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第101話 魔獣

 夜が、深く沈んでいた。

 風が止まり、霧が晴れ、あれほど響いていた戦いの音すらも、今はない。


 残されたのは三つの“異形”。


 ぬらりひょん。

 焔鬼。

 クリムゾン・ベイン。


 どれ一つとして、夜に在ってはならぬ者たちだった。


 骨と影の骸が焼け、崩れ落ちる音の中――最初に口を開いたのは、ぬらりひょんだった。


 「……いやはや、まこと見事。妖たちをここまで手玉に取るとは、恐れ入りましたぞ」


 その声音には、皮肉も驚愕も、もはや含まれていなかった。

 ただ、事実だけを淡々と認める、“敗者”の口調。


 焔鬼は返さない。

 ただ、刀をわずかに下げ、炎のような視線だけを送る。


 クリムゾン・ベインが、重く、足を鳴らして前に出た。


 「……あんた」


 低く、擦れるような声。

 魔人の双眸が、焔鬼を射抜いていた。


 「面白ぇな。さっきの“がしゃ骨”を仕留めたとき……一瞬、俺の皮膚がざわついた」


 焔鬼は、ようやく横目でその言葉に応じる。


 「気色悪い感想じゃな。貴様の焔は……他人の恐れすら焼くか」


 「違ぇよ」

 クリムゾン・ベインは小さく笑った。

 それは歓喜でも挑発でもなく、“純粋な興味”。


 「俺は“強ぇ奴”とやるために生きてる。それだけだ。

 ……で、今、てめぇの中に、ちょっとだけ見えたんだよ」


 焔鬼の唇が、かすかに釣り上がった。


「なあ――あんた、名前は?」


 クリムゾン・ベインが、ずしりと戦斧を肩に担ぎながら、焔鬼に問いかけた。

 その瞳には、戦闘の熱も疲労もない。あるのはただ、静かな渇き。


 焔鬼は、焦げついた地を一瞥し、応じることなく黙した。

 が、数歩歩いたのち、足を止めて言った。


 「人であった頃の記憶などとうに失うたわ。……だが、世は呼ぶ。“焔鬼”と、な」


 その言葉に、クリムゾン・ベインの口端が僅かに上がる。


 「焔鬼……か。悪くねぇな。その刀、随分と楽しそうに暴れてたぜ」


「俺も人の頃の記憶はねぇ、クリムゾン・ベインいつからかそう呼ばれている」


 焔鬼とクリムゾン・ベイン、二人の異形は、しばし黙って夜風を受ける。


 やがて、魔人が口を開いた。


 「……名乗り合ったら、次は殺り合う。それが、戦場ってやつだろ?」


 「うむ、かくあるべきよ」


 二人は互いに背を向け、歩き出す。

 それは、戦友でも味方でもない。

 だが確かに――“認め合った者”同士の背だった。


 その様子を、ぬらりひょんは扇子越しに見ていた。


 「ほほう……これはまた、恐ろしいもの同士が意気投合されたようで」


 その声音に、もはや軽妙さはない。

 ただ、戦の果てに立つ者たちへの、老獪な観察の色が滲んでいた。


 焔鬼が、そちらに目を向けた。


 「ぬしはまだ、生きておったか」


 「ええ、しぶといのが取り柄でして」


「いかな拙者とて、お二人を同時に相手取るとなれば……これはさすがに、分が悪うございますなぁ」


 闘いの嵐が去り、僅かな静寂が夜を包んでいた。


 中野俊博は、血と土の匂いの中で身を起こす。

 服は裂け、眼帯の奥が熱を持って疼いていたが、意識は冷静だった。


 (今のうちに合流しなければ……)


 俊敏な動きで身を翻す。戦線を離脱し、森の陰を縫って味方のもとへ向かおうとする。

 だが、その一歩目で――止められた。


 「――動くな」


 低く、焼け焦げた鉄のような声が、闇の中から降ってくる。


 焔鬼。


 いつの間にか、すぐ背後に立っていた。

 中野の喉が、ごくりと鳴る。手の中の“刻鋼爪”にわずかに力がこもる。


 「……貴様に構っている暇は――」


 言いかけた瞬間だった。


 ――ギィィンッ!


 視界が、一閃の火花に塗り潰される。


 斬られた、という感覚がなかった。

 ただ、“視界のすべてがずれた”ような違和感――そして、冷たい風。


 次の瞬間。


 中野俊博の身体が、腰の辺りから真っ二つに裂け、ずるりと崩れ落ちた。


 返り血を浴びた焔鬼は、刀を払うことすらせず、淡々と告げる。


 「……“動くな”と言うたはずじゃ」


 声に怒気はない。ただ、**命を奪うことに一片の迷いもない“災厄の理”**がそこにあった。


 中野の上半身は地面に倒れ込み、瞳だけがまだ僅かに揺れていた。


 (……早すぎる。見えなかった……)


