序章
「諦めた者には何も残らない。諦めなかった者には“今”が残るだけだ。」
伊藤真行『反逆』無頼舎より
“As the swirling mist cleared, a figure found themselves standing in a landscape both ancient and unfamiliar, their senses sharpened yet strangely detached, as if viewing this world through a glass—real enough to touch, yet layered with the weight of something beyond.”
193x年。満州国首都新京へ向かう汽車の客車にて。
薄闇の中、桐山拓海は冷たい鋼の重みを感じながら、車窓に流れる荒野を見つめていた。
列車の震動が鈍く響き、重厚な軍靴が床を押しつぶすたび、静寂の中にただ冷たさが広がっていく。
目の前の光景はどこか虚無的で、ただ風景が流れていくだけの世界に思えたが、それは心の奥底にわずかな不安を呼び覚ましていた。
「理想の国、満洲国――か」
桐山は心の中でそう呟いた。彼が仕えるこの地は、大陸の荒れ地を背景に描かれた理想の国であり、共存と調和を掲げる美しい建前が前面に打ち出されている。
しかし、その内実は誰もが薄々気づいているように、力による支配と従属によって成り立つ脆い均衡の上にしか存在していない。
桐山自身も、その現実と向き合う度に葛藤する若き軍人に過ぎない。
新京の郊外の駅に到着したのはまだ未明だった。
桐山は迎えが来る待ち合わせ場所に向かった。
夜が明けると、濃霧が大地を覆い、東方の地平線がかすかに白んでいた。街並みはぼんやりとした輪郭を浮かび上がらせ、霞んだ薄青色の光が瓦の屋根や古びた石畳の道を照らしている。草木の息遣いが聞こえそうなほどの静寂が辺りに降り注いでいた。
軍服に身を包み、三十八式歩兵銃を携えた桐山拓海は街道の端に佇んで遠くを見つめる。
関東軍、特務機関に引き抜かれた桐山は関東軍総司令部に異動になり、待ち合わせ場所の十字路で迎えを待っていた。
霧の中から馬車が現れる。
御者は桐山と同じく軍服を着ていた。
御者は馬車から降りると、桐山に向かい敬礼をした。
桐山が敬礼を返すと、御者は帽子の右庇に添えた手を下ろす。
「桐山拓海中尉殿でありますか?」
桐山は頷き身分証を提示した。
「ありがとうございます。自分は伍長の山本大輔です」
御者は階級と氏名を名乗り、身分証の提示に礼を述べた。
桐山は山本の鍛え抜かれた体躯を見て、直ぐにその戦闘力の高さを見抜いた。
特務機関の下士官ともなると、他と比して何か抜きん出るものが必要なのかもしれない。
桐山が馬車の前の座席に座ると、馬に鞭が入りガラガラと音を立てながら進む。
普通であれば、幌のついた座席に座るところだったのだが、桐山は景色を眺めたかったので前に座った。
桐山が乗る馬車は、朝もやに包まれた新京郊外から街中へと静かに進んでいく。
まだ冷たい空気が肌を刺すようで、馬のひずめが石畳を叩く音だけが、夜明け前の静寂に響き渡る。
郊外の景色は、低い丘と草原が広がり、ところどころに小さな集落が点在していた。
農民たちはまだ眠りについているようで、家々からはほとんど明かりが見えない。
遠くにある小さな寺院の屋根が薄く白んだ空に影を落とし、霧の中で浮かび上がっている。
風に揺れる竹林のささやきが、どこか寂しさを漂わせていた。
街中へ入ると、馬車の周囲は次第に人の気配を感じるようになる。
まだ薄暗いが、市場では早くも屋台が立ち始め、露店商たちが荷を運んでいる。
狭い通りには、色とりどりの看板や紙灯籠が吊るされ、微かに揺れる。
馬車が通るたびに、店主や早起きの人々が桐山たちを一瞥するが、すぐに自分の作業に戻る。
その視線には、日常と侵入者へのわずかな警戒が同居していた。
馬車はゆっくりと市街を抜け、広い通りへと出る。建物は一段と立派になり、石造りの銀行や洋風のホテルが立ち並ぶ。
日本の影響を受けた近代的な建物が増え、桐山の周囲には軍人や制服姿の職員が行き交っている。
日本語と中国語が交錯する声が、街のざわめきと共に耳に入る。
この地に根を張る日本の存在が、街の風景と一体化しつつもどこか異質であるように感じられた。
やがて、桐山の視界に関東軍総司令部の門が見えてきた。
門の前には二人の衛兵が立ち、銃を携えて鉄帽を被り厳重に警備をしている。
馬車が近づくと、衛兵たちは桐山の身分証を確認し、敬礼をして門を開けた。
