第12話 川沿いのミッション
ミッションランクはE。前回と同じなら、相手はゴブリンだろう。
徒党を組まれる前に倒せるかが鍵だ。
現地に到着すると、周囲を確認しながらライブラを見る。
(まだ誰も来ていないようだ。)
遠くに車が走るのが見えるが、歩いている人の姿はない。
俺は鞄からフライパンを2つ取り出し、腹と胸付近にガムテープで固定する。
腕と脛には雑誌を巻いた。ないよりはマシだろうと準備しておいたものだ。
近くには橋があり、その下には背の高い草が生い茂っている。
俺は茂みの中に身を潜めた。うまくいけば奇襲がかけられるかもしれない。
ライブラを取り出し、ミッション画面を開く。
ゆっくりとミッション参加をタップした。
日本刀を握りしめ、茂みの中で息を潜める。
張りつめた空気が皮膚を刺し、心拍が静かに、しかし確実に速まっていく。
意識のすべてを一点に集中させ、五感を研ぎ澄ませる――だが、何もいない。
時間の流れが、歪む。
ほんの数分が、感覚的には永遠のように感じられる。
不安が胸を螺旋状に締めつけ、ひたひたと冷たい汗が背を伝った。
(もう近くにいるのか? それとも……まさか、一般人に――)
その可能性に思考が触れた瞬間、全身が氷のように冷えた。
(……しまった)
完全に失念していた。
奴らが“必ず俺を狙う”とは限らないという、あまりにも当然のことを。
焦燥が胸を焼く中――その時だった。
足音。
不規則な靴音が、複数、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
心臓が喉元に張り付き、無意識に指がわずかに震える。
木々の隙間から、姿が見えた。
小柄で醜悪な影――ゴブリンだ。
三体。
剣と盾を構えた前衛が二体、弓を背負った後衛が一体。
淡々と、ガチャガチャと音を立てながら、俺の隠れた茂みのすぐ前を通り過ぎていく。
(今だ――!)
一気に飛び出した。
最も近い一体の背後に迫り、刀を横一文字に振り抜いた。
ザクリッ。
骨を断つ感触。
喉をつぶされたような呻きとともに、わずかに傾いた首がぐらりと揺れ――
ボトリ、と地面に落ちた。
もう一体がこちらを振り返る。
反応を待たず、踏み込み、刀を振り下ろす。
狙いは頭。
だが剣を構えたゴブリンがとっさに頭を引いたため、刀は腕を斬り飛ばすにとどまった。
ギャアアッ!
甲高い悲鳴が森に響き、返り血が頬にかかる。
気づけば、さっきまで震えていた手は止まっていた。
冷静に、次の動きを見据えていた。
無傷の個体が剣を振りかざしながら突っ込んでくる。
反射的に跳び退き剣が空を切った。
すかさず横薙ぎに刀を振るう。
だが、盾に弾かれ、手首に重い反動が走る。
(……岩屋みたいに、盾ごと斬るなんて無理か)
バックステップで距離を取ったゴブリンの動きに、一瞬の違和感。
(何かを、狙って――)
死角から、もう一体の気配が跳び出した。
片腕のゴブリン。片手で剣を構え、憎悪むき出しの顔で突っ込んでくる。
鋭く、剣を振り下ろす。
ギリギリのところで身を捻り、紙一重で回避。
すれ違いざまに思い切り蹴りを放つと、ゴブリンの体が前のめりに倒れ込んだ。
その瞬間、視界の端に――
(弓……!)
もう一体のゴブリンが、弓を構えていた。
弦が引かれ、矢がこちらを狙っている。
(まずい――!)
とっさに左腕を前に出す。直後、
バシュッ!
鋭い衝撃と痛みが左腕に走る。
だが、ガムテープで巻いた雑誌が阻み骨まで達してはいない。
弓兵が次の矢をつがえる。
背後からは、片腕ゴブリンが立ち上がる気配。
(だが……まずは、弓のやつだ!)
