3.河と汽車
4月26日(水)
昨日は部活に先輩が居なかった。
正確に述べれば「10分ほど部活に顔を出した後、友達とカラオケに行った」そういう理由で、ほんの少しだけ気分の沈んでいた僕は、何となく、これも正確に述べれば「唯一といって良い級友が病欠で、少々教室の居心地が悪い」という理由で、お昼を国語科準備室で済ますことにした。
教室棟の喧騒が嘘のように静かで、心地の良い日差しが、僕を怠惰にする。弁当を食べ終え、予鈴がなるまでのんびりしていようかな…などと考えていたその時だった。机に伏せ、空を眺める僕の視界に人影が見えた。最初こそ自殺かと思ったが、そのような素振りはなく、むしろ自分と同じようにのんびりと昼寝でもしようかという振る舞いに、少し興味の沸いた僕は屋上へ出向くことにした。
幸いなことに彼、もしくは彼女のいた屋上は、此処、管理棟と教室棟の間に位置する特別教室棟(通称:別教棟)の屋上だったために、ほとんど人とすれ違うことなくたどり着けた。屋上の扉を前にして沸き立つこの緊張感は、数日前国語科準備室で味わったものと同じ類のものであろうか、ここまで来て怖気づいた僕は、扉の前で少し立ち往生をしていた。ここで待っていても仕方がない、覚悟を決めて、いざ開けようか!というその時、扉は金属音を鳴らし、僕は間抜けな表情を晒してしまった。
「おや、奇遇だね、時雨君。もうすぐ授業の時間だが、どうしたんだい?」
反射的に目をつぶっていた僕に、何やら聞き馴染んだ声が響く。少し安堵した僕は、どう返すか迷う。
「あいや、別にこれと言って用事はないんですが…その…」
「あぁ、秘め事なら詮索はしないよ」
「違いますよ!お昼に部室で怠けていたら、この屋上に人影が見えたものですから、気になって来たんです」
「なるほど、つまり君は私に会いたくて来たわけだね」
「そうですけど、それは少し言葉の綾じゃないですかね…」
「まぁまぁ…さて、今日はサボろうと思ってなかったんだが、せっかく君も来たことだし、どうだい?」
実に魅力的な提案である。完全に傾いている天秤を理性で必死に押さえつける。
「僕、サボり魔になる気はありませんよ」
「いいじゃないか、どうせ一時間くらい、サボったところでどうにもならないさ」
「そんな言葉には唆されませんよ、有栖先輩もサボるつもりはなかったんでしょう」
「もう、つれないねぇ。じゃあ、私は一人で昼寝しようかな」
「結局サボるんですか。まぁ、僕はもう行きますから…あ!」キーンコーンカーンコーン
無慈悲にも昼休みの終了を告げる鐘は鳴ってしまった。
「おや、これで君も同罪じゃないか?」
「あぁ…いや、トイレに籠っていたとでも言えば大丈夫でしょう!遅刻ならマシなはずです。」
「…そんなに私とサボるのは嫌かい?一人は寂しいんだ…」
以前、同じ言葉を聞いた気がする。どうせその言葉に転がったって良い結果にはならないだろう。そんなことはわかっている。しかし、その言葉には抵抗できない。天秤も壊れてしまったらどうにもできまい、僕は正直に転がっていくことにした。
「はぁ…一緒にサボりますよ、有栖先輩」
「ありがとう時雨君。君には感謝しっぱなしだね」
「ところで、有栖先輩」
「なんだい?」
「ここ、管理棟からよく見えましたけど、サボっててバレないんですか?」
「大きい声を出したり、派手な運動をしない限りは多分大丈夫さ」
「先輩はグレーゾーンばかり攻めますね。そのうち黒いことをやりそうで怖いです」
「一線はわきまえているつもりだけど、少し通過している感じは否めないね」
「通過しないでくださいよ!」
思わず発した声が嫌に響いた。
「シー、時雨君、あまり声を荒立てないでくれ」
「すみません…」
「ま、もう通過してしまったものは仕方がない、切り替えよう」
「そうですか…そうしますか」
なにやら少しずつ、先輩に毒されている気がする。
「サボろうと誘ったはいいが、何をしようか、考えていなかった」
「有栖先輩はいつもは何を?」
「まぁ、昼寝か、無意味な考え事か、気分がいい時には音楽を聴く…そんなところだね」
「昼寝、ですか」
「ここ2、3日で温かくなってきたからかな。今日は絶好の昼寝日和だ」
「いいですね…授業をサボって屋上で昼寝って」
「慣れてしまえば、そこまで良いものでもない気がするけどね」
「慣れているからでしょう?」
「そうかもね」ハハハハハ
