第18話 魔人
トロールとオークたちが、目の前の“魔人”の放つ圧に後退した。
魔人の周囲だけ、空気が変質していた。
世界が“押し広げられている”ような、歪んだ空間の感触。
その中心で、魔人はゆっくりと、斧を持ち上げる。
異様な静けさが空気を支配していた。
次の瞬間
ドンッ!
轟音とともに、前方にいた三体のオークの上半身が、
まるで風船のように爆ぜた。
血飛沫が霧のように舞い、肉片が空を舞う。
何が起きたのか――目が、追いつかない。
気づけば、斧はすでに元の位置に戻っている。
“振り下ろされた”という事実だけが、結果として地面に刻まれていた。
言葉にする間もなく、魔人は斧を持ち上げ、一歩を踏み出す。
ドンッ……!
その一歩で、数体のオークが吹き飛ぶ。
地面ごと踏み砕かれ、爆風のように土煙が吹き上げられた。
肌にビリビリとした衝撃が走り、雨のように降り注ぐ肉片の落下音。
「嘘……だろ……」
あの岩のような筋肉を持つオークたちが、まるで紙の人形のように屠られていく。
仲間ではないのか?
しかも、迷いが一切ない。
あれは怒っているのではない。楽しんでいるのでもない。
“ただ破壊している”。それだけだ。
俺の存在など、魔人の目には映ってすらいないのではないか?
その証拠に、こちらを一瞥すらしない。
トロールが咆哮を上げ、血走った目で魔人へと突っ込む。
大きな腕を振りかぶり、地面を割るような勢いで殴りかかろうとした――その瞬間、
魔人の体が一瞬、前傾すると音共に姿が消える。
ドッ!!
視界の端で何かが弾けた。
「え……?」
見えたのは、トロールの全身が、ちぎれ跳び
空を舞い、血の雨が降り注いだ。
それは猛牛のような、ただの突進。
それだけで――トロールが、死んだ。
残されたオークたちは叫び声を上げ、恐怖に駆られ、散り散りに逃げ出す。
だが——
ドッ!!
轟音と共に、次々と四散する肉塊。
——俺は。
ただ、茫然とその光景を見ていた。
「……逃げないと」
思考が、警鐘を鳴らす。
だが足が動かない。
巨大な影が俺を覆う。
いつのまにか魔人が目の前に立っていた。
瞳が、俺を見ている。
全てが止まった。
その双眸に射抜かれた瞬間、自分という存在が――“無”になっていくのを感じた。
俺の鼓動が痛みを感じるほど早く脈打つ。
俺は咄嗟に遠くの建物を見つめ”ノイズポイント”を念じた。
遠くの方で瓦礫が崩れるような音が聞こえた。
魔人視線がゆっくりと音の方に移動する。
ドンッ!
音と振動を残し消え去った。
たまらずその場にへたり込む。
振り向くと、背後の二人はすでに意識を失っていた。
思い出したように、体が震え出し汗が噴き出た。
俺は見逃されたのだろうか?
瓦礫の山となった教会に視線を移す。
……そこに逃げ込む意味など、もうなかった。
安全な場所など、どこにも存在はしない。
その事実に思考が追いつく前に――
ギャリギャリギャリ……
乾いた音が、静寂を切り裂いた。
俺は心臓を掴まれたような感覚に囚われながら、ゆっくりと振り向く。
そこにいたのは、
……スケルトン。
砕けた頭蓋。折れた顎がカタカタと狂ったように震え、
関節がねじれたまま、剣を引きずりながらこちらへ近づいてくる。
「ここまで……ついてきたのか……」
まるで怨念の塊だった。
背筋に冷たい汗が伝う。
背後では、エマとアドンが倒れたままだ。
二人の肩を揺さぶる。
「エマ! アドン! 起きろ!」
反応はない。
「くっ」
ギャリギャリギャリ……
骸骨は止まらない。
それなのに、異様に遅い。
まるで、こちらの恐怖を引き伸ばして味わっているかのように。
砕けた頭蓋の奥。
見えないはずの目が――俺を、確かに“見ている”。
(逃げなければ……だが、ここで逃げたら……)
歯を食いしばり、俺は立ち上がった。
力が入らない脚。凍てついたような感覚。
それでも、立たなければ二人を守れない。
震える手で、ナイフを握り直す。
(やるしかない……!)
スケルトンは、距離を保ったまま歩みを止めた。
その場に、沈黙が満ちる。
音も、風も、息すら止まる。
(来る……!)
その瞬間、スケルトンが異様な音を響かせて駆け出した。
骨と骨が擦れ合い、軋み、歪んだ足取りで――だが、速い!