痛む腕を無視して、一気に距離を詰める。
弓が放たれるのと同時に、刀を振り下ろした。
腹部に衝撃。
何かがめり込んだ感触。だが、それでも動きは止めない。
叫びながら袈裟斬りに斬りつける。
ゴブリンの体が震え、矢を落とし、そのまま地面に沈んだ。
直後、背後から足音――
振り向くと、片腕のゴブリンが突っ込んできていた。
刀を構え、迎撃するように踏み込む。
剣と刀が激しくぶつかり、ギャリギャリと火花を散らす。
力比べ――だが、こちらの方がわずかに勝った。
剣が浮いたその隙を逃さず、回り込み、背中へ一閃。
ゴブリンが叫び声をあげ、ぐらりと傾き、そのまま崩れ落ちた。
肩が揺れる。息が荒い。
肺が焼けつくように熱く、喉はカラカラに乾いている。
──だが、まだ終わっていなかった。
ギッ――
不快な音が耳を裂いた。
ゴブリンが、生きていた。
地面を這いながら、こちらを睨みつけている。
もはや戦闘不能に近い。それでも――その目は、光を失っていなかった。
(とどめを……)
刀を構える。
が、腕が震えた。
葛藤。罪悪感。恐怖……それらが一気に込み上げてくる。
理屈と情が、喉の奥でぶつかり合う。
だが、迷いながらも、俺は――刀を振り下ろした。
刃が肉を裂く音。
その感触は、命そのものに感じた。
もう一体にも、同じくとどめを刺す。
――終わった。
静寂の中、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いた。
勝ったはずなのに、喜びはなかった。
胸に広がったのは、ぽっかりとした虚無感。
生き延びた安堵すら、心のどこかに沈んでいた。
ゆっくりと、身に着けていた装備を外す。
雑誌とフライパンが、ガムテープを剥がすたびに小さな音を立てた。
左腕と腹の矢傷を確認。
矢は深くは刺さっていない。軽傷で済んだようだ。
(よし、帰ろう――)
軽く息をつき、背を向けた――その瞬間。
足元に、異様なほど巨大な影が落ちた。
「上だっ!!」
どこからか、怒鳴るような声が飛んでくる。
反射的に体が動いた。
影の中から飛び退き、転がるようにして距離を取った。
直後、地面が跳ねた。
ズシン――!
重たい地響きと共に、地面に巨大な何かが着地した。
舞い上がる土埃。かすむ視界。
その向こうに、怪物がいた。
現れたのは――
2メートルは優に超える巨体。
豚のような顔……だが、明らかに“それ”では済まない何か。
黄色く濁った目がこちらを捉え、低い唸り声を漏らす。
その息は腐った肉のような悪臭を放ち、
太い鼻からぶしゅぶしゅと音を立てながら荒々しい呼吸を繰り返している。
全身を覆う筋肉は、まるで岩石。
両手には、俺の身長ほどもある鉄槍――。
(……っ)
身体が凍りつく。
心臓が強く、苦しく、暴れだす。
「オーク……」
思わず、声が漏れた。
殺される——。
脳が、直感的に“死”を告げていた。
槍を構えたその巨体が、まるで壁のように立ちはだかる。
(しまった……完全に油断してた)
全て倒したと、そう思い込んでいた。
だが、まだいた――橋の上か、どこかの死角に潜んでいたのだろう。
そして、最悪なことに。
日本刀が、あいつの背後に転がっていた。
手は空。武器はない。
対する相手は、ただの“魔物”じゃない。
人を殺す力を持った、怪物。
額から汗が噴き出す。
雫が顎を伝い、地面へ落ちた。
オークの動きが、妙にゆっくりと見えた。
まるで時間が引き伸ばされたかのように、スローモーションの世界に引きずり込まれたような感覚。
槍が、静かに振り上げられる。
……だが、体が動かない。
重りでも仕込まれたように、四肢が硬直していた。
頭では逃げろと叫んでいるのに、筋肉が命令を拒否する。
恐怖――それが、体を縛りつけていた。
そのときだった。
「英斗! 逃げろ!!」
怒鳴るような声が、耳を打った。
その瞬間、何かが弾けたように、身体が勝手に動いた。
槍が振り下ろされる直前、俺は横に飛び、地面に転がり込むようにして――かろうじて回避した。
着地の衝撃が腕に走る。
肺がぎゅっと潰れたように、呼吸が止まりかける。
(——まずい)
気がつけば、日本刀は遥か背後。
俺はどんどん武器から遠ざかっていた。
オークが再び槍を突き出してきた。
地を這うようにして身をひねり、転がるように避ける。
整いかけていた呼吸が再び乱れ、胸が焼けるように苦しくなる。
そして――さらに一撃。
今度こそ、避けきれない。
足がもつれた。
体勢を崩し、ぐらついた視界に槍の切っ先が迫る。
「っ……!」
駄目だ。終わりだ。
意識が、その言葉で塗りつぶされかけた――
——パンッ!
