番外編1 ひとつまみの縁
空は灰色で、風は重たかった。
午後の空気にまだ雨の匂いが残っている。舗道の水たまりに空が揺れて、どこか映りたがらないように滲んでいた。
「……ま、今日も収穫なし、っと」
安いスーツのポケットに手を突っ込みながら、男は歩いていた。
一条明夫、41歳。元ヤクザ、今は探偵。だが客は来ず、財布の中も風が吹く。
(……だからって、やることも変わんねぇがな)
どん詰まりの路地を抜けようとした、その時――
「どけっ!」
少年がぶつかってきた。
見るからに悪ガキ。細身の体に大きめのパーカー。肩で風を切るように走ってくるが、どこか焦っていた。
「おい、危ねぇな――」
言い終える前に、後ろからもう一人、肩で息をする中年男が飛び込んできた。
「待てこのガキ! 俺の財布返せ!!」
財布。
一瞬で理解が追いつく。ひったくりか。
(……まったく。こっちはツキもねぇってのに)
そう悪態をつきながら、明夫は体をひねった。
前を走り去ろうとする少年の襟首を、片手でガッと掴んだ。
「うおっ……!?」
「よっと」
引き戻すように、軽く力を込める。
少年の体はあっけなく後ろに倒れ、そのまま地面に尻もちをついた。
「な、なんだよおっさん! 離せよ!」
「おっさんは余計だ、クソガキ」
「っ……チッ!」
少年はポケットからナイフを取り出した。
小さな折りたたみ式。チンピラ御用達の安物だ。
「……おめぇな、そりゃ使い方次第じゃ人生終わるぞ」
「はぁ!? 知らねぇよ!」
「だろうな。知らねぇから平気で抜ける」
呆れ混じりに、明夫は指で鼻をこすった。
目の前の少年は、ナイフを持ってるのに目が泳いでいた。
勢いだけで振り回してるのが丸分かりだった。
「で、どうすんだ。刺すか? それで逃げられると思ってんのか?」
「うっせぇ……! 関係ねぇだろ……!」
少年がわずかに手を震わせる。
明夫は一歩前に出ると、ナイフを持った手首をそっと掴んで――無理なく、力を抜かせた。
「やめとけ。これは“戻れるうち”にやめとくもんだ」
「……っ」
ナイフを抜き取られ、呆然としたままの少年を明夫はじっと見下ろしていた。
そのときだった。
「返せ、このガキ!!」
先ほど息を切らしていた中年男が、荒々しく駆け寄ってきた。
顔は怒りで真っ赤に染まり、拳を握りしめている。
「今すぐ返せ! 」
男は誠に詰め寄り、今にも殴りかかろうと腕を振り上げた。
その瞬間――
バシッと、その手首が止められた。
「やめときな」
明夫だった。
動きは一瞬。
怒気を含んだ男の腕を、まるで大人が子どもをたしなめるように、無理なく制した。
「こっちは被害者だぞ!? てめぇ、どこの――」
言いかけた男が、息を飲む。
目が笑っていない。
表情は穏やかでも、眼光だけが鋭く、濁りなく――底が見えない。
言葉ではない。
そこに宿るものが、明確に“ヤバい”と男に理解させた。
「……財布は?」
明夫が少年の方へ視線だけを向けて言った。
「……はいはい、返せばいいんだろ……っと」
少年は渋々、ポケットから男の財布を取り出す。
まだ中身は手をつけていないようだった。
「……ほらよ」
無造作に突き出したそれを、男が無言で受け取る。
しかし男の顔には、まだ怒りの火がくすぶっていた。
何かを言おうと、口を開く。
だが、明夫がゆっくりと、腕を組んだ。
「おい」
その一言だけ。
低く、押し殺すような声。
だが――その声には、“次の一言次第でお前がどうなるか分かってるか?”という圧が確かに込められていた。
男は、何かに踏みつけられたように言葉を呑み込んだ。
舌打ち一つ、何も言わずに踵を返すと、背中を向けて去っていった。
少年はその背を見送りながら、ぼそっとつぶやく。
「……おっさん、何者だよ」
明夫は肩をすくめて、ふぅと息を吐く。
「元・無職、現・しがない探偵だ」
「はぁ?」と小さく漏らしたが、それ以上は何も言わなかった。
風が再び、細く通りを撫でていく。
少年の目は、獣のように睨んでいた。
けれど、どこかで怯えていた。怒っていた。世界に。誰かに。自分に。
「名前は?」
「……は?」
「聞こえなかったか? 名前だよ、名前」
「……柿崎。柿崎誠だよ」
「誠、な。――で、飯は食ったか?」
「は?」
「腹減ってんだろ。そういう顔だ」
「……別に」
「よし、じゃあ俺んとこ来い。メシくらいは出す」
「……は? なんで?」
「気が向いた。あとは……」
明夫は煙草をくわえながら、火をつけなかった。
火をつけるには、まだ話が早い。
「お前みたいなガキを、ほっとけねぇだけだよ」
誠はしばらく口を閉じたまま、明夫を睨んでいた。
だが、それもほんの数秒だった。
「……メシ、だけだぞ」
「それでいい」
素直に従ったわけじゃない。
けれど、今にも腹が鳴りそうな空腹は、意地すらもねじ伏せたらしい。
ふたりは並んで歩いた。
夕方に近い陽の傾きが、路地裏に長く影を落とす。
その道を、重なることのない足音がゆっくりと進んでいった。
◇
探偵事務所兼・自宅。
何の変哲もない、というより、少し片付いてない部屋だ。
「狭ぇな」
「うるせぇよ。余計なこと言うな。靴、脱げ」
「……わかってるし」