「っ――!」
俺は転がるように横へ飛ぶ。紙一重。
風が頬を撫で、次の瞬間には剣が振り下ろされていた。
ガンッ!!
石畳が砕ける。粉塵が巻き上がる。
「くそっ!」
俺は地面を這いながら逃れる。
スケルトンは剣を振り下ろすたびに、まるで狂った人形のように追撃してくる。
だが、足の痺れは少しずつ薄れてきた。
呼吸が荒くなる。
何発かは体を掠める。
それでも、まだ動ける。
(次の一撃……そこで起き上がる!)
スケルトンの剣が振り上げられる。
そのタイミングを読んで、俺は地面を蹴った!
起き上がる!
が――その瞬間、
スケルトンが、目の前にいた。
俺の動きが逆に読まれたのだ
間合いに入ってしまった。
剣が、振り下ろされる!
冷たい閃光が、眼前に迫る。
(間に合わない――!)
その動きは直線的でありながら、殺意に満ちていた。
英斗の背筋に、電流のような悪寒が走る。
反射的に右手のナイフを構える。
けれど、その小さな刃では殺意のこもった一撃を止めきれなかった。
金属同士がぶつかり合う音と同時に、剣の刃先が逸れた先へ――
「ぐっ……!」
咄嗟に上げた左腕が、剣を受け止める。
だがそれでも勢いは止まらず、鋭い刃が肩口へと深々とめり込む。
皮膚が裂け、筋肉が断ち切られ、骨に到達するまでの鈍く重い感触。
瞬間、頭の奥で白い火花が弾けるような激痛が走った。
視界が一瞬、白く染まる。
「ッく……うぅ……っ!」
崩れるように、英斗は膝をついた。
肩からはじわじわと熱い血が流れ落ち、服の色を濃く染めていく。
(鎖骨……やられた……)
鈍い痛みと、左腕がもはや動かせないという確信。
だが、それでもスケルトンの剣は止まらなかった。
「ぐうぉぉぉぉぉおおっ……!」
歯を食いしばって耐える。
だが、視界が揺れる。意識が遠ざかる。
押し込まれる。
刃が、肉を――命を――じわじわと喰らっていく。
このまま……殺される――。
そのとき――
バキッ!!
鈍く、乾いた衝撃音が響いた。
スケルトンの動きがぐらつき、一瞬、剣の重みが抜けた。
スケルトンの後ろに立つ男の姿があった。
アドン――彼の手には、瓦礫の破片。
よろめいたスケルトンが崩れ落ちるように倒れる。
俺は肩に食い込んだ剣を引き抜いた。
痛みが火のように走るが、それすらも今は意識の端に追いやる。
「ッらぁあああっ!!」
奪った剣を、スケルトンの砕けた頭部に叩き込んだ。
ゴシャァッ!
乾いた音とともに、頭蓋が崩れ、そこから黒い靄が漏れ出る。
次の瞬間、スケルトンは完全に動きを止めた。
静寂。
耳に残るのは、自身の荒い呼吸音だけだった。
(……終わった……のか?)
じっとりと汗が流れ、身体から力が抜けていく。
緊張が弛んだ瞬間、膝から崩れ落ちた。
左肩と左腕に、焼けるような激痛。
体中の筋肉が強張り、意識がぼやけていく。
「おい、大丈夫か!?」
アドンが駆け寄り、膝をつくと焦りの色を浮かべながら覗き込む。
「……ああ……たぶん、死にはしない」
そう言葉を絞り出すだけで、喉がひりつくように痛んだ。
それでも、俺は笑った。
「……ここで、終わるわけにはいかないからな」
アドンはふっと息を吐き、わずかに安堵の表情を浮かべる。
「お前のおかげで助かった……ありがとう」
俺ははゆっくりと頷いた。
「……お互い様、だろ」
そのとき、エマがそっと近づいてきた。
その小さな手が英斗の手に触れる。
「エイト……ありがとう」
かすれた声に、英斗は弱々しく笑い返す。
「いいよ……気にするな。それより……早く、行こう」
視線を巡らせる。
焼け落ちた教会の瓦礫。
魔人が消えていった闇。
どこにも安息などない。
それでも、俺たちは教会を背に歩き出す。
神にすがることすら忘れて……
魔人の登場により、戦場の空気が一変する第18話。
圧倒的な力に誰もが言葉を失い、そして、あのスケルトンの執念が英斗を再び試練へと引き戻す――。
恐怖と絶望の中でも「立ち上がる」ことを選ぶ姿に、彼の内なる成長を感じました。
次回、夜の街に光は射すのか。
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