第17話 さらなる脅威
誰もが言葉を失い、その場から動けなかった。
開いたドアの向こうには、何も残されていなかった。
初めから誰も存在していなかったかのように。
けれど、静かに滴る血の筋だけが、そこにあった現実を告げていた。
「キャッ!」
エマの鋭い悲鳴が、張り詰めた静寂を切り裂いた。
彼女が指差すその先――
闇の中から、ぬるりと“それ”が現れた。
犬のような顔。しかしその目は、感情のない赤いガラス玉。
牛ほどの大きさを持つ体躯は赤黒く染まり、毛皮の下からは病的な熱気が漂っている。
背には悪夢のような黒い縞模様が走り、長く太い尻尾がコンクリの路面を叩いて「ピシッ」と鋭く音を響かせた。
唇がめくれ上がり、牙が覗く。
舌がだらりと垂れ、牙にまとわりつく唾液が糸を引きながら滴る。
強烈な血の匂いが、風に乗って流れてきた。
「……ジェボーダン……」
エマが震える声でそう呟いた。
その名を聞いた瞬間、獣の耳がピクリと動く。
鼻がひくつき、赤い双眸がこちらに向けられた。
次の瞬間。
――ドンッ!!
空気を割くような唸り声と共に、ジェボーダンが地を蹴った。
その巨体が信じられない速度で疾走し、夜の街へと溶け込む。
“狩り”が、始まった。
「パパ……なにが起きてるの?」
エマの声が細く、掠れている。
アドンは娘を見つめ、ゆっくりと首を横に振るしかなかった。
俺は喉の奥に詰まる息を無理やり押し出し、「移動しよう」とだけ言った。
アドンは少し考えたのち、俺を見て言った。
「少し先に教会がある。頑丈だ。あそこなら……」
その言葉に、俺は即座にスライムの恐怖を思い出した。
「……建物に籠もるのは危険かもしれない。化け物は、人が集まってる場所に寄ってくる。むしろ離れた方が……」
エマは迷いながらも、父の顔を見た。
「私は……パパに従うわ」
アドンは決意を込めて俺に向き直る。
「俺たちは教会に行く。お前は……どうする?」
俺はしばらく言葉に詰まったが、すぐに答えた。
「……わかった。ついていくよ」
二人が心配だった――それもある。
でもきっと、それ以上に“ひとり”になるのが怖かった。
俺たちは物音を避け、息を殺しながら教会を目指した。
時折、遠くで爆発音や怒号が響き渡る。
別の場所でも、同じように地獄が広がっている――そう思えた。
ノイズポイントを使い、追跡をかわしながら進む。
ようやく小さな開けた広場に出たとき、アドンがぽつりと呟いた。
「落ち着いたら……お前の話を聞く」
俺は、転送された瞬間をアドンに見られていたことを思い出した。
気にしている場合じゃなかった。今は生き延びることが最優先だ。
「……わかった」とだけ、短く返した。
やがて、暗がりの先に教会の尖塔が見えてきた。
重厚な石造りの建物は、周囲を包む闇の中で静かに佇んでいた。
扉は閉じられ、窓には光も漏れていない。
化け物の気配は――いまのところ、なかった。
スライムさえいなければ、大丈夫なはずだ。
あと十メートル。ようやく辿り着ける。そう思った瞬間だった。
――ドォンッ!!!
轟音が耳を裂いた。
「っ!?」
爆風と共に、教会の扉が内側から弾け飛んだ。
砕けた木片が鋭利な破片となり、俺たちの足元に突き刺さる。
風圧に顔を覆い、反射的に身を屈める。
土煙が舞い上がり、視界が白く染まった。
――ドスン……ドスン……
重く、鈍い足音。
地面が低くうねり、腹の奥にまで響いてくる。
煙の向こうで、何かが動いた。
粉塵を突き破り、巨大な影がゆっくりとその輪郭を現す。
まず目に飛び込んできたのは、"歪な顔" だった。
人間に似ている――だが、決定的に違う。
まるで誰かが粘土で「人」を作ろうとして、途中で放棄したような不完全な顔。
裂けた口からは黄ばんだ牙が覗き、よだれが粘つく糸を引きながら滴っている。
鼻は腫れあがったように膨らみ、ボコボコとコブが浮き出ていた。
ひゅう、ひゅう……と、穴から漏れる呼吸音は湿っていて、まるで肺の奥が腐っているかのようだった。
そして――その異形の目。
異様に小さく、皮膚にめり込むように埋まった瞳が、じっと俺たちを捉えて離さない。
全身を覆う緑色の剛毛。
所々にこびりついた赤黒い染みが、何度も肉を喰らってきた証だ。
吐き気を催すような腐臭が鼻をつき、思わず喉の奥が痙攣した。
太く変色した指先の爪は、刃のように尖り、その手には――折れ曲がった人間の腕が、ぶらりと握られていた。
「……トロールだ……」
呟いた俺の喉が、震えていた。
それだけでは終わらなかった。
粉塵の向こうから、さらに幾つもの影が蠢く。
棍棒を肩に乗せ、にたりと濁った笑みを浮かべる――
醜悪なオークたちが、次々に姿を現した。
どいつも分厚い肩と突き出た顎を誇らしげに揺らしながら、こっちを見ている。
背筋が凍る。
周囲には遮蔽物など一切ない。
建物の壁は壊れ、車もミミック。
どこにも逃げ込めない。どこにも隠れられない。
エマが声も出せずに地面に尻もちをついた。
アドンもまた、呆然と立ち尽くしたまま、娘の肩をかばうようにしているが……その手はわずかに震えていた。
俺も、足が思うように動かなかった。
腰には一本のナイフ。それだけだ。
――いや、たとえ銃があったとしても……どうにもならない。
トロールが唸り声を漏らしながら一歩踏み出す。
その後ろで、オークの一体と目が合った。
あのときの岩屋とシゲルなら、あるいは……と思考が過る。
彼らなら、この異常な状況でも、戦えたのだろうか。
だが――俺は。
俺たちは。
……このまま、喰われるのか。
考えがまとまる前に、トロールたちがゆっくりとこちらへ向かってくる。
ドッ。
足元に小さな振動が伝わる。
……今のは、奴らの足音じゃない。
ドッ……ドッ……。
重低音のような振動が、鼓膜の裏からじわじわと迫ってくる。
太鼓のような、不吉な律動。
次第にその間隔が短くなっていく。
地面が微かに波打つ。
遠くで建物が揺れ、軋むような音が混ざる。
(まさか……あいつか)
過去に一度、似た感覚を味わったことがある。
皮膚の裏側が逆流しそうな、“何か”が近づいてくる感覚――。
――ドォンッ!!
突然、教会の壁が爆発するように吹き飛んだ。
瓦礫が音を立てて宙を舞い、破片が鉄を裂くように風を切る。
次の瞬間、夜を裂くような咆哮が響いた。
「グォオオオオオオ――ッ!!」
それは、ただの獣の咆哮ではなかった。
空気が震え、鼓膜が破れそうになるほどの凶音。
皮膚の奥、骨の中まで揺さぶられるような――“破壊の叫び”。
その場にいた全員が、動きを止めた。
粉塵の中から、それはゆっくりと立ち上がる。
暗闇に赤い炎のような髪が揺れる。
光を受けて燃えるように揺れるその毛並みは、生き物というより“呪い”のようだった。
頭部から湾曲して生える、黒曜石のような二本のツノ。
それはまるで "闇の王冠" のように禍々しく、威圧感を放っていた。
巨大な影がゆっくりと顔を上げた。
その目が見えた瞬間、背骨を氷の刃で撫でられたような錯覚を覚えた。
そして、その胸元から肩、腕にかけて、黒い炎のような痣が広がっていた。
まるで皮膚の内側から滲み出た闇が、揺らめきながら体表を這っているかのようだった。
大きく隆起した筋肉、無骨な手に握られるのは、身の丈ほどもある戦斧。
刃先には乾いた血と、削れた鉄の断片のようなものがこびりついている。
“赤黒い目”が、まっすぐこちらを見ていた。
それは「目が合った」ではなく、
“狙われた”ということだと、全身の神経が告げていた。
それが、"ただの化け物" ではないことを 脊髄が理解した 。
"何か" が違う。
それ以上の——
それは、「悪夢の中の魔神」が 具現化したような存在 だった。
こんな奴がまだいるのか...
以前見た化け物が魔獣なら、コイツは魔人だ...
俺は無意味だと分かっていたがナイフを構え2人の前にたつ。
いつの間にか、自分の歯がガチガチと音を立てていた。
恐怖で鳴る音だと気づいたのは、ずっと後だった。
そして――
魔人は、一歩、踏み出した。
「ドゥン……」
地面が 沈む 。
違う—— 圧される。
空気が歪むと錯覚する存在感。
その瞬間、俺はすべてを忘れた。
俺はトロールもオークの存在を忘れ目の前の”魔人”から目を離せないでいた。
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