春の陽気のせいか、食後なせいか、それとも微笑んだ先輩のせいか、随分と気が抜けてしまったらしい。確かに、とても心地の良い日差しだ。思わずあくびが出る。
「おや、もう準備はバッチリだね」
「はい、なんだか、眠くなってきました…」
「最近君の寝姿ばかり見ている気がするよ、まぁ、健康な証拠だね」
「ありがとうございます…確かに、部室でも寝てしまうことが多いような…なんででしょうかね?」
「さぁねぇ、ただ、気持ちはわかるよ。私も時雨君といると気が抜けてしまう」
「先輩もそうですか、僕もそうです…」
そろそろ本格的に眠くなってきたようだ。瞼が重い。先輩の心地よい声が頭に響く
「ふふ、目が虚ろだ。コンクリートだし、あまり寝心地は良くないだろうが、おやすみ。時間になったら起こそう」
「有栖先輩は寝ないんですか?」
「フフフ、後輩の弱みは握っておかないとね」
「まったく、意地が悪いんですから」
「すまないねぇ」ハハハ
「いつか、仕返ししますから。おやすみなさい」
「おやすみ、いい夢を」
少し冷たい風と、柔らかい声と、固い床と、花のような微笑みに包まれ、僕は微睡んでいった。
夏休みも終わり際、僕は近所の河川敷に来ていた。目的という目的はなく、強いて言えば、迫りくる課題という現実から逃避するためだった。空には入道雲が泳いでいて、それを川面越しに見ていた。こんな川では珍しい、魚の背中に光る太陽も泳いできた入道雲に呑み込まれてしまう。もう晩夏か、日が隠れると、少し涼しくなる。何を考えようにも思考が纏まらず、僕の意識は川の流れに霧散して、それなりの時間、ぼぅっとしていた。
「やぁ」
突然、聞きなれた声が聞こえた。
「わぁ、有栖先輩!?」
「近くに来たものだから、寄ってみたんだ。確か、君の家がここら辺にあったなぁと思ってね」
「そう、ですか。お久しぶりです。」
「夏休み中はあってなかったからね、随分と久しぶりだ」
先輩はあまり変わっていなかった。少しだけ肌が焼けたような気はするが、元が白いからか、むしろ健康的に見えて魅力的だった。いつも通りのボブに珍しくつばの広い麦わら帽をかぶって、制服に身を包んだ先輩は、夢のように綺麗だった。
「時雨君、見惚れすぎだ」
「あ、すみません」
「許す代わりに、一つ質問に答えてもらおう。どうかな、この帽子、似合うかい?」
「とても似合ってます。本当に、モネの絵画にでも出てきそうです」
「ハハハ、お世辞がうまいね。でも今日は素直に受け取ろう。そういう気分だ」
久しぶりに会ったからだろうか、可愛らしい笑みには少し、影があったように感じた。
「有栖先輩、何かあったんですか?」
「いや…いや、何もなかったわけではないか。実は、叔父が亡くなってね。生前は仲良くしてたものだから、少し沈んでいるんだ、この帽子も叔父の遺品でね…」
「それは、寂しくなりますね」
「あぁ、あの人の煙管の香り。好きだったんだ」
好きだった。そんな言葉が少し胸を絞める。憧憬であって恋慕ではないことはわかっている。わかっているから自分が嫌いになるのだ。
「煙管ですか」
「よく吸っていたんだ。まぁ、そのせいで早死にしたんだから、元も子もないけどね」
「そうだったんですね…」
「君は、長生きしてくれよ」
「はい、先輩もですよ」
「私は…私も煙管は吸う予定だからね。少し厳しいかもしれないな」ハハ
「そうですか…」
笑う先輩は、煙管の煙に包まれて、夏雲のように消えてしまいそうなほどに、儚い少女だった。
「はっ!」
少し嫌な予感がした。慌てて腕時計を見る。
まだ30分しか経っていなかった。少し落ち着いて、周りを見回すと、先輩の寝姿が見えた。体育座りで、屋上の柵に身を委ねながら寝ている姿は、とても綺麗だった。そうか、今日は髪を下ろしていたのか、長く透き通るような少し茶色味のかかった髪が顔を隠していて、寝顔を見れないのが残念で仕方ない。いや、近づけばいいのだ。音をたてないようにゆっくりと移動する。近づけば近づくほど、先輩の綺麗さは増して、近づいてはいけないのではないかという思いも強くなる。そんな思いもよそに体はとまらない。十分に近づいて、寝顔を見ようと覗き込んだその時、先輩が目を覚ました。
「ん、やぁ」
「お、おはようございます。」
僕は飛び退くことも出来ずに、覗き込もうとした姿勢のまま、返事をした。
「寝顔を覗くとは、趣味が悪いじゃないか」
「有栖先輩が、弱味は握っておくべきと言ったんですよ」
「そうだった、じゃあ、これでお相子だ」