「あと、そこ触んな。あとそれも」
「どれだよ」
「そこにあるのは全部だ」
そんなやりとりを交わしながら、明夫は冷蔵庫を開ける。
冷たい風と一緒に、心許ない中身が顔を覗かせた。
「……卵と、ウィンナーと、キャベツの切れっぱし、か。充分だな」
「え、何作るん?」
「チャーハンだ」
「へぇ……できんの?」
「おめぇな、見くびりすぎじゃねぇか?」
明夫は鼻で笑って、フライパンを取り出した。
ジュウ……と油の跳ねる音が、鉄の表面から立ち昇る。
刻まれたキャベツとウィンナーの香ばしい匂いが、少しずつ部屋を満たしていった。
誠は黙ったまま、ソファに座っていた。
足を投げ出し、だらしない姿勢なのに、どこか落ち着きがなかった。
「……なにジロジロ見てんだよ」
「別に。腹減ってんのかと思ってな」
「減ってねぇよ」
「はいはい」
数分後、皿にこんもりと盛られたチャーハンが、テーブルに並んだ。
「……ほらよ」
「いただきます……って言わなきゃ駄目なやつか?」
「言いたきゃ言え。どっちでもいい」
「……いただきます」
誠はスプーンでひと口、口に運ぶ。
咀嚼する音と、炊き立ての湯気。
それから――
「……うま」
ぼそりと、感想が漏れた。
「だろ」
誠はそれきり黙って、もくもくと食べた。
その姿を見て、明夫も自分の皿に手をつけた。
しばらく、静かな時間が流れる。
それを破ったのは、誠のほうだった。
「なぁ」
「ん?」
「……あのときさ、なんで止めた?」
「ナイフか?」
「うん」
「おめぇ、誰かを刺そうとしてた。……けど、まだ刺してねぇ」
「……は?」
「まだ、戻れるってことだ」
「……」
誠は残りのチャーハンをすくいながら、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
「気にすんな」
スプーンの音だけが、再び部屋に戻ってくる。
その音が、妙に心地よかった。
明夫は、目の前の少年をじっと見ていた。
何があったのか、どんな暮らしをしてきたのか――
聞かなくても、ある程度は想像がついた。
怒るように生きてる。
世界を憎んでる。
でも、それでも誰かとつながりたくて、見栄を張る。
(……まるで昔の俺みてぇだ)
思わず口をついて出た。
「誠、お前……住むとこ、あんのか?」
「は? ……まあ、一応」
ふっと視線をそらす誠の目には、どこか迷いが見えていた。
「“一応”ってのは、あんま信じられねぇな」
「……孤児院。だけど、たまに逃げてるだけ」
「戻ってんのか?」
「戻る時もあるけど……バレると面倒だから、隠れてる」
「じゃあ、今は帰る気ないんだな」
「……別に、どうでもいいけど」
明夫は立ち上がって、シンクに皿を持っていく。
「ここ、掃除さえしてくれりゃ住んでいいぞ」
「はぁ!?」
「どうせ一人暮らしだ。めんどくせぇ家事、全部お前に押しつけてやるよ」
「なにそれ……家政婦じゃん……」
「タダ飯と屋根と寝床があるんだ。文句言うな」
「マジで……?」
「マジだ。出てくのも勝手だが、残るのも勝手だ」
振り返ると、誠がぽかんとしたまま、スプーンを握りしめていた。
「……ま、今日一日くらいはいてもいいけど?」
「好きにしろ」
「……なぁ、おっさん」
「おっさんじゃねぇ、兄貴と呼べ」
「じゃぁ……"あにぃ"……」
それが、ふたりの始まりだった。
♦
3年後――
商店街のアーケードを、スニーカーの足音が軽く弾んでいた。
手にはチラシを数枚丸めて持っている。
バイト情報だ。裏面には「短期高収入」「即日OK」「条件ゆるめ!」の文字が踊っていた。
「……どれもクソ怪しいな……」
舌打ち混じりにつぶやきながら、足を止める。
立ち並ぶ看板のひとつが目に止まる。「日払い可・手渡しOK」と書かれた張り紙の貼られたビル。
その奥の入り口には、いかにも“わかってる人間しか通らないでくれ”と言わんばかりの空気が漂っていた。
誠は立ち止まって見つめていたが――やがて、そっと踵を返した。
「……ダメだな、こりゃ」
目元をかくすようにキャップを下げる。
どれだけやんちゃしても、あの人に“後ろめたいこと”はしたくなかった。
明夫――あの甲斐性なしの探偵で、親みてぇな顔して説教ばっかしてきた男。
昔はヤクザだったとか言ってるくせに、今じゃお湯割り一杯に一喜一憂してる始末。
「マジで、なんで貯金ねぇんだよ……あの歳で……」
そう愚痴りながらも、財布の中身を数える自分がいる。
自分の飯代よりも、あの人がボソッと口にした「今月ピンチかもなぁ……」って言葉の方が、何倍も気になっていた。
「ちょっとくらい、稼いでやってもいいじゃん……?」
そう、自分に言い聞かせるように呟く。
ちょうどそのとき、通りの向こうから、どこか頼りなさそうな男が歩いてきた。
視線が落ちていて、足取りもどこかふらついている。
衣類はヨレて、鞄も古びていた。
「……お、あれ“いけそう”じゃね?」
誠の目が、わずかに鋭くなる。
遊び半分、というわけじゃない。
後ろめたいことはしたくないが、今回ばかりは何とかしたい。
「すんませ〜ん、お兄さん、ちょっと道聞いていいっすか?」
と、軽く声をかけた――その相手こそ、吉野英斗だった。




