第106話 テミス
蝋燭のように静まり返った部屋。
濃い影を落とす重厚なカーテンが、昼夜の境界を曖昧にしていた。空気は冷え、書棚に並ぶ古い書物の革表紙がわずかに軋む音すら、耳に刺さるほど静かだった。
そこに、黒のロングコートをまとった男が、音もなく現れる。
二階堂司――
その眼差しはいつものように微笑を湛えていたが、そこにはかすかな疲労の色がにじんでいた。
「……戻りました、九条様」
静寂のなかに、二階堂司の低い声が響いた。
そこは、重厚な木造の書棚に囲まれた静謐な空間。調度品のすべてが一分の隙もなく整えられており、その中央に、九条誠宗 (くじょう せいそう)が背筋を正して佇んでいた。
白髪交じりの黒髪、冷徹な光を宿した瞳が、ゆるやかに二階堂へと向けられる。
「ご苦労だった」
二階堂は一礼し、報告を始める。
「……恐山での交戦において、中野が死亡しました。焔鬼によるものです」
九条の指がふと止まる。
「焔鬼……伝説が蘇ったか」
そして静かに目を閉じた。
「……中野は、使い捨ての駒ではなかった。惜しいな」
「ええ。さらに、伝説の2体」
二階堂はわずかに声のトーンを落とす。
「アバドニス、および“深紅の破滅”――クリムゾン・ベイン。二体の穢れ人が、日本に現存していることが確認されました」
その名が出た瞬間、空気が一瞬だけ冷える。
「……なるほど」
九条はゆっくりと立ち上がり、振り返る。
その姿は威圧の一言に尽きる。漆黒のスーツが影と溶け合い、白髪混じりの髪と切れ長の目が、まるで闇そのものの理性を象徴していた。
「“焔鬼”……アバドニス……ベイン……。三体とも日本に集うとは、面白い潮流だ」
九条の目が鋭く細められる。
「……ならば、“慟哭の剣”も」
「はい……力及ばず、回収には至りませんでした」
九条は無言のまま書棚の奥へ視線を向ける。だがその目は、何も見ていなかった。
「……ならば、こちらからも報せがある」
九条はゆっくりと懐から黒漆の小箱を取り出し、机の上に置いた。
二階堂が目を細める。
「これは……月照の……」
九条はわずかに口角を上げる。笑みとは言いがたい、冷たい“満足”の気配。
「“月照の勾玉”を手に入れた。正体、効果ともに、現在調査中だが……反応から察するに、かなり深い領域に属する品だ」
九条は視線を戻し、口調を改めた。
「もう一つ、報告しておこう。日本支部に向かわせた五名のプレイヤーが……消息を絶った」
二階堂の顔に、一瞬だけ翳りが走る。
「……五名も?」
「いずれも実力は確かだった。だが、連絡手段すら断たれた以上――最悪の事態も視野に入れるべきだろう」
静かな足音を立て、九条は書棚の間を歩き
重い沈黙が室内を支配する中、九条がふと口を開く。
「――問おう」
その声音は静かでありながら、剣よりも鋭い。
「我々テミスは、焔鬼、アバドニス、そしてクリムゾン・ベイン――あの三体に、太刀打ちできると思うか?」
二階堂は即答しなかった。まるで言葉そのものを選ぶことすら無礼にあたると心得ているかのように、ひと呼吸、深く静かに間を置いた。
そして、目を伏せたまま、冷静に答える。
「……いいえ。現時点では不可能です」
九条はわずかに片眉を上げるが、驚いた様子は見せない。
「理由を」
「まず、三体はいずれも“個”の戦力として規格外です。単独で支部一つを壊滅させる力を持ち、互いにまったく異なる性質を持つため、統一した対策も難しい」
「続けよ」
「現在、我々のプレイヤーのうち、半数が別任務中、五名が消息不明。中野の戦死により、
戦術構成の核も欠きました。数カ月前に2名のプレイヤーの死亡も確認しております」
二階堂は顔を上げ、視線だけで九条の瞳をまっすぐに捉えた。
「――ゆえに、太刀打ちは“できない”と断言いたします」
九条の視線が、わずかに鋭くなる。
「ご期待に添えず、中野の件……ご容赦を」
二階堂はわずかに頭を下げる。
九条は答えない。ただ黙って、机上の小箱に視線を落としている。
「計画の進行を、一時的にでも遅らせるべきかと。少なくとも、戦力の再配置と補填が整うまで」
その言葉を聞いて、九条はゆるやかに顔を上げた。
「遅らせる、か……“秩序なき自由”が闊歩するこの国において、果たしてそれが許されると思うか?」
「――許されないからこそ、慎重に進めるべきかと」
その言葉に、九条の瞳が細くなった。沈黙がふたりの間に走る。
やがて九条は、再び目を伏せ、背を向けた。
「……よかろう。猶予をやる。その間に戦力を立て直せ」
「はっ」
「……だが、勘違いするなよ、司」
九条の声が鋭く落ちる。
「遅らせるのではない。“完成度を高めるために、間を置く”――計画を止めるのではなく、より確実に成就させるためだ」
「……心得ております」
「例の研究も急がせよ」
二階堂は静かに頭を下げた。
九条の背後にある大時計が、重々しく時を刻む。
その音だけが、長き夜の始まりを告げていた。