中へ入ると、厳粛な空気が一気に流れ込む。司令部の中は静まり返っており、整然と並ぶ兵舎や施設の数々が、桐山を迎え入れてくれた。
「ここからは歩いて行ってください。自分は兵舎の居室にいるんで、ご用の時はいつでも使ってくださって大丈夫です」
山本はそう言って、桐山を送り出すと厩舎へと向かった。馬車を整備に回すのだろう。
馬車から降りた桐山はすぐに正門から続く長い舗装道を進んでいく。
道の両側には、整然と並ぶ兵舎や訓練場が広がり、特有の厳粛な雰囲気が漂っている。
周囲の兵士たちは、鋭い眼差しで桐山の動きを追いながらも、それが新任の中尉であることを知っているのか、姿勢を正して敬礼を返してくる。
桐山も敬礼を返しつつ、緊張とともに胸が高鳴るのを感じていた。
やがて、桐山は執務棟の正面に立つ。
威厳ある木造の建物で、満洲の風土に合わせた重厚な作りが印象的だ。
扉の前で深呼吸をし、気を引き締めてから扉をノックする。
返事が返ってくると、「桐山中尉、入ります」と言い、中へと入った。
室内は薄暗く、磨かれた木製のデスクが中央に鎮座している。
デスクの向こう側には、山口大佐が座っていた。
彼は鋭い眼光を持つ厳格な男性で、飾り気のない軍服がその性格を物語っている。
机上には整然と書類が並べられ、規律を重んじる人柄が一目で伝わってきた。
桐山は立ち止まり、姿勢を正して敬礼をする。「桐山拓海、中尉、只今着任いたしました!」と、はっきりとした声で自己紹介をした。
山口大佐は一瞥をくれたあと、ゆっくりと立ち上がり、桐山を観察するように数秒間、沈黙を保った。
その視線には、まるで桐山の心の奥底まで見透かすかのような鋭さがある。または、商人が品物の値踏みをするような眼だった。
ようやく口を開くと、山口の声は低く、重みのあるものだった。「桐山中尉。待っていたよ。ここ新京では、前の職場とは勝手が違う。覚悟はできているか?」
「はい、大佐殿。どのような任務にも全力で臨む覚悟です」と桐山は即答した。
言葉には緊張が滲んでいたが、その眼差しには揺るぎない決意が込められている。
山口大佐は小さく頷き、桐山にデスクの前に立つよう指示した。
机上には桐山に見せるための写真と書類が用意してある。
「君には、特殊任務の一環として潜入捜査を命じることになる。この地には数多くの反日分子が潜んでいるが、特に青幇との関係には注意を払ってもらいたい」と語る彼の声には、厳格な軍人としての重圧があった。
桐山はその言葉を真剣に聞き、山口の目を見据えていた。
桐山の頭の中には、すでに幾つかの任務のシナリオが浮かんでいたが、写真と書類を元に新京の情勢を聞くにつれ、その内容がさらに現実味を帯びてくる。
話が終わると、山口大佐は一瞬の沈黙の後、「期待しているぞ、桐山中尉」と一言、穏やかではあるが決意を示す口調で言い放った。
その声に、桐山は確かな信頼と期待の重さを感じ、再度敬礼をして退出した。
関東軍総司令部から辞し、桐山は広い廊下を静かに歩きながら、自らの任務の重さと、新たな責務への緊張を改めて噛みしめていた。
厳格な山口大佐からの指令には、青幇との接触と潜入捜査という特別な意味が込められていた。
祖国から遠く離れたこの地で、何が彼を待ち受けているのか、桐山の心には微かな不安と同時に、若い将校としての使命感が渦巻いていた。
総司令部を出ると、満洲特有の冷たい空気が桐山を包み込む。朝の空気には一種の緊張感が漂い、総司令部周辺の厳重な警備や、日本の威信を示す建物が、まるで別世界にいるような錯覚を与えてくる。
桐山はその場に立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をして、自分を落ち着かせた。
次に桐山が向かうのは、山本大輔伍長の元だった。山口大佐の命令を遂行するためには、現地の情報や治安情勢を把握する必要がある。
既に任地に慣れている山本なら、青幇や反日活動家の動きについても何かしら知っているかもしれない。
桐山は歩を進め、総司令部から離れた兵舎の一角にある山本の部屋を訪れた。ノックをすると、間もなく扉が開き、山本が姿を現した。彼の顔には驚きの色が浮かび、すぐに親しげな笑顔に変わる。
「桐山中尉! どうしたんですか?」
「少し話を聞きたくてな、山本伍長。君に現地の情報をいくつか教えてもらいたい」
二人は兵舎の簡素な談話室に入り、朝のコーヒーをすすりながら話を始めた。
桐山は青幇について尋ね、さらに現地の反日運動の状況や、最近の不審な動きがあるかどうかを詳しく聞き出した。山本は低い声で答えながらも、時折周囲に目を配り、慎重に情報を提供する姿勢を見せた。彼の語る情報には、確かな緊張感と、反日勢力が潜む暗い影が浮かび上がってくる。
