第103話 魔人と魔獣
咆哮が、夜空を裂いた。
アバドニスの巨体が跳ね上がり、黒い稲妻のような勢いでベインへと突進する。
地面が隆起し、石が砕け、木々が根こそぎ吹き飛んだ。
「おおおおおッ……!」
クリムゾン・ベインは戦斧を真横に振る。
その刃がアバドニスの右肩に食い込み、火花と血煙が爆ぜた。
だが――止まらない。
「っ……!?」
アバドニスの咆哮と共に、その拳がベインの胴へ叩き込まれる。
骨が軋み、内臓が揺れる衝撃。数メートル吹き飛ばされ、大地に転がった。
「ぐっ……あ、あはっ……!」
口元から血を垂らしながら、ベインは立ち上がる。
笑っていた。目の奥には狂喜が灯る。
「これだよ、これだ……! 俺が欲しかった“手応え”ってのはよ……!」
アバドニスは言葉を発さない。
ただ、獣のような咆哮とともに、四肢を地につけて再び突進する。
そのスピードは、巨体とは思えぬほど鋭い。
刃のような鉤爪が振り下ろされ、ベインはそれを斧で受け止め――
「ぉぉらあッ!!」
反撃のように、柄を軸に回転し、アバドニスの膝を狙って一撃。
ガキンと金属音のような衝撃が響くが、効いた様子はない。
「チッ、こいつ……硬ぇなッ!」
アバドニスは地を蹴り上げ、爪をベインの喉元へ。
ギリギリでかわし、斧を縦に構えて喉へ斬撃。
しかし、斬り裂かれたはずの首筋から、煙のような黒い瘴気が噴き上がるだけだった。
「……再生力、いや、“喰らっても痛まねぇ”か」
戦士の直感が、ベインに告げていた。
この獣――明確な“痛み”を感じていない。
だが、だからこそ。
「テメェみたいな奴を倒してこそ……“生きてる”って感じがすんだよッ!!」
叫ぶと同時に、ベインは斧を地面に叩きつけ、粉塵を巻き上げた。
その中を駆け、身を翻し、アバドニスの死角へ――
だが。
「っ!?」
ベインの横腹に、突如として黒い尾が叩きつけられた。
見えていたはずの死角――そこにも、アバドニスの“感覚”は届いていた。
衝撃で数メートル吹き飛び、今度は地面に背中から叩きつけられる。
肋骨がいくつか砕けた。肺に走る激痛。
しかしベインは、なお笑っていた。
「いいぜ……最高だ。てめぇ、“生き物”じゃねぇ……“災厄”そのものだな」
アバドニスが再び迫る。その巨体が、夜の闇すら貪るように揺れる。
クリムゾン・ベインは、傷だらけの身を引きずって立ち上がり、戦斧を掲げる。
「――だからこそ、狩る意味がある」
赤い瞳と赤い瞳が、真正面から交錯する。
音が消えたような静寂の中で、再び大地が震える。
血を流し、骨を折られ、息も絶え絶えの魔人が、笑う。
「今度こそ、終わらせてやる……俺の“宿命”をなァ!!」
そして、再び激突が始まった。
人ならざる獣と、人を超えた魔人――
夜空に、火花と血飛沫が踊り続けていた。
血に濡れた地に、魔人が立つ。
肩は上下に波打ち、口元からは蒸気のような息が漏れていた。
それでも――その双眸には一片の曇りもなかった。
「……仕上がってきたぜ」
そう呟くと同時に、クリムゾン・ベインは姿勢を低く落とす。
全身の筋肉が膨張し背筋を弓のように撓らせ、斧を背後に振り抜く。地を蹴る音――否、“雷”が鳴った。
次の瞬間、彼の姿が、かき消えた。
「……!」
焔鬼とぬらりひょんが、同時に視線を跳ねさせる。
音すら置き去りにする速度。
ただの突進――しかし、それは過去、トロールの巨躯を木っ端微塵に砕いた“魔人の殺意”そのもの。
空気が圧縮され、周囲の木々が内側へ傾く。
突進の軌道上に立つは、黒獣・アバドニス。
避けることなどしない。むしろ、迎え撃つようにその両腕がゆっくりと広がった。
――ドオォッ!!
衝突の一瞬、爆発のような轟音が大地を引き裂く。
地面が隆起し、土砂が波のように押し出された。
しかし、その突進の勢いは――止められていた。
「がッ……!?」
ベインの目が見開かれる。
彼の角――禍々しき魔の象徴、その二本を――アバドニスが、掴んでいた。
両手で。
揺るがず。ぶれず。まるで岩のごとく。
「バカな……この一撃は、山すら裂くってのに……!」
両足が浮いていた。止められた衝撃で、全身の筋肉が悲鳴を上げる。
アバドニスの目は、相変わらず何も語らない。ただ、灼熱の“殺意”だけを湛え、魔人を見下ろしていた。
そして――
「ぐぉっ……!」
角を握ったまま、アバドニスはベインの身体を頭上へ持ち上げる。
筋繊維が軋み、骨が鳴る。
だが、ベインの口元には――またも笑みが浮かんでいた。
「……ははっ……やっぱ、てめぇ……最高にクレイジーだぜ……!」
アバドニスは、掴んだままの角をゆっくりと握りしめる。
骨が軋み、ひび割れる音が夜の静寂を裂いた。
だが、ベインはなお笑う。
両の瞳には恐れも迷いもなく――ただ、燃え上がるような歓喜だけが宿っていた。
「……やっぱり、お前みてぇな奴とやるために……俺は生きてんだよ!!」
叫ぶように吐き捨てた、その瞬間。
アバドニスの膂力が、爆ぜた。
轟音。
魔人の巨体が、地を離れる。
まるで羽根のように軽く――いや、廃材のように無造作に、放り投げられた。
「ッは――!」
ベインの視界が、一瞬、空と月と森を逆にする。
そして次に見えたのは、迫る大地――
――ドゴォォンッ!!!
土砂が爆ぜ、巨木が折れ、地形が変わる。
投げ飛ばされた先の丘が、衝突の衝撃で半ば崩れ落ちていた。
その中心に、赤黒い焔を撒き散らしながら、クリムゾン・ベインが横たわる。
巨斧は手から離れ、岩に突き刺さっていた。
だが、終わりではなかった。
崩れた瓦礫の中、ゆっくりと身体が起き上がる。
「げほっ……はは……はははっ……!」
鼻先から血を垂らしながら、ベインは立ち上がる。
骨が折れ、腕が外れ、呼吸すらまともにできないというのに――
「……いいねぇ。こりゃ、マジで殺されるかもしれねぇな……!」
それでも笑っていた。まるで、子供のような瞳で。
「……だから、もっとだ。もっと見せろ、アバドニス!!」
そして再び、戦場へと歩を進める。
血を流し、肉を裂かれ、それでもなお挑み続けるその姿――
それこそが、“魔人”と呼ばれる所以だった。