「はい、それでお願いします」
「それにしても、寝てしまっていたとは、私が起こすと言っていたのに申し訳ないね」
「いえ、まだ授業時間に余裕はありますし…」
「本当だ。まぁ、頭を起こすにはちょうどいい時間か」
「そういえば、有栖先輩、今日は髪を下ろしているんですね」
「今更かい?まぁ、気分さ…それにしても変な夢を見た」
「僕もです。有栖先輩はどんな夢を?」
「時雨君と二人で電車に乗る夢さ、旧い汽缶車で、紅葉の中を走っていた。あまり、夢は見ない方なんだがね」
「僕も有栖先輩と二人で河川敷で話す夢を見ました。夏だったと思います…あ、なぜか先輩がショートカットでしたね」
「ショートカットか、久しくしてないな、時雨君はショート派かい?」
「いえ、僕はどちらかというとロングの方が好きですね。だからこそ、なぜ先輩がショートだったのかが謎ですが…あ、いや、ボブだったかな…」
「お互い変な夢を見るものだね、これも春の陽気のせいかな」
「そういうことにしておきましょうか」
「しかしまぁ、寝起きだからかな。少し体が火照るな」
「えぇ、日差しも良いし、風もないですからね。」
「頭を起こす、なんて言ったは良いが、二度寝をしたくなってきた。時雨君、頼めるかい?」
「任せてください。5分前には起こしますね」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
今度は僕が見送る方だった。固い床で寝ていたからか、体が大分強張っていた。立ってみると心地の良い風が頬を撫でた。先輩の方を見ると、先輩は想像よりも小さく、空模様は想像よりも初夏だった。上履きにはなれないアスファルトを歩いて、屋上の柵に寄り掛かる。校門の桜は満開を過ぎ、葉桜と呼んでも差し支えないほどで、風が木々を揺らす音も止み、訪れた静寂に耳を澄ますと、国語教師の良く通る特徴的な声がした。笑みをこぼし、息を吸うと、職員室からだろうか、珈琲の香りが鼻をくすぐった。もしよかったら、今日も先輩に淹れてもらおう。いや、僕が先輩に振舞おうか。少しの間、忙しない思考に身を任せていると、唐突にチャイムの音が鳴った。5分前に起こすと言っていたのに、少しゆっくりしすぎたようだ。振り返ると、チャイムの音で目を覚ました先輩があくびをしていた。
「はぁ、良く寝た。時雨君、今日は無理に突き合わせてしまってすまないね」
「いえ、楽しかったですよ。またいつか、誘ってください」
「もちろん!」
「有栖先輩、声を落としてください…」
「おや、すまない…あ、ふふふ」
「どこか変ですか?」
「時雨君、髪が跳ねている」
「あ…ありがとうございます…」
「はぁ、じゃあ、お先に失礼するよ。また、放課後にね」
「はい、また、放課後に」
先輩の髪に桜の花弁がついていたことを指摘すべきだったか、まぁ、過ぎてしまったものは仕方がない。放課後、何か言われることを期待しておこう。僕はそんなことを思いつつ、教室へ戻っていった。
4月26日(水) 放課後
僕が指導室を出て、渡り廊下を歩くころには、空は随分と暗くなってしまった。五時限目のサボりはそれなりに高くついたらしい。学年主任の体育教師にたっぷりと怒られた後、担任から反省文を書くようにと命じられた。今時、反省文とは…などと原稿用紙に愚痴をこぼしそうになりながら、何とか1枚を書き上げ、提出すると、担任から一種の冗談だというようなことを言われた。先輩にサボった後の対処をよく聞いておくんだったと思いながら、部室の戸を開ける。顔をあげると、机に座った先輩が文庫本を片手に、珈琲を飲んでいた。
「おや、遅かったね。反省文でも書かされたのかい?」
「はい、今の時代に存在するんですね…」
「うちは進学校だからね、生徒の怒られる機会も少なければ、教員の指導がアップデートされることも少ないのさ」
「はぁ…困ったものですね。ところで、なぜ机に?」
「あぁ、はしたない真似をしてしまったね、どうも椅子で読んでいると寝てしまいそうで」
「珈琲も同じ理由ですか?」
「いぐざくとりー、時雨君の分もそこに」
「ありがとうございます、いただきます」
「さて、今日は何かするかい?」
「いえ、もう遅いですし…本でも読みますかね」
「そうしようか、もう2週間もすれば、執筆に追われるだろうからね」
「2週間後に何か?」
「大体そのあたりでちょうど文化祭まで一か月だ」