「最近、青幇が勢力を広げているという噂があるんです。特に新京の下町では反日活動の資金が青幇経由で流れているとか…。ただ、確証はありません。現地で根回ししない限り、手がかりは得られないでしょう」
桐山はその言葉を聞きながら、青幇への潜入をどのように進めるか、心の中で計画を練り始めた。
情報収集には慎重を期す必要がある一方で、積極的に現地の人間と接触を図り、青幇の信頼を得ることも不可欠だ。
桐山は、山本が教えてくれた青幇の集まるとされる酒場に足を運び、彼らと接触する機会を伺うことを決めた。
次の日の夕暮れ時、桐山は平民の服装に着替え、新京の雑多な路地を一人で歩き始めた。周囲の建物には、歴史の名残を感じさせる瓦屋根が広がり、路地には煙草や酒の匂いが立ち込めている。彼は薄暗い路地を進み、山本から聞いた青幇の拠点である酒場の入口にたどり着いた。
扉を開けると、薄暗い照明の中で、ざわざわとした男たちの話し声と、中国語の訛りが混じった日本語が飛び交っていた。
桐山は静かに席に腰掛け、周囲を観察しながら、青幇のメンバーが現れるのを待つ。
任務は始まったばかりだが、この一歩が、どれほどの危険と不確実性を孕んでいるかを彼は理解していた。
桐山は酒場の奥まった席で静かに周囲を観察しつつ、出会いの機会を伺っていた。
酒場の中は薄暗く、壁には色褪せた絵や埃の積もったランプが掛かっている。
タバコの煙が薄い霧のように漂い、客の間をふらふらと歩き回る給仕が忙しなく動き回っている。
隅の方では、小柄な男たちが興じている麻雀卓があり、勝負に熱中する声が低く響いていた。
しばらくして、桐山の視界に、青幇らしき男が数人現れた。彼らは厚手のコートに身を包み、低い声で話しながら酒を飲んでいる。
桐山はその中の一人、背が高く、鋭い眼光を持つ男に特に目を留めた。山本から聞いた噂では、青幇の幹部クラスの人間には、手に独特の刺青が彫られているという。
彼らが手を動かすたび、ちらりと見える手首の刺青がその証拠であるように見えた。
桐山は冷静に、しかし自然な動作で隣のテーブルへ移動し、彼らの会話を盗み聞くように耳を澄ませた。
すると、日本語混じりの中国語で、満洲の地下組織への資金の流れや、次に狙う施設の話が出てきた。
緊張感が一瞬、彼の心を締め付けるが、ここで動揺を見せては潜入の意味がない。桐山は静かに息を整え、自分も彼らの会話に入り込む準備を整えた。
やがて、桐山はその鋭い眼差しの男に目を向け、軽く会釈をした。
男は一瞬、怪訝そうに桐山を見たが、桐山が「この辺りには詳しくない者だが、君たちの話を聞いて少し興味を持った」と語りかけると、男の表情が少し和らいだ。
桐山はさらに一杯酒を注文し、彼らのテーブルへと移動する流れを作った。
「新参者か?」男が訝しげに問いかける。
桐山は肩をすくめながら、「まあ、そう言っていいだろう」と控えめに答える。
「ここに来て間もないが、この街には面白い連中が多いと聞いてな」
男は桐山をじっと見つめたあと、「俺たちのような連中と関わるには、それ相応の覚悟がいるぞ」と警告のような言葉を口にした。
その言葉には威圧感が込められていたが、桐山は微笑を浮かべ、「そう簡単に尻尾を巻いて逃げるつもりはないさ」と応じた。
その一言が功を奏したのか、男たちの表情が少しずつ解けていくのが分かる。鋭い眼光の男は桐山に酒を勧め、「名前は?」と尋ねた。
「鈴木だ」と偽名を使い、桐山は一杯の酒を受け取った。酒の重みを手に感じながら、彼はこれが潜入の第一歩だと覚悟を新たにする。
男たちとの会話が進むにつれ、青幇の中での序列や、今後の計画が断片的にではあるが明らかになってきた。
やがて話が進む中で、鋭い眼光の男が言った。「俺たちには、東京の連中には分からない事情があるんだ。満洲で生きるためには、日本も使うが、俺たちのやり方を貫かなきゃならない時もある」
桐山はその言葉に頷きながらも、心の中では彼らの真意を探る思いを巡らせていた。
反日活動家と称する彼らが、ただ日本を排除するだけでなく、独自の目的を追い求めていることが明らかになる。
この地の複雑な利害関係が、桐山にとってますます難解なものとなっていくのを感じた。
その夜、酒場で得た情報を頭の中で整理しながら、桐山は静かに席を立ち、男たちに別れを告げた。「また会おう、鈴木さん」と、彼らが桐山に親しげに声をかける。
彼はその声に軽く手を振り返し、酒場を後にした。
外に出ると、新京の夜風が冷たく桐山の頬を打った。手に入れた情報を元に、次の手をどのように打つか、彼はじっくりと考えながら歩き出した。