 死の淵で、彼は理解する。

 自分が何と対峙していたのかを。


 刃は炎のように揺れ、焔鬼はそのまま背を向ける。


 「余計な駒は、夜を乱すだけよ」


 そして、歩き出す。

 もはや中野俊博の存在など、風に散る灰のひとつと変わらぬものとして。


「中野さん!」

 二階堂が珍しく感情を見せる。激しい憎悪が顔に宿るも動きを止めている。

 焔鬼の存在はそれほど圧倒的だった。


 

 その様子に、ぬらりひょんは肩をすくめてみせた。


 「いかな私も、お二人を同時に相手ではかないませぬなぁ」


 扇子を閉じ、胸の前でゆるく構えるその仕草には、戦意など微塵も感じられない。

 ただ――その目だけは、ひと欠片の油断もなく、焔鬼とクリムゾン・ベインを見据えていた。


 「……ほう。では、同時でなければ勝てるかのような言い草よの」


 焔鬼が、わずかに唇を歪めた。

 その声音は嗤いに近いが、どこかで探るような冷ややかさも滲んでいた。


 「まさか。勝てるなどとは――恐れ多くて申せませぬ。ただ、足搔いてみせる程度の度胸は、まだ残っておりますのでな」


 ぬらりひょんの口調は柔らかい。だが、その内側にあるのは、老獪な妖の本性――


 クリムゾン・ベインが斧を肩に乗せ、鼻を鳴らすように笑った。


 「言うじゃねぇか、爺さん。なら、あんた一人相手でも、遊びにはなるってことか?」


 「遊びなど、怖ろしゅうございます。……が、どちらにせよ、私ごときに構っておられるほど、お二方とも暇ではありますまい」


 霧の消えた空に、月が静かに姿を現す。


 ぬらりひょんの羽織が、風もないのにふわりと揺れた。


 月明かりに照らされたその刹那――


 大地が、唸った。


 ドウッ……ドウッ……!


 それは、まるで地の底から鳴り響く太鼓のような律動だった。

 鼓膜を内側から揺さぶり、心臓の鼓動を狂わせる“何か”が、地中を蹴り上げるように近づいてくる。


 焔鬼が、ゆるりと視線を動かす。


 クリムゾン・ベインの足元が、わずかに沈んだ。


 「……この振動、まさか……」魔人が低く呟く。


 木々の影がざわめき、空気がひび割れる。

 どこかで小さく獣のような呻き声が上がり、ぬらりひょんの羽織が、再び無風の中で震えた。


 そして、現れた。


 黒い塊が、闇を裂いて飛び出してくる。

 大地を揺らす足音とともに、森の木々をなぎ倒し、猛獣の咆哮が天に響く。


 その姿は――“異形の巨獣”。


 俺が奈良の山で出会った魔獣が今再び目の前に現れた。


 岩を砕く脚、丸太のような腕、肩に揺れる黒炎の痣。

 頭部は禍々しい獣の面をしており、目は――燃えていた。


 地獄の業火を思わせる、赤く濁りなき“殺意”だけを湛えた瞳。


 「やはり……アバドニスか!」


 クリムゾン・ベインの唇が吊り上がる。笑っていた。

 それは歓喜か、執着か――いや、もはや“病”に近い。


 「また会えたな、俺の獲物……!」


 巨斧が肩から下ろされ、地に重く落ちる。その音だけで、土が揺れる。

 焔鬼が横目で一瞥した。尋常ならざる気配。まるで全身を狂気に染めた獣が、もう一体、そこに立っているようだった。


 「何度もやった……何度も負けた……」


 クリムゾン・ベインが呟く。


 「腕を裂かれ、肋を砕かれ、肺を潰された……だが、それでも……!」


 戦斧が、月光を裂いた。


 「それでも、お前を狩るのが、俺の生きてる証だ!」


 焔鬼は一歩退き、じっと見つめる。

 そこにはもはや理屈も、思考もなかった。あるのはただ――殺意と歓喜の純粋結晶。


 「ふ……狂うたか」


 呟きながらも、焔鬼の目には微かに熱が灯る。

 “この魔人”、尋常ではない。


 だが、その言葉すらかき消すように――アバドニスが動いた。


 爆ぜる大地。風圧で木々が吹き飛び、地を蹴る巨影が真っ直ぐにベインへと迫る。


 ベインの顔が、狂喜に染まる。


 「はーはっはっは……いいぞ」


 アバドニスの咆哮が森を揺るがす。ただの叫びではない、破壊の宣告。


 巨獣の腕が振るわれた。

 ベインの斧が、それを迎え撃つ。


 ――激突。


 空気が悲鳴を上げ、地面が崩れ、衝撃で霧が晴れた。

 音の代わりに、沈黙が訪れる。否――それは、静寂という名の殺意。


 焔鬼とぬらりひょんが、同時に視線を向ける。


 クリムゾン・ベインが笑っていた。

 腕が裂け、斧が軋んでいるというのに、まるでそれすら悦びに変えて。


 「やっぱり……最高だぜ、アバドニス」


 吹き出す血をそのままに、魔人が叫ぶ。


 「今度こそ――この手で“獣”を殺す!」


 そして、夜が、再び動き出した。


 災厄と狂気、宿命と殺意の交錯する死の舞台が、今ここに幕を開ける。


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