆け抜ける。
次の瞬間には、英斗の手がライブラを握りしめ、体が勝手に動いていた。
ベッドから飛び出し、病室のドアに手をかける。
「待て──!」
男の声と同時に、肩を掴まれる。
反射的に、男の手に自分の手を重ねて──
「クラックル!」
バチッ!
電撃が弾け、男は驚いたように手を引いた。
制止の声を振り切り、廊下に飛び出す。
足音が病棟に響く。どこへ向かえばいいかなんて、考えている暇はない。
とにかく、逃げなければ。
廊下の突き当たり、非常階段の表示が目に入る。
英斗は迷わず階段へと駆け込んだ。
非常口の扉が閉まる瞬間、先ほどの男が電話している姿が見えた。
ここは四階。
一段飛ばしで駆け下りながら、心臓が破裂しそうなほど鳴っている。
一階に辿りつき非常階段からでる。
闇雲に進むと病院の出入り口が見えてきた。
(もうすぐ出口だ)
病院の出入口目前。朝の光がガラス越しに射し込むロビーの中、もう一歩で外へ出られる、そう思っていた。
だがその瞬間――
「動くな!」
低く鋭い声が空気を裂いた。反射的に足が止まる。
目の前に、二人の男が立っていた。
一人はスーツにネクタイ、髪型もきっちり整えた整然たる風貌。もう一人は私服姿、腕組みをしたままこちらを値踏みするような目で見ていた。頬にうっすらと無精髭、体格もがっしりしていて、ただ者ではない空気が漂う。
(……警察……いや、それだけじゃない)
英斗の直感が告げていた。スーツ姿の男は、国家警察の刑事。そしてもう一人は、おそらく移民局の実動部隊――不法滞在者の摘発を行う実務担当者だ。
「両手を見える位置に、ゆっくりと挙げろ」
スーツの男が日本語で命じる。俺は動けずにいた。逃げ場はもう、ない。
「俺は……何もしてない」
そう絞り出すように言ったが、手はゆっくりと挙あげる。
「君の身柄は保護される。今はそれ以上のことをしないでくれ」
言葉は穏やかだが、口調に“余地”はなかった。
男――私服のほうが、懐から手錠を取り出した。背後に回り、静かに手首を拘束する。
「……チッ」
舌打ちが漏れた。逃げ切れなかった。
拘束され、腕をつかまれて歩かされる途中、ふと病院の入口近くに目をやった。
──いた。
病室に現れた、あのスーツの男が、ガラスの外からこちらを見ていた。携帯電話を耳に当て、何かを話している。
表情に怒りも焦りもない。ただ、静かに英斗の姿を見つめていた。
パトカーは、既に病院の脇に横付けされていた。警官が後部座席のドアを開ける。抵抗もできず、男たちに促されるまま車内に押し込まれた。
バタン、とドアが閉まる音が、やけに冷たく響いた。
車が動き出す。窓の外、病院の前でスーツの男はまだ電話をしていた。
その横顔は、どこか寂しげだった。
♦
取り調べ室に連行され、硬い椅子に座らされ、鉄製のテーブルを挟んで国家警察の刑事と向かい合っていた。
部屋の空気は重く、静かだった。壁には時計と防犯カメラが見える、男が英斗にゆっくりと言葉を投げかけてくる。
「名前は?」
「吉野エイト」
「生年月日は?」
「1992年、8月9日」
「なぜフランスに?」
「わからない」
「入国の手段は?」
「……覚えてません」
最初のうちは淡々とした質問が続いた。しかし、「わからない」「記憶が曖昧だ」という返答が続くと、次第に空気は変わっていった。
「君の入国記録がどこにも存在しない。どの空港にも、どの船舶名簿にも、名前はない」
刑事の声には、かすかな苛立ちが滲み始める。
「事件当日、なぜ君はあの場所にいた?」
「……気づいたらいた。記憶はないんだ。……本当に」
俺は視線を合わせない。言えないことばかりだ。だが、言ったところで信じてもらえるはずがない。転送、魔物、ゲームのような戦い──誰がそんなことを信じる?
無言が続くたび、時間がゆっくりと過ぎていく。
やがて、取り調べは打ち切られた。
「失踪者リストにも君の名はない。日本の警察にも照会中だ。だが、今のところ君は“存在していない人間”として扱われている」
静かに、しかし重く告げられる言葉に、拳を握りしめるしかなかった。
「これ以上は大使館と移民局の判断になる」
男はそれだけを言い残して、部屋を出ていった。
◇
数時間後、留置施設へと移された。
薄暗いコンクリートの壁、鉄格子の小さな窓、分厚い鉄扉──冷たい空間だった。
留置施設での時間は、耐えるだけだった。
窓のないコンクリートの小部屋。細く差し込む光は、朝か夕かさえわからない。布団の代わりに、薄いマットが敷かれているだけだった。
一日が過ぎるたび、寿命も一日分減っていく。それが何よりも恐ろしかった。
夜ごとにライブラを見つめていた。時間は、確実に命を削っている。
食事は温いスープとパン。看守は必要以上に話しかけてこない。誰も、彼が何者かを知らない。ただ、正体不明の男として、ここにいるだけだ。
(このままじゃ、ミッションどころじゃない……)
不安と焦燥。だが、それ以上に──“無力感”が英斗を蝕んでいた。
◇
そして、四日目の朝。
看守が鉄扉をノックし、低く呼びかけた。
「出ろ。面会だ」
俺は立ち上がり、無言で頷いた。
案内された小さな面会室。そのガラスの向こう側に──あの男がいた。
病室に現れたスーツ姿の男。あのとき「クラックル」で電撃を食らわせた相手。
今も整ったスーツに身を包み、表情は変わらない。だが、ガラス越しの目は、どこか柔らかかった。
受話器を取ると、男もそれに応じた。
「ようやく落ち着いたかい、吉野エイト君」
俺は、無言のまま受話器を握りしめた。
「君を捕まえたのは、僕じゃない。君が勝手に逃げたんだ」
「……疑って当然だろ。俺はお前たちに殺されかけたんだ!」
「それは私たちではないと思うけどね。僕は君を助けたいだけだよ」
俺は、少しだけ目を細めた。
「……あんた、何者なんだ?」
男は小さく笑い、答えた。
「僕はジャン=ピエール・ロッシュ。ジャンと、そう呼んでくれて構わないよ。
君のような存在──ライブラの所持者を支援している組織に属している」
「組織?」
「君を“ここ”から出す手は打った」
「……は?」
「明日、釈放される。保証人がついた。君の“保護者”という扱いでね」
「保護者?」
男は頷いた。
英斗は、受話器を強く握りしめた。
「……なんでそこまでする」
ジャンは静かに答える。
「君はまだ知らないことが多すぎる。まずは知ることだ」
それだけを言うと、ジャンは立ち上がった。
俺もまた、受話器を静かに置く。
別れ際、ガラス越しに、男が口元だけでこう言った。
──「君は独りじゃない」
──その言葉が、静かに、だが確かに胸に響いた。
胸の奥に、燻るように残っていた孤独が、少しだけ和らいだ気がした。
翌日。
予定通り、留置所を出た。
重たい鉄の扉が開かれた瞬間、外の空気が頬に触れる。
久しぶりの自由は、どこか現実味に欠けていた。だが、歩みを止めるわけにはいかない。
出迎えに現れたジャン、昨日と変わらぬスーツ姿だった。
まるで、昨日の面会がただの予告でしかなかったかのように、彼は当然の顔でドアを開けてみせる。
「それでは──我々の“組織”へ案内しようか」
俺は一度だけ空を仰いでから、無言で頷いた。
車のドアをくぐり、シートに身を沈める。
エンジンがかかり、車はゆっくりと走り出した。
その振動が、まるで“次の物語”へと導いていくように思えた。
──運命歯車が回りだす。
ゆっくりと、静かに。
その先にある大きな歯車を回すために...
ようやく、物語は新たなフェーズへ。
第2章「Nosis編」、静かに幕が開きます──。」
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