「なるほど、え、残り一か月半くらいしかないってことですか?」
「そうだね、印刷の都合も考えるとちょうど一か月くらいかな」
「え、僕、一か月じゃ何も書けませんよ!?」
「大丈夫、四、五回くらい三題噺を書いてもらえれば、充分さ」
「短編集…なんですか?」
「そんな感じだね、私からは演劇部に寄稿した台本と短歌集を入れて、大体40~50ページくらいでまとまる予定だ」
「そうですか…思ったより有栖先輩がしっかりとした構想を持ってて驚きました」
「心外だなぁ、ま、今日もサボりに誘ったような先輩だから、しょうがないかな」
「よく考えると、先輩の誘いを断っていれば、僕はあんな目に合わなくて済んだんですよね」
「それは、申し訳なかったね、次からは、保健室の先生に頼るといいよ」
「二度とサボるつもりはありませんが、心にとどめておきます」
「偶には付き合ってくれると嬉しいのだけれど…あ、そうだ。時雨君に聞きたいことがあるんだった」
「はい、何でしょう?」
「私の髪に桜の花弁がついたのは、五限のときかい?」
「恐らく、そうだと思います。二度寝する前までは、何もついていませんでしたし…」
「そうか…危うくサボりがバレるところだったよ」
「すみません、気づいていたのに、言うタイミングを逃してしまって…」
「大丈夫さ、実際起こったことと言えば、保健室の先生に可愛いと言われただけだからね」
「そうだったんですか、でも確かにあの時の先輩はとても綺麗でしたよ」
「ハハハ、まったく、時雨君はお世辞がうまいね」
そういって先輩は、手に持っていた本で顔を隠してしまった。
「あ、そういえば読書の最中でしたね。邪魔をしてすみません」
「邪魔はされていないが、せっかくのおすすめだ、読書に戻ろう」
なんと!失敗したらしい、もう少し話すことができたそうだったのに。いらぬ気を遣ったことを後悔しつつ、鞄から本を取り出す。話した流れで隣に先輩が座っているせいか、いまいち上手く回ってくれない頭を晴らすため、僕は本へと逃避することにした。
一時間ほどたっただろうか、外は完全に暗くなり、窓を見ても、目に映るのは反射した僕と先輩の横顔だけである。先輩は少し前から机に伏せて寝てしまっていた。今日は、先輩がお眠な日らしい、微笑み…とはいっても実際は、にやけたような顔で先輩の顔を眺めていると、戸締り当番の先生らしき足音が聞こえてきた。
「先輩、起きてください、そろそろ先生が来ます」
「ん…ふぅ…おはよう、という時間でもないようだね」
「もう完全下校の時間ですからね」
「なるほど、この足音はそういうことか」
「はい、ですから、さっさと支度をしましょう」
「あぁ、起こしてくれてありがとう、時雨君」
「どういたしましてです。有栖先輩」
帰り支度とは言いつつも、制服のポケットに本を入れて鞄を背負うだけである。先輩の方を見ると珈琲用のあれこれを片付けていた。確かに、あれこそ先生に見つかってはいけないものか、迫る先生の足音にドキドキしながら傍観していると、ギリギリのところで間に合ったらしい。戸棚を閉めた数十秒後に先生が来た。
「おや、こんな遅くまで、珍しい。さすがの十文字も後輩が来て部活熱心になったのか?」
「あ、先生。まぁ、確かにそうかもしれませんねぇ」
「ハハハ、そこの君も厄介な部活に入ったものだね、えーと…」
「陸奥です。確かに、少し厄介ですけど…先輩のおかげで、楽しくやらせてもらってます」
「おぉ、なんて良い子なんだ…今からでも演劇部に来ないか?」
「先生!私の後輩を勧誘するのは勘弁してくださいよ!」
「ハハハ、すまないな、さて、完全下校時間だ。さっさと帰りなさい」
「は、はい」
「はい」
「綺麗なハモリだな、仲が良いのはいいことだ。東の階段は消灯してあるから、西から降りるように」
「さ、さようなら…」
「先生、鍵をお願いしてもいいでしょうか?」
「あぁ、勿論」
「時雨君、鍵を」
「あ、忘れてました。はい、お願いします」
「OK、任されたよ、じゃ、また明日」
「さようならです。時雨君もまた、明日」
「はい、さようなら!」
さようなら、と言った直後ではあるが、階段を下らなければいけない以上、しばらくの間先輩とは一緒に歩いていた。多少気まずくはあるが、それはそれとして、少々心地好くもある。また明日、あの先生の名前や、今まで気にも留めていなかった、顧問の先生の話を聞こう。そんなことを考えながら、先輩と一言二言交わして、僕は家路についた。