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第19話 噴水

 俺たちは移動を続けていた。


 スケルトンとの死闘の余韻を引きずりながら、血の匂いが染みついた夜の街を進む。

 俺はアドンの肩を借り、片足を引きずるように歩いていた。

 足取りは重く、体の芯に冷えた痛みが残る。だが立ち止まれば、次に何が襲ってくるか分からない。


 夜のパリは、あまりにも静かだった。


 瓦礫と黒煙に沈んだ街並みには、もはや人の気配がほとんどない。

 先ほどまで響いていた悲鳴も、破砕音も、今はまるで幻だったかのように消えていた。


 逃げきれたのか、それとも……。


 遠くで破裂音のような爆音が響いた。

 金属を叩きつけたような轟音と、何かが潰れるような重い音。

 軍隊か、それとも……ライブラの所有者が、まだどこかで戦っているのか。


「ねえ、あそこで少し休みましょう」


 エマが指をさしたのは、崩れかけたカフェの軒先だった。

 看板は傾き、ガラスは割れているが、雨風をしのげるだけの壁は残っている。


 そのすぐそばに、小さな円形の噴水があり中央には彫像のオブジェが並んでいる。


 俺とアドンは、無言のままうなずく。 壁の陰に身を寄せ、腰を下ろした。

 倒れ込むように背を預けると、ズキリと肩に重い痛みが走る。


「エイト、ナイフ借りるわね」


 俺が反応するよりも早く、エマの手が俺の腰に触れ、ナイフを抜き取る。 その動作に迷いはなかった。


 裂けたジャケットの裾を手早く引き裂き、エマはそのまま俺のもとへしゃがみ込む。


「傷、見せて」


 拒否する余裕はなかった。

 ゆっくりと押さえていた手をどかすと、赤黒く染まったシャツの隙間から、肉の裂けた傷口が覗いた。


「ちょっと痛いわよ」


 そう言いながら、エマは裂いた布を手早く包帯のように巻きつけた。

 ぎゅっと締められると、肩に雷のような痛みが走った。


「くっ……!」


 うめき声が漏れる。肩に熱と痛みが込み上げ、視界が歪む。


 だが、その痛みすらも、どこか安心感を覚えさせるものだった。


 生きている――そう実感させてくれる痛みだった。


「ありがとう、助かるよ……」


 かすれる声で礼を言うと、エマは小さく微笑んだ。


「気にしないで。それよりも、急がないとまずいわ。病院に行かないと……このままだと本当に危ない」


 その表情には、不安と、それを押し殺した覚悟の色が滲んでいた。


「君たちだけでも逃げてくれ……俺はここで隠れているよ」


 足手まといの俺がいては、彼らが逃げられないかもしれない。


 これは強がりでも、ヒーロー気取りでもなかった。

 ライブラの仕組み上、一晩耐えれば、ある程度の傷は癒える。


 ただし、化け物をやり過ごし、出血多量で死なないという前提ではあるが――。


「恩人を見捨てるなんて、寝覚めが悪い」

 アドンがそう言って、俺の腕をそっと支えた。「……余計なこと喋らずに体力温存してろ」


 その声音は、驚くほど優しかった。


「フランス人をなめないで」エマが、にこりと笑って言った。


 怒っているわけじゃない。けれど、その瞳の奥には、確かな意思と強さが宿っていた。


 アドンはゆっくりと立ち上がり、静かに周囲を見渡す。


「化け物も見かけなくなってきた。もう少し距離を取れたら、安全圏に入れるかもしれない」

「そしたら、すぐに病院を探そう。……どんな手を使ってでもな」


 その言葉が、どれほど心強かったか。


 俺は、自分の無力さを噛み締めながらも、彼らに対する感謝が胸に満ちていた。


「……ありがとう、本当に」


 言葉にしても足りない。けれど、それしか言えなかった。


 アドンが片膝をつき、俺の腕を支える。


「立てるか? そろそろ移動しよう」


「……ああ、行こう」


 俺は重たい体を引きずりながら、ふたたび立ち上がった。

 アドンとエマに肩を借り何とか歩き出す。


 そのときだった。


 ……気のせいか?

 視界の端で、何かが動いた気がした。


「待て」

 反射的に言葉が漏れる。 アドンとエマも立ち止まり、息を殺して周囲を見渡す。


「……どうした?」

 アドンが小声で尋ねる。


 エマは俺の様子をじっと見つめ、次いで街路の先に視線を巡らせた。


 ……何もいない。

 静寂が耳に痛いほどだった。


「……ごめん、気のせいかも」

 自分の焦りを誤魔化すように、かすかに笑ってアドンを振り返った——その時だった。


 アドンの背後、噴水の彫像。

 水音をたたえていた中央に鎮座している石像が、きしむような音も立てず、ゆっくりと首をこちらに向けた。


「……ッ! アドン、下がれっ!!」


 反射的にアドンの肩を突き飛ばした。

 次の瞬間、彫像が跳躍する。鋭い爪が空を裂き、無音だった世界に轟音が戻る。

挿絵(By みてみん)

「ガーゴイルだ!!逃げろっ!!」


 俺の叫びと同時に、彫像は生き物へと変貌した。

 石の皮膚からはわずかに蒸気が上がり、鈍色の翼が夜気を裂いて広がる。


 次の瞬間、俺の体は凄まじい衝撃を受けて地面を転がった。

 まるで巨大な岩にぶつけられたような鈍痛と共に、肺から空気が一気に押し出される。


 呼吸が、うまくできない。


「逃げろ……!」


 声にならない声を吐き出す。

 喉が焼けるように痛む。それでも願う。届いてくれ、と。


 視界の端、アドンが娘の手を引いて走るのが見えた。

 エマがこちらに何かを叫んでいる……だが、耳鳴りがひどく、内容は聞き取れない。


(……いい、それでいい。逃げてくれ)


 そう思った刹那、背中に重く冷たいものがのしかかる感覚。

 同時に、ふわりと地面から足が離れる。

 浮遊感。重力が失われたかのような錯覚。だが、それは錯覚ではなかった。


 掴まれている。

 あの、石の爪に――


 ガーゴイルに、掴まれたのだ。


 石の爪が背中を締めつけ、羽ばたきとともに視界がみるみる小さくなる。


 街の屋根が遠ざかる。

 地面の灯りが、星のように滲んでいく。


(……ああ、これだ)


 思い出した。あのとき見た、あの地獄のような光景。

 ガーゴイルが人を拾い上げ、上空から何度も落としていた。

 まるで遊ぶように、獲物を弄ぶように。


 今、その遊びの“番”が、俺に回ってきた。


 唇を噛み、じっと街を見渡す。


(パリ……もっと違う形で来たかったな……)


 場違いな考えが浮かぶ。


 浮遊感が、さらに増した。


 そして次の瞬間、重力が“思い出した”ように牙をむいた。


 落ちる。


 風が耳元で叫び、景色が目まぐるしく回転する。

 地面が、容赦なく迫ってくる。


(終わった……)


 その瞬間、死を確信した。

 だが——


 背中が、再び何かに掴まれる。


 その瞬間、肺が押し潰されるような衝撃。

 骨が軋み、喉からかすれた声が漏れる。

 視界が真っ白に染まり、吐き気すら覚える。


(……遊んでやがる)


 拾い、落とす。拾い、落とす。

 まるで“死ぬギリギリ”を楽しむかのように、何度も。


 耳元で、低く不快な笑い声が響いた。

 振り向けずとも分かる。

 こいつは俺が恐怖する様子を楽しんでいる。


(……ふざけんなよ)


 残された力を、すべて右手に込める。

 腰に差していたナイフ。

 生存のための最後の切り札を、反射的に抜き放つ。


 俺は振り向かず、ただ感覚を信じて腕を後ろに突き出した。


「っ――おおおおおおッ!!」


 振り抜いた刃が硬い何かにぶつかる。


 ぎゃりっ!


 金属のような、石を引っかいたような、鋭く乾いた音が空に響いた。


 同時に、ガーゴイルが甲高い悲鳴を上げた。


 爪の力が一瞬緩む。


 次の瞬間、俺の体は宙に投げ出された。


 落下――だが、今度は低かった。


 一メートルほど。

 それでも、満身創痍の体には十分すぎる衝撃だった。


 地面に叩きつけられ、視界がめちゃくちゃに回る。


 呼吸ができない。腕も、脚も動かない。


 頭が割れるように痛い。


(もう……無理だ……)


 そのときだった。


 背後で、まるで巨岩を打ち砕いたような轟音が響いた。


「――ッ!」


 何が起きたか分からないまま、ただ目の前に転がってきた“それ”を見た。


 石のような皮膚。ねじれた角。裂けた口。

 そして、くり抜かれたような黒い目。


 転がってきたのは、ガーゴイルの――“首”。


 動かぬ石の目が、どこか未練がましく俺を睨んでいるようだった。

 だが、それも数秒とせずに動きを止め、静かに横たわる。


 誰かが……やったのか?


 意識が、急激に薄れていく。


(……助かったのか……)


 最後のその想いだけを胸に抱きながら、

 俺は静かに、深い闇の中へと沈んでいった――。

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― 新着の感想 ―
戦っても逃げても次々と襲いかかる魔物達 いったい何処から? 逃げ場もなく傷だらけの英斗 共に行動するアドンとエマ みんな助かって欲しい そんな風に思いながら読ませて頂きました この恐怖から逃げ出す事が…
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