乾いた破裂音が空気を裂いた。
銃声。
俺の背後に、誰かがいた。
振り向くと、そこにいたのは――明夫さん。
片手に銃を構え、怒りをむき出しにして叫んだ。
「この化け物がっ!!」
二発目。三発目。
鋭い銃声が続けざまに響き渡る。
銃弾の衝撃で、オークの注意がこちらから逸れる。
その濁った目が、俺から明夫さんへと向けられた。
その瞬間、わずかに生まれた“隙”。
生き延びるための、たったひとつのチャンスだった――。
「英斗さん!」
声が飛ぶ。振り返ると、誠が息を切らせながら日本刀を抱えて走っていた。
後ろには村田さんもいる。
その刃を、俺の足元に向かって投げる。
反射的に拾い上げると、すぐさまオークの背中へと斬りかかった。
しかし――
ザクリ、と音がしたものの、感触が鈍い。
鎧のような分厚い筋肉が、刃を押し返すようだった。
傷は浅い。致命傷にはほど遠い。
背後では、明夫さんが銃弾を浴びせ続けている。
だが、オークはまるで気にも留めない。怯む気配すらない。
(……駄目だ。効いてない)
その巨体が再び俺の方へ向き直る。
「来る!」
俺はとっさに身をひねる。
振り下ろされた槍が、右肩をかすめていく。
僅かな痛みが走る。
その時だった。
カチッ、カチッ——。
乾いた金属音とともに、明夫さんの短く舌打ちする声が聞こえた。
(弾切れだ……!)
「英斗さんから離れろ!」
誠の叫びと同時に、小石がオークの顔に向かって飛んだ。
パシンッ!
石が顔面に当たる。
オークが一瞬だけ、こちらから視線を逸らした。
俺は地面を蹴り、転がるようにして足元へ潜り込んだ。
刀を握りしめ、右の脛を力いっぱい斬りつける!
ズバッ!
オークの咆哮が響き渡る。怒りに満ちた声が、腹の底を震わせた。
すぐさま槍が振り下ろされる。
俺は身を丸めるようにして股の下をくぐる。
バシュッ!
鋭い感触が左耳を裂いた。
熱い。
焼けるような痛みを感じた。
だが、止まってはいられない。
振り返りざま、今度は右の膝裏へ斬撃を叩き込んだ。
ズシンッ!
重く、確かな手応え。
オークの巨体が、崩れるように膝をついた。
――今しかない!
背後から、叩きつけるように刀を振るう。
腕、背中、頭部――
槍の攻撃範囲をかいくぐりながら、無我夢中で斬りつけた。
ズバッ、ザシュッ、グチャッ――
血しぶきが四方に飛び散る。
返り血が、顔を、胸を、全身を汚していく。
生ぬるく、鉄臭い液体の匂いが鼻と喉にこびりついた。
喉の奥が焼けるように熱い。
胃の底から込み上げるものを、もう抑えきれない。
「――ッ、うっ!」
口を押さえる間もなく、俺は地面に胃液をぶちまけた。
手が震える。
刀を握っているはずなのに、指の感覚がない。
腕も、脚も、鉛のように重い。
それでも――吐きながら、刀を振るい続けた。
すると一部の傷が徐々に小さくなっている
オークの巨体が、微かに動いた。
コイツ再生する
「……っ!」
息を吸う間も惜しみ、反射的に刀を振るう。
肉を断つ鈍い感触が、腕を通して伝わる。
手は止まらなかった。
振り下ろすたびに、オークの肉が裂け、濁った血が吹き出していく。
再生するよりも早く切付けていく。
「ハァッ、ハァッ……!」
呼吸が荒い。肩が上下し、胸が焼けるほど息を吸っても酸素が足りない。
それでも、止めるわけにはいかなかった。
最後に、喉元を真横に――鋭く、断ち切る。
**ゴボゴボッ……**という濁った音。
巨大な身体が、音もなく前のめりに倒れ込んだ。
その瞬間、全身の力がぷつりと切れた。
「……っ、は……っ」
俺は崩れるようにその場に倒れ込んだ。
もう、立ち上がる力なんて残っていない。
呼吸をすることすら忘れていた。
夢中で刀を振り続けていたせいで、身体は限界を超えていた。
必死に空気を吸おうとするも、肺に入った酸素は脳に届かない。
視界がぐにゃりと歪む。耳鳴りがする。遠くで、誰かが叫んでいる。
三つの人影が、こちらに駆け寄ってくるのが見えた――
そして、
――世界が、